3-7
隙を見計らって、未散さんは動いた。どこへ行くのかと思えば、私のそばにやってきた。
「秘書さん、お願い助けて」すがるまなざしには涙が浮かぶ。「わたしのこと連れて行って」
「あのね、未散さん、私はもう秘書じゃないんです」
「知ってる。でもそんなのどうだっていいの」
「……私は人を殺したんですよ」
「それも知ってる。でもわたしもおんなじ。わたしだって男の自分を殺したんだから」
事故じゃない、自分を殺す。それも高級スポーツカーという男性性の象徴を破壊しつくすことで、自分の男の体とともに永遠まで葬り去る。自分の身についていた、男の名残さえすべて燃やしてしまおうとして。
浅はかな子だ。見境が何もない。目の前の少女の髪をなでる。生前の男だった未散より、ずっと柔らかな髪質をしている。病院に遊びに来たこともあったから、本当に、私はこの子をよく知っていたはずだった。
「自殺して、全部終わらせようと思っていたんですか」
「だって誰も分かってくれないの! ありのままの君でいいなんて、そんな上っ面の言葉なんて欲しくない。わたしの何を知ってありのままなんていうの。バカみたいじゃない。ありのままのわたしは女のわたしなの。それなのにみんな、そのままでいいって同じことの繰り返し! わたしはありのままがもうイヤなの」
「じゃあどうして生き返りたかったんですか」
その意志がなければ、いつまでもこの世にとどまってなどいない。
ましてや、実家の自分の部屋なんて限られた空間に、どうしていたのか。
威勢を失った未散さんは、口をまごつかせながら視線を泳がせる。
「本当はお母さんに分かってほしいんじゃないんですか」
「でもさっきの聞いたでしょ」奥さまの様子をうかがおうとして、顔を戻す。「何を言っても通じない。……言葉が通じないのかもね」
「言葉が通じないんじゃなくて、お互いがお互いの別々な顔に向かって話しかけているんですよ」
「……秘書さんに何が分かるの」
そっぽを向く少女は、理解を放棄していない。自らの理解を望んでいるのだから。
「分かりませんよ。私は生まれたときから親がいなかったので、夜光学園に入れられたんです。上流階級のあなたなら知ってるでしょう」
「……伴侶のために一生を尽くす人材育成機関」
「家族愛に飢えた子どもに家族を与える代わりに、その一生をすべて家族に捧げるんですよ。私たちは」
夜光学園は、孤児を引き取り二十歳になるまで養育する。二十歳になれば卒業と同時に結婚。その相手は国内外の一流企業の社長や幹部にはじまり、世界を飛びまわるシェフや芸術家、スポーツ選手などが当てられる。結婚後は伴侶を支えるための人生になるのだが、家族を持たずに過ごしてきた私たちにとって、生まれて初めて持った家族のためならばなんでもしてあげたいという気持ちが育てられている。自分のやりたいことはすべて、伴侶のためになること。そう教育させられてきた。不満なんてなかった。だって卒業すれば家族ができる。ただそれだけのために、いい妻になろう、いい夫になろうと切磋琢磨し、私たちは様々なことを学習した。
そういうところで育ってきた私には、生まれたときからそばにいてくれる家族を捨てようとするこの子の意思を汲むのが難しい。
「仲違いをするなとは言いません。分かりあえるまで話し合ってほしいと思います」
「平行線だよ」
「平行線って、ようは地球の水平線をもとに作られたわけじゃないですか。でも地球は丸いんですから、いずれどこかでぶつかるかもしれないでしょう」
決して交わらないと思われていた二つの線も、人の一生をかけて引き続けたらいつか、どこかで顔を合わせることがあるかもしれない。
「親を知らない私は、そうであってほしいと思います」
そうである、と最近は特に思う。与識先生と息子たちを見ていると、この人たちは平行線を歩いていたはずなのに、いきなり直角に折れて線を交わらせる。かと思えばすぐに離れていってしまう。そしてまた、いつでも交われる距離で、家族のそばで歩き続ける。
「未散」
優しげではなかったけれど、奥さまの呼びかけに、未散さんはぐっと空気を飲み込んだ。
「あなた、お姉さんが二人いた話は聞かせたでしょう。どちらもはやくに亡くなった」
「知ってる。でもなんで写真も何もないの。……女の子だから?」
「殺されたからよ」
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