第37話 墓標の前で

午後、美奈はひとりで家を出た。


胸の奥にはまだ映像の残像が焼き付いていた。保育器のなかの赤ん坊、無言で囁かれた「ミナ」の名、そして──リバースという手書きのプレート。


(私のなにが、あそこにあったの?)


疑問は濁った水たまりのように、足元で波打っていた。


向かったのは、町外れの丘の上にある小さな墓地だった。祖父の墓があるその場所には、かつて父とともに訪れたことがある。


だが、美奈が立ち止まったのは、祖父の墓石ではなかった。


それよりも少し離れた、名も刻まれていない小さな墓標。


(この前、父がひとりで手を合わせていた──あの墓)


近づくと、野の草が風に揺れ、花の影が墓標の根元にかすかに残っていた。


誰のものとも知れないその石に、美奈は静かに手を重ねた。


(ねえ、あなたは……誰?)


問いは、心のなかで風に散っていった。


帰宅後、夕暮れのなかで父は庭に出ていた。


美奈は、躊躇いながら声をかけた。


「お父さん……あのお墓、誰の?」


父は、剪定ばさみを置き、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「……見に行ったのか」


「うん」


しばしの沈黙。


「昔、ひとつだけ……名前のない小さな墓を建てたことがある。

誰のためかって訊かれると……まだ、答えたくない自分がいる」


「でも、そこに手を合わせてた。

……何か、あるんだよね?」


父はうなずいた。


「そうだな。けれど、今はまだ……もう少しだけ、時間がほしい」


「“リバース”って言葉が、私に関係してることも?」


父は、少し驚いたように目を見開いた。


「……その言葉、どう思った?」


「最初は、ただの研究名かと思ってた。でも、最近は……“反転”って意味に近い気がしてる」


「なるほど」


父の目がどこか遠くを見つめるように細められた。


「確かに、過去を“反転”できるなら、人はどれだけの罪をなかったことにできるだろうな」


その言葉の温度に、美奈の胸がざわついた。


「お父さんは、そのために何かを“反転”したの?」


父は答えなかった。ただ、静かに目を伏せた。


その沈黙の重さが、美奈のなかに何かを沈ませた。


(“反転”じゃない。“再生”かもしれない。

でも、それは──何を、誰を……)



『リバースメモリー』より

 名も きざまれぬ 石の前

 風は おしえてくれない

 声も なかった その存在に

 わたしは なにを 重ねているのだろう

 ひとつだけ 願えるなら

 この手のひらが その名を呼ぶ日がきてほしい

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