第6話 夜明けのリブート
保健室の東窓が、東雲 (しののめ) 色の光で縁取られた。
夜はかろうじて残った星屑を手放し、校庭の桜は淡い風に花弁を揺らす。点滴モニターの青いランプが再び点滅し、規則正しい波形が電子音を立てるたび、僕――一瀬蒼真――は自分が “ここ” に在ることを確かめた。
半身を起こし、指を見つめる。まだ少し輪郭が薄いが、昨夜のように崩れ落ちる気配はない。皮膚の下を血が流れる実感が戻るたび、胸に静かな火が灯る。
そのとき枕元のカーテンが揺れ、朝霧灯花が寝癖を気にしながら紙コップの白湯を差し出した。制服の袖に乾いた絵具の跡が残り、薄く隈の浮かぶ目元も笑顔にゆるむ。
「おはよう、蒼真くん」
たった一言で、胸の奥に結び目が生まれる。彼女の名前を覚えている。世界に繋がる碇がちゃんと残っている――その事実が、この朝の光より温かかった。
◆ ◆ ◆
椅子に腰を下ろした二階堂律は、タブレット端末で計測数値を確認しながら淡々と話し始める。
「存在領域の欠損率は十一・四パーセントまで回復。〈空白〉との共鳴は残るが、急激な溶解は止まった。君はいま “退院可能な幽霊” くらいの密度だ」
妙な譬えに苦笑が喉で絡む。声を出すと、かすかな痛みが痕跡のように残った。
律が保健室のロッカーから小さな金属ケースを取り出すと、中には手の平サイズの銀円盤が収まっていた。
「因果リミッターだ。ペンの出力を三段階に制御し、代償レートを百分の一以下に抑える」
中央にはインク壺のアイコン、その周囲に刻まれた三つの青いLED。律は慎重に万年筆の封印ワイヤーを解き、円盤の溝へ差し込む。静かなクリック音と同時に、黄金の軸が淡く光りを走らせた。
「レベル1――安全域、解放」
ポケットの奥でペンが脈打つ。以前の甘い誘惑は消え、代わりに冷たい理性の声が耳奥をくすぐった。
〈出力 抑制完了。プロトコル v1.3 承認〉
無機質だが、どこか安堵を帯びた語調。ペン自身が鎖を望んでいるかのようで、皮肉に思えた。
◆ ◆ ◆
午前七時半。廊下には登校する生徒たちのざわめきが徐々に満ち、保健室の窓から差し込む光も勢いを増す。
僕は制服の皺を伸ばし、灯花と律に背中を押されるように立ち上がった。
「歩けそうか?」
律の問いに頷く。足裏が床を踏みしめる感触――世界へ名前を書くような確かさがあった。
廊下へ出ると、春先特有の微かな埃とチョークの匂いが鼻腔を満たす。僕は胸ポケットを押さえ、灯花と並んで昇降口へ向かった。
途中、クラスの男子が振り返り「おう一瀬、大丈夫か?」と声をかけてくる。昨日は僕の存在を認識できなかったかもしれないその友人が、今日はしっかり瞳を合わせてくれる――その些細な出来事が涙ぐむほど嬉しい。
靴箱の並ぶホールで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。雨宮慧斗だ。
声をかけると、彼は思いのほか元気な笑顔で応じた。
「先輩! 聞いてくださいよ、クラスの連中、今日も普通に接してくれて……なんか怖いくらいです」
彼は頬の薄い傷跡を指でさすり、けれど目元には昨日までの怯えがない。
「それが普通なんだよ。少しずつ慣れろ」
昨日の“奇跡”は維持されている。胸の奥でリミッターのLEDが確かに灯り続けるのを感じた。
◆ ◆ ◆
朝礼まで残り十五分。教室の空席を見つけ、灯花と並んで腰を降ろす。
「ねえ蒼真くん」
灯花がささやく。「制限使用」を選んだあと、彼女は何度も僕を止めようとしたのに、今は静かな決意を宿した目で前を向く。
「もしペンが暴走しかけたら、私が止めるから。もう独りで抱え込まないで」
心臓がひどく揺れた。名前を守ることは、彼女を失わないことと同義だ。
僕は小さく頷き、手を伸ばして彼女の指先に触れた。切れそうで切れない糸のような接触だったが、それだけで十分だった。
◆ ◆ ◆
始業チャイム。担任の出席が始まる。
「一瀬」
呼ばれた名に「はい!」と返事をすると、今度は担任が小さく頷きそのまま次へ進む。
返事が届いた。記録に残った。――たったそれだけの出来事を、胸の奥で何度も再生した。
授業中、隣の席から委員長が小さなメモを滑らせてくる。
《昨日はどうした? 保健室って聞いたけど》
僕はシャープペンで〈ちょっと貧血〉と書いて返す。
《無理すんな。来月の球技大会、バスケのメンバー、頼りにしてるから》
思わず笑ってしまった。ペンの代償で少し削れた世界は、誰かのちょっとした言葉でこんなにも満たされる。
◆ ◆ ◆
昼休み。灯花は美術準備室へ向かい、僕は購買部へ並ぶ。
パンを二つ買い、絵具の匂いの漂う準備室に入ると、彼女はキャンバスと向き合っていた。夜桜の下絵は縁の焦げ跡さえ修復され、深い群青の空に灯る街の光が重ねられている。
「少しだけ、描き直せたんだ」
灯花は振り返り、少し照れたように笑った。
「でも、ここ……」
指差した部分がまだ荒いタッチのままだ。
「見た風景なんだけど、色が思い出せなくて」
僕は絵具皿を覗き込み、まだ開けていないコバルトブルーのチューブを手に取る。
「未完成の部分は、これじゃないか?」
不思議と色のイメージが浮かんだ。灯花が驚いた目で僕を見る。
「その色……確かに近い。覚えてくれたんだ」
大事なものを守れた手応えが、胸に小さな火をともした。
◆ ◆ ◆
放課後、購買パンの残り片方を食べながら昇降口を出ると、律が校門前で待っていた。
「リミッターの動作は安定。冴子はしばらく動かないだろう。だが君の欠損はまだ二桁だ。次の対応策を練る必要がある」
彼は手帳型の端末で地図を示す。
「週末、組織本部で正式に〈空白〉の監査を行う。灯花さんと慧斗君も同席を……」
その瞬間、胸ポケットの万年筆が微かに震えた。
〈監査 承認。ログ追跡開始〉
自らの意思で応答するペンの声は、かつての冷たい囁きではなく、どこか眠そうな子猫のように丸い。
僕はペン軸をそっと撫で、律を見る。
「行くよ。もう逃げない」
夕陽がインクのような群青を溶かし、空の余白を深めていく。
僕たちはその余白に、まだ見ぬ続きを書くため歩き出した。
(第6話 完。――第二章へ続く)
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