第二章 歪んだ帳簿と因果監査

第1話 因果監査の門

 雲ひとつなく晴れた土曜日の朝。校門前の歩道には、まだ休日部活へ向かう生徒がちらほらいるだけで、普段の喧騒はない。

 けれど正門をくぐった瞬間、制服姿の青春は背後に置き去りになり、無機質な緊張が空気を占めた。アスファルトに立つ革靴――胸のIDカードには銀色で刻まれた〈IFRB/因果監査局〉。スーツ姿の監査官が三人、金属探知ゲートを携え静かに待っていた。


 先頭に立つ二階堂律が受付票を示し、僕と朝霧灯花、そして一年生の雨宮慧斗を紹介する。

「本日午前九時、特別分室にて〈空白〉および所有者の暫定登録を行います」

 曇りのない声。監査官がうなずくと、ポータブルスキャナが僕たちの掌紋と網膜を読み取った。許可ランプが緑に変わるまで、息を潜めるように立つ時間がやけに長い。


◆ ◆ ◆


 理科棟裏手の非常扉から地下へ下る階段は、夏でも霧が出るという噂のある場所だ。今日は霧の代わりに、地下換気口から冷たい空気が吹き上がり、背筋に縦線を描いた。

 薄暗い通路の突き当たりに、張り替えたばかりのクリアパネル壁。改装前は古い倉庫だったと信じられないほど、足音が反響を吸う静かな床材が敷かれている。


 網膜スキャン。虹彩を照らす緑光が一瞬視界を白く染め、扉が無音で左右へ開く。

 真白なホールは天窓もなく、青白いLEDが昼夜を忘れさせる。壁際のラックには、手の平サイズの透明ケースが整然と並び、それぞれ黒と金の万年筆が封印タグとともに収められている。濃密なインクの甘い匂いと、金属を焼いたようなオゾン臭が混ざり、軽い酩酊感を誘った。


「これが……全部〈空白〉?」

 灯花が息を呑む。監査官の女性がタブレットを掲げたまま答える。

「国内で回収済みが二十八本。推定総数は七十超。年代、製法は不明だが、最古の記録は明治初期──“筆記器具の怪火騒動”と呼ばれる新聞記事だ」

 慧斗が喉を鳴らし、僕は思わず汗ばんだ掌をズボンで拭う。


 ホール中央、リング状コンソールに律が僕の万年筆をセットする。因果リミッターのLEDが淡く脈打ち、空中に薄いホログラムシートが展開された。

「所有者:一瀬蒼真。リミッター設定:レベル1。ログ公開」


 半透明のスクリーンいっぱいに、僕の“三行”が浮かび上がる。白い壁がわずかに青を帯び、行ごとに赤と青の数値が揺れていた。


1.《明日、雨宮慧斗のいじめが終わる》


2.《この火は風に吹かれ、ただの灰になる》


3.《此処に、“一瀬蒼真”を刻む》


 三行目の代償率バーは他の二行をはるかに凌ぐ高さで赤く光っている。

 監査官の男性が眉をひそめて呟いた。

「自己署名で欠損を止めたケースは世界でも六件。ほとんどは“書き手”が正気を保てず終了する」

 灯花がそっと僕を見上げる。その視線に、僕はわずかに背筋を伸ばした。


◆ ◆ ◆


 監査手続きは想像よりはるかに細かかった。

 慧斗には「自分が書き換えの影響を受けたことを自覚・承認する」旨の誓約書が渡される。彼は震える手で項目を確認し、僕に小さく会釈してからサインした。

 灯花には「今後のモニター協力」の念書。彼女は悩んだ末、「蒼真くんの力になれるなら」と即決で署名した。


 書類を処理する間、天井の空調音だけがホールに流れ、僕は万年筆の脈動をじっと感じていた。怖い、よりも先に「まだ終わっていない」という直感が胸を叩く。


◆ ◆ ◆


 手続きが一段落した正午過ぎ。律が署名済みPDFを上層へ送信し、「これで正式に管理下」と端末を閉じた直後、ホールのLEDが瞬き、すぐ赤に切り替わった。警告音は低く長く、地鳴りのように壁を震わせる。


『警告。未登録〈空白〉の因果干渉を検知――座標:当施設上空、高度三○メートル』


 天井のパネルに真紅のリングが浮かび上がる。ホールの気圧が変わり、耳がツンと痛んだ。

「来たか……早すぎる」律が舌を打つ。「冴子だ。帳簿で外から撹乱波を撃ち込む気だ」


 監査官たちが一斉に動き出す。壁のラックが引き込み式の鉄壁に変形し、床に六角形の遮蔽プレートがせり上がる。ホログラム装置は防壁フィールドを展開し、空気が静電気混じりの匂いを帯びた。


 胸ポケットでリミッターが震える。

〈外部撹乱波 レベル3 安全域超過〉


 灯花の手が僕の袖をつかむ。僕は彼女の熱を感じながら、律を見据えた。

「――書く必要があるか?」

 律はホログラムパネルを操作し、円盤のLEDをレベル2へ上げた。

「防壁の補強か、撹乱源の座標ずらしか……最小の一行で切り抜ける。代償は数%で済むはずだ」


 万年筆が淡く蒼い光を帯びる。

 囁きは以前の甘い誘惑ではなく、静かな問いかけに変わっていた。


〈書くか? 書かないか?〉


 高窓のない天井から、雷鳴のような衝撃音。桜の花弁が真空に吸い込まれるように舞い込み、赤いリングがさらに一段階、深紅に変色した。

 ホールの照度が落ち、防壁フィールドの水色グリッドが揺らぎ始める。撹乱波が干渉層を圧し潰しに来ているのだ。


 僕はホログラムシートを掴み、深呼吸した。

 書くのは「防壁の強度を三倍にする」か、「撹乱波を三十秒前へ時間遡行させ打ち消す」か。どちらも代償はまだ未知数だが、外の生徒を巻き込むよりはましだ。


 心臓が跳ねる。“余白”はあとわずかしか残っていない。けれど、守るべき名前と未来は増え続けている。

 囁きが再び聞こえた。


〈決めろ。時間は薄氷〉


 僕はペン先を掲げ、白いシートに金の線を走らせた。


《撹乱波を、三十秒前の空域へ押し戻す》


 書き終えると同時に、万年筆が蒼白い火花を散らし、シートの文字が霧状に溶けて天井へ吸い込まれる。フィールドのグリッドが一瞬で輝度を増し、真紅のリングを押し返した。撹乱波は逆再生の映像のように渦を巻き、桜の花弁を引き連れて上空へ巻き戻っていく。


 ホールを満たした圧力が抜け、警報が沈黙した。LEDは白へ戻り、床の遮蔽プレートが静かに下降する。

 万年筆の脈動は落ち着いたが、胸の内側を氷の指で撫でたような冷感が残った。


 律がモニターを確認し、代償率を読み上げる。

「……二・八%上昇。欠損率、一四・二%」

 数値そのものは小さい。それでも確実に僕の“在りか”は削られていた。


 灯花がほっと息を吐きながらも、僕の手を離さない。

 高鳴る鼓動がようやく落ち着いたころ、ホールに散った桜の花弁が床で静かに揺れ、朝に見た青空の色を思い出させた。


 帳尻狩りの魔手は退いたが、次はいつ、どこから伸びるかわからない。

 けれど僕は万年筆を握りながら、小さく息を吐いた。――まだ書ける。必要最低限なら、まだ未来を守れる。


 白いホールの天井を見上げると、照明のLEDが一列だけ、微かにインク色の蒼を帯びて揺らいでいた。


(第2章 第1話 完)

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