第17話 小さな墓標

 日曜日の朝、雲の切れ間から陽が差し込んでいた。風はまだ冷たかったが、光だけは確かに春のものだった。


 美奈はひとりで墓地へ向かった。祖父の墓に手を合わせたいという気持ちもあったが、それ以上に、あの光景が忘れられなかった。


 数日前、父と訪れたあの場所。墓石の並ぶなかに、ぽつんと置かれた名もない小さな墓標。


 父は何も語らぬまま、その前で黙って手を合わせていた。


 その姿が、美奈の胸に焼きついていた。


 石畳を踏む足音が響く。人の気配はなく、鳥の鳴き声だけが空に消えていった。


 祖父の墓前に立ち、合掌を終えると、美奈はゆっくりと例の墓標の前へ向かった。


 そこには、前に来たときと同じように、名も日付も刻まれていない石が、春の光のなかにひっそりと佇んでいた。


 ただひとつ違っていたのは──


 墓標の根元に、数本の野花が挿してあったことだった。


 きれいに整えられたそれは、最近誰かが訪れた証だった。


(お父さんだ)


 美奈はすぐにそう思った。母ではない。祖母でもない。あの花を手向けたのは、きっと父だった。


 ひざを折り、墓標の前に座り込む。


 花に触れる。指先に伝わる冷たさと、柔らかさ。


 ──誰のための墓なの?


 聞いてはいけないような気がして、ずっと胸の奥に沈めていた問い。


 美奈はそのまま小さな声でつぶやいた。


「……わたし、あなたのこと、知らないんだ」


 墓標はもちろん答えない。


 でも、その静けさが、かえって美奈の中の声をはっきりと浮かび上がらせる気がした。


(この墓標が、震災と関係しているとしたら……)


 ふと、そんな考えがよぎった。


 犠牲者ゼロと報じられたはずのあの日。けれど実際には、誰にも知られずにここに眠る誰かがいたのかもしれない。


 その思いは、根拠のない推測にすぎなかった。でも、美奈の胸の奥に、静かに重たく沈んだ。


 墓標の沈黙が、美奈の中にたくさんの言葉を呼び起こしていた。


 午後、美奈は帰宅した。


 靴を脱ぎ、廊下を進んでリビングの扉に手をかけたとき、中から父と母の話し声が漏れ聞こえた。


「……墓には、行ったのか?」


「ええ。やっぱり気になってたから」


 母の声が返る。


 しばらくの沈黙。そして父の、ため息まじりの声。


「俺も、そろそろ話さなきゃと思ってた」


 美奈は、その言葉に思わず扉の前で立ち止まった。


 手のひらがじっとりと汗ばむ。


 そのとき美奈の耳に届いた声は、どこか決意と、ためらいが入り混じっていた。


 父が、話そうとしている。


 なにか、大事なことを。


 リビングの扉の向こう側にある沈黙が、まるで前兆のように、美奈の胸に静かに広がっていった。



『リバースメモリー』より

 言葉にされなかった記憶が、

 風景のなかに、かたちを変えて残っていることがある。

 それを拾い集めることでしか、

 前に進めないときがある。

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