第5話 欠落者たちの休息
夜は深く、保健室の窓には校舎裏の桜が影絵になって揺れていた。
天井の蛍光灯は消され、点滴モニターの青いLEDが脈拍のように瞬く。隣の簡易ベッドでは朝霧灯花が制服のまま丸くなり、かすかな寝息を立てている。絵具が乾いたハンカチは僕の胸元に置かれ、かすかなローズマダーの香りが夜気に溶けていた。
その香りが、薄れゆく記憶の海で灯台の灯になっている。名前を忘れぬよう、僕は彼女の名を何度も心の奥で唱えた。
――灯花。灯花。灯花。
声にならない呼びかけが、ほどけかけた自己の輪郭を縫い留める糸になる。
足元の椅子に腰かけた二階堂律は、タブレット端末に走るコードを確認しながら短く息を吐いた。
「冴子は〈空白〉を奪えず退いたが、今夜中に再襲がある。彼女は“因果の帳尻”を執拗に求めるタイプだ」
僕は枕元のカーテン越しに耳を傾ける。言葉は理解できるが、意味の輪郭が曖昧ににじむ。
「……俺は……どれくらい、残ってる?」
かすれた声で尋ねると、律は視線を上げて無表情に答える。
「存在領域の欠損率、三十三パーセント。次に書けば五十を超え、君は世界の“欄外”へ転落する」
欄外――聞き慣れない専門用語が、凍った水滴のように胸に落ちる。灯花を救う一行で、ここまで削れた。次は半分以下。
怖い、と思うよりも先に、奇妙な空虚が広がった。感情の発火点が鈍く、心拍は水底の鼓動のように遠い。
◆ ◆ ◆
午前三時。保健室の扉がきしみ、律が無線イヤホン越しに誰かと短い会話を交わす。
「……了解。南棟の非常口は封鎖。東側からの接近も探知なし」
彼は端末を閉じ、僕のベッド脇へ戻る。
「監視網は張ったが、冴子は“因果転移”で現れる。物理的な防壁はあまり意味がない」
「なら……どうやって、守るんだ」
「君自身の“記名”を固着させる。存在は名前で世界と接続している。欠落前に最も強い署名を上書きするしかない」
律は万年筆を指差した。封印ワイヤーはまだ光を帯びているが、結び目に細いクラックが入っている。
「ペンは君と共鳴したまま。封印は夜明けまで保たない。だが逆に言えば、君が自分の名前を書けば、存在を上書き固定できる」
胸の奥がざわめく。
「……代償は?」
「署名に使うのは“自分”だ。君の過去のいくつかは上書きされ、二度と戻らない。それでもやるか?」
静かな問いに、喉の奥が乾く。選択を迫られるたび、何かを失う――それが〈空白〉の本質だ。
灯花の寝顔を盗み見る。頬に絵具の赤がかすかに残り、まつ毛は震えながら夢の入口を守っている。
彼女の名前だけは、失いたくない。慧斗の涙も、母の笑顔も、本当は全部捨てられない。けれどすべてを守るほど、もう僕は残っていない。
覚悟を固めかけた瞬間、点滴ランプが消えた。電源は落ちていない。暗闇の中で青い光だけが吸い込まれたように消える。
保健室の窓が鏡のように黒く光り、その中心に黒インクが染み込む円が拡大する。輪の縁は歯車の歯形、冴子が開く“転移口”だ。
◆ ◆ ◆
律が棘のようなナイフを構え、僕のベッドを庇う位置へ滑り込む。
黒い輪から、赤いハイヒールがひとつ抜け出す。冴子は夜会服のようなコートを羽織り、万年筆を覗く金色の眼差しでこちらを見やった。
「まだ返してくれないの? あなたの存在はもう三割。美しい余白じゃない」
言葉と同時に、転移口の奥からもうひとつの影が現れる。冴子の背丈ほどもある羊皮紙の“帳簿”だ。そこには無数の赤黒い行が並び、誰かの名前が欠損した箇所が白く空いている。
「帳尻を合わせるわ。あなたの“一瀬”という行を、此処で白紙にして」
冴子が帳簿へペンをかざす。
律が跳躍し、ナイフを振るうが、帳簿を盾にした冴子は転移口を滑るように後退する。
僕は身を起こし、封印されたペンを握りしめた。
――今書け。自分の名前を。
ワイヤーの裂け目に爪をかける。金属は熱を帯び、皮膚を焼いた。
灯花が目を覚まし、状況を理解するより早く僕の名を叫ぶ。
「蒼真! やめ――」
彼女の声がトリガーだった。
ワイヤーが弾け、ペン先が白い火を灯す。
《此処に、“一瀬蒼真”を刻む》
僕の筆致は震え、空中に書いた一行は宙で燐光を散らす。冴子の帳簿が悲鳴のように紙を裂き、欠損の行が鮮紅で染まった。
同時に胸を杭で打たれたような痛みが走る。頭蓋が焼け、いくつもの記憶が灰になって剝がれ落ちる。母の誕生日が消え、好きだった漫画の台詞が抜け、空いた穴に灼けた鉄の杭が刺さる。
けれど――名前は残った。
灯花の瞳に映る僕の輪郭が濃くなり、律の端末が存在領域欠損率「一二%」と更新を弾く。
冴子は歯を食いしばり、帳簿を閉じると転移口へ戻った。
「いいわ……次はあなたが書いた“余白”をいただく」
黒い輪はひとしずくの墨を落とすように収束し、夜の窓に桜の影だけが戻った。
◆ ◆ ◆
封印し直した万年筆を手放し、僕はベッドへ倒れ込む。灯花が手を握り、律が静かに頷く。
「記憶の欠落は続くが、存在は固定された。夜明けまで保てば回復の芽はある」
僕は頷き、灯花へ微笑もうとした。しかし唇が震え、どうしてもひとつ尋ねずにいられない。
「……あの、絵……あれは、どんな絵だった?」
灯花は一瞬きょとんとしたあと、悲しげに笑った。
「桜と夜景を重ねた、私たちの町。覚えてないの?」
覚えていない。さっき失った欠片のひとつが、それだと悟る。胸が軋み、涙腺がにじむ。
だけど名前は残った。灯花は僕を“蒼真”と呼び、僕はその音がまだ自分と世界を繋いでいると感じる。
窓の外、東の空がわずかに白む。夜明けまで、あと二時間。失われたものと残ったものの境界線が、薄桃色に染まり始めていた。
(第5話 了)
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