第41話 名前の継承
春の午後、街路樹のつぼみが少しずつほころびはじめていた。
その日、美奈は一人で市立図書館にいた。何かを探しているというより、ただ静けさの中に身を置きたかった。
陽射しが差し込む窓際の席。手に取ったのは、偶然目についた古い名前辞典だった。
ページを繰る指先に、昨日までとは違う感覚が宿っていた。
(私は、名前を与えられた)
(誰かの“代わり”として。……でも)
ページの中に、「美奈」という名前の項目を見つけた。
──美しく、やさしい調べを持つ者。
──人の心を映す鏡のような存在。
一行の語義が、胸に落ちてくる。
(この名前は、本当に私のために選ばれたのかな。
もしかしたら、誰かの記憶をなぞるために、与えられた名前なのかもしれない)
そう思いながらも、美奈は目を閉じた。
そして、ふと──あの手紙の最後に記された言葉を思い出した。
「あなたが、あなたとして生きてくれるなら、それでいい。
私は、ずっとあなたのお母さんだから」
ページの隅に、鉛筆で小さく印がつけられていた。
おそらく、昔ここを読んだ誰かの痕跡。
けれど、今の美奈には、それがまるで母の手のひらのように思えた。
(私は“美奈”として、もう一度生まれたんだ)
気づけば、静かに息を吐いていた。
その呼吸が、少しだけ胸の中を軽くした。
図書館を出ると、風が春の匂いを運んでいた。
ふと足が向いたのは、家から少し離れた古書店だった。
軒先のワゴンには、懐かしさを帯びた背表紙がずらりと並んでいた。
美奈はふと一冊の詩集に目を止め、手に取った。
──「名付け」とは、命を授ける祈りの儀式である。
その一文に、美奈の指が止まった。
ページをめくる。紙は少しざらついていて、乾いた匂いがかすかに鼻をくすぐる。めくるたびに微かな音がして、それが静かな古書店の空気に溶け込んでいく。
──名とは、記号ではない。
──それは存在の輪郭を与える言葉。
美奈は立ち尽くしたまま、本の頁を胸に当てた。
(私は、誰かの名を継いで生まれた。
でも今、この名に、私自身の意味を刻む)
古書店の奥から、店主の穏やかな声がした。
「その詩集、いいでしょう。私も昔、娘に贈ったんです」
「……そうなんですね」
美奈は、小さく微笑んだ。
その言葉のなかに、過去の断片ではなく、自分の声で選び取った“今の私”がいた。誰かに与えられた名前ではなく、その名で返事をする自分が、たしかにそこにいた。
家に帰ると、リビングに母・加世の姿があった。
「おかえり、美奈」
その呼びかけに、少しだけ間を置いてから、美奈は言った。
「……ただいま」
名前を呼ばれることが、こんなにも重くて、あたたかい。
まるで胸の奥に、長い間閉ざされていた扉がゆっくりと開いていくようだった。
胸の奥が、そっと震えた。
その晩、美奈はノートを開いた。
書きかけの『リバースメモリー』のページに、そっとペンを走らせる。
『リバースメモリー』より
わたしは 名前を与えられた
でも その名前に 意味を与えるのは
今を生きる このわたし
受け継いだ音 綴られた願い
その響きを胸に抱きながら
それを超えて 歩きはじめる
わたしの声で
わたしのまなざしで
風の中に立つ
ただひとつの 名前として
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