3-8
一瞬、空気が凝固し、誰もが呼吸困難に陥る。
それを解きほぐすのは、奥さまの笑んだ
「未散が言いたいことも、わたしは分かってる。あなた、この人のご両親に、いろいろ聞かされたんでしょう」
社長も未散さんも、だんまりを決め込む。
奥さまは、それでいいと話を続けた。
「わたしと、この人のご両親。未散は信じたい方の話を信じなさい。でもわたしがこれから話すのは、少なくともわたしの目から見た真実」
すでに冷めきっている湯呑みで口を潤わせた奥さまに、怖いものなんてもう何もない。わが子を失ったその先の人生に比べたら、きっと何も。
母とはこういうものなのだろうと、私はうすらぼんやりと理解した。
「上の子は蜂蜜を食べたことによるボツリヌス菌で中毒死したの。でもわたしはそんなもの、食べさせたことがなかった」
「じゃあ、誰が?」
「さあね。ただその日は、この人のご両親が昼食を作ってくれると言ってくれたの。上の子の離乳食に、ミルクで煮たパンのおかゆも作ってくれた。その日、というかそれ以前からうちに蜂蜜なんてなかったのよ。おかしいわよね。どこから出てきたのかしらね。どうしていきなりうちの冷蔵庫に、蜂蜜の瓶があったのかしらね。ねえ、どうして上の子は蜂蜜を食べて、ボツリヌス毒素にあたってしまったのかしらね」
奥さまは、どこか遠いところを見ていた。
「下の子はね、この人のご両親が散歩に連れて行ってくれた先で死んでしまったの。ほら、一応会社の権限をこの人に譲ったとはいえ、会長職にある人たちだから……。狙われたのね、きっと。猛スピードで走ってきた車に跳ねられて、お義父さんもお義母さんも骨折の重傷を負ったの。お義母さんが抱いていた下の子は、サイドミラーが頭を直撃してね、首がねじれていたそうなの。転んだ衝撃とお義母さんに押しつぶされて、内臓は破裂していたそうなの。その子だけが死んでしまったの。この人のご両親は重傷を負っても生きていたというのにね」
「……二番目のお姉ちゃんは、お母さんと事故に遭ったっておばあちゃんは言ってたのに」
「調べればすぐに分かることだから、わたしは話すしかしない」
未散さんの視線を受けて、私はつがる愛用のタブレット端末を借り受けた。単語を並べて、キーワード検索をかける。遠い過去の事件とはいえ、有名企業の会長たちが事故に遭えば、今でも残っていた。もっとも、抱いていた孫娘が死んでいたともなれば、危険運転致死傷罪も適用されかねない重大悪質事件でもある。
「なんで……」
「わたしの産んだ子が、男じゃなかったからよ」奥さまはお茶をすすった。「跡取りはね、男なの。そうと決まっているの。誰が決めたのかしらねそんなこと。男じゃなきゃだめなんて、いったい誰が決めたのかしら。わたしは決めてない。跡取りなんてどうだっていい、とは言えないけれどね。この人と結婚した以上、そうしたものに関わり合いにならざるを得ないのは分かっていたから。でもね、男でも女でも、跡取りになりたいと言えばなれる時代じゃない。今は、そういう時代じゃないかしら。そういう時代になっていくものだと、わたしは思っていたの」
時代錯誤は誰だ。
「わたしはそういう時代に生きるあなたみたいな子の、礎にでもなれたらそれでよかった。わたしが生きている間に時代が変わらなくても、その土台になれたらよかったの。でもね、それ以前の人たちには、通用しないの」
「お母さん」
「あなたが、心の中だけでも女だってことを知られたら、わたし――また子どもを殺されるかもしれないって思ったら、ねえ、未散……違うの、本当にごめんなさい」
湯呑みを握りしめて、割った。奥さまは、そして長机に突っ伏した。
「お母さん!」
嗚咽を漏らす母に、未散さんは駆け寄った。その背中にすがりつきながら、第三者には理解しがたい首を振る行為だけで、なんとか思いを告げようと、届かないけれど、それでも必死に奥さまに語りかけていた。
自分の子が、本当は娘だと訴えても、そうか――奥さまはどうしても認めてあげるわけにはいかなかった。自分がそうであると認めた瞬間に、忍び寄ってくる魔の手がある。二人の子を守りきれなかった奥さまは、決めたのだろう。
自分が悪者になってでも、子を守ると。
「社長さんは気づいてなかったのか」
下請け技師のぞんざいな口の聞き方も、憔悴していた社長は気にも止めない。
「つながりを絶つように、何度か……」
「けど親だもんな、あんたには。そんな孫殺しのろくでなしでも、親は親だもんな」
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