第7話:第二層の静寂
装備と回復薬の準備を終えた翌日、俺は満を持してダンジョン管理棟を訪れていた。目的はただ一つ、第二層への探索許可申請だ。第一層の素材だけでは、装備の本格的な強化には限界がある。より深く、より危険な場所へ――それが、目的を果たすための最短ルートだった。
平日の昼間にもかかわらず、庁舎のロビーは多くの冒険者でごった返していた。俺が足を踏み入れても、誰も特に気にした様子はない。数日前に俺が叩き出した記録は、まだ彼らの耳には届いていないようだった。俺はその他大勢の冒険者たちに紛れ、申請受付カウンターへと向かった。
「第二層への探索許可をお願いします」
「はい、承知いたしました。IDカードを拝見します」
受付の職員は、俺の顔に見覚えがあるのか少しだけ驚いた表情をしたが、すぐに事務的な手続きに移った。数分後、俺のIDカードには第二層へのアクセス権限が追加される。
「手続きは以上です。第二層からはゴブリンの個体数が増加し、連携攻撃を仕掛けてくるようになります。どうか、ご安全に」
「ああ」
俺は短く応えると、カウンターを離れた。誰にも注目されないこの状況は、実に快適だった。俺が求めているのは名声ではない。実利と、目的達成のための確実な前進だけだ。
ダンジョンゲートへと向かう通路を歩いていると、ふと、聞き覚えのある軽薄な声が耳に入った。
「うっわ、マジかよ! おい、あれ、日向じゃねぇか?」
その声を聞いた瞬間、俺の足がほんのわずかに止まった。思い出したくもない、高校時代の記憶の片隅にこびりついた声。脳が認識するより先に、身体が不快感を覚えていた。
振り返ると、案の定、そこに立っていたのは村瀬翔太だった。高校時代の元同級生。スクールカースト上位のグループに属し、他人を見下すことでしか自尊心を保てない、浅はかな男。彼の周りには、同じデザインの制服を着た数人の若者たちがおり、村瀬がリーダー格であることが窺えた。その制服の胸元には、大手ギルド『アイアンルート』の紋章が刺繍されている。
「いや〜、マジかよ、生きてたんだなお前。五年前に行方不明になったって噂で聞いてたけど……なるほどな、こんな所で底辺ソロ冒険者やってたのかよ」
村瀬は、俺が身につけている中古だが機能的な装備を値踏みするように見下し、取り巻きたちと共に嘲笑を浮かべた。俺が異世界で何をしてきたかなど、知る由もない彼らにとって、俺は今もなお「格下」の存在なのだろう。
正直、関わること自体が時間の無駄だった。今の俺にとって、村瀬は道端の石ころ以下の存在だ。だが、彼の次の言葉は、俺の逆鱗に、ほんのわずかに触れた。
「まあ、見ての通り、こっちは今、大手ギルド『アイアンルート』の新人育成隊でリーダーやってんだわ。今日は新人どもの実地訓練で、第二層のゴブリンチーフを狩りに行く。お前みたいな無所属のソロじゃ、ボス部屋にたどり着くことすら無理だろうがな。せいぜい、雑魚ゴブリンに殺されないよう、気をつけるんだな!」
その言葉に含まれる、根拠のない優越感と、俺の命を軽んじる響き。異世界であれば、その一言で命を落とす人間を、俺は嫌というほど見てきた。
「……そうか」
俺は、何の感情も込めずに、ただそれだけを呟いた。怒りも、侮蔑もない。ただ、絶対的な無関心。それが、今の俺が彼に示すことのできる、最大限の反応だった。
「せいぜい、足元に気をつけろよ」
俺は忠告とも取れる一言を残し、彼らの横を通り過ぎて第二層へと続くゲートの奥へと消えていった。背後から「強がりやがって!」という村瀬の嘲笑が聞こえたが、俺の心にはもう届かなかった。
◇ ◇ ◇
ゲートを抜けた先――第二層は、ゴブリンたちの縄張りだった。
第一層の整備された通路とは違い、岩肌が剥き出しの洞窟が迷路のように広がっている。湿った空気、カビと獣の糞尿が混じった悪臭、そして遠くから聞こえる甲高い鳴き声。異世界で何度も潜った、ありふれたゴブリンの巣穴の光景だった。
俺は壁際に身を寄せ、気配を完全に殺した。異世界で暗殺任務や潜入作戦をこなしてきた俺にとって、気配遮断は呼吸と同じレベルの技術だ。風の流れを読み、岩の影を渡り歩き、足音一つ立てずに洞窟の奥深くへと進んでいく。
道中、ゴブリンの斥候や見張りと思われる個体に何度も遭遇した。だが、彼らが俺の存在に気づくことは、一度もなかった。俺は彼らの死角に回り込み、音もなく首筋にショートソードを突き立てる。あるいは、投げナイフで眉間を正確に射抜く。いずれも一撃。彼らが警報を上げる暇さえ与えない。
ゴブリンの警備網など、魔王軍のエリート部隊に比べれば、あってないようなものだった。彼らの巡回ルート、警戒範囲、そして僅かな気の緩み。それら全てが、俺の目には手に取るように分かった。
半日もかからずに、俺は第二層の最深部、ゴブリンチーフが根城にする巨大な砦にたどり着いた。粗雑に組まれた木の砦は、数十体のゴブリンによって厳重に警備されているように見えた。
正面から突入するのは愚策だ。俺は砦の周囲を冷静に観察し、最も警備が手薄な裏手の岩壁を見つけ出した。そこから壁を登り、砦の内部へと音もなく侵入する。
砦の中心部、広場のようになっている玉座の間。そこには、一際大きな体躯を持つゴブリンチーフが、粗末な玉座にふんぞり返っていた。その周りを、屈強なゴブリン・ホブゴブリンの護衛たちが十数体、固めている。
俺は、梁の上からその光景を静かに見下ろしていた。
(……護衛が12体。チーフ本体の強さは、あの図体から見てDランク相当か。悪くない)
俺は懐から、自作のスモークボールを数個取り出した。これも、異世界の知識を応用して作ったものだ。
狙いを定め、スモークボールを玉座の間の中心に投げ込む。着弾と同時に、視界を奪う濃密な煙が広場を満たした。
「ギャッ!?」「グギギ!?」
ゴブリンたちが混乱の叫びを上げる。その一瞬の隙を突き、俺は梁から飛び降りた。煙の中では、敵の数はこちらの位置を把握できず、味方同士で同士討ちを始める可能性さえある。だが、俺は違った。
目を閉じ、聴覚と肌で感じる空気の揺らぎ、そして殺気の方向だけを頼りに、敵の位置を正確に把握する。これは、光のない深層ダンジョンで生き抜くために編み出した、俺だけの戦闘術だ。
閃光が、煙の中で何度も煌めいた。金属を断つ音、肉を裂く音、そして断末魔の叫び。それらが短い時間で立て続けに響き渡り、やがて静寂が訪れた。
煙が晴れた時、そこに立っていたのは俺一人だった。ゴブリンチーフと、その護衛たちは、全員が急所を正確に貫かれ、血の海に沈んでいた。
戦闘は、五分もかからなかった。
俺は血振りで刃を清め、淡々と素材の回収を始めた。ゴブリンチーフが持っていた錆びた戦斧、大粒の魔石、そして護衛たちの耳飾り。それらを丁寧にポーチに収める。俺の装備には、返り血の一滴すら付着していなかった。
「……さて、帰るか」
目的は果たした。長居は無用だ。俺は静まり返った砦を後にし、帰還ゲートへと向かった。
◇ ◇ ◇
――そして、数時間後。
村瀬翔太率いるアイアンルートの新人訓練部隊が、意気揚々と第二層の最深部に到達した。
「いいか、お前ら! ここがボスの砦だ! 教科書通り、前衛は盾を構え、後衛は援護の準備をしろ! 俺の合図で突入するぞ!」
村瀬は新人たちに指示を出し、自らも剣を抜いて緊張感を高める。新人育成リーダーとしての彼の動きは、確かに手慣れたものだった。新人たちの目には、頼れる先輩として映っているのだろう。
だが、彼らが砦に足を踏み入れた瞬間、その場にいた全員が言葉を失った。
――静寂。
砦の中は、不気味なほどに静まり返っていた。焚き火は消えかかり、見張り台にもゴブリンの姿はない。あるのは、砦のあちこちに転がる、ゴブリンたちの死体だけ。その全てが、眉間や心臓といった急所を一撃で貫かれ、即死していた。
「な……んだ、これ……? 先行パーティがいたのか? いや、そんな記録は管理局から上がっていない……」
村瀬の部下の一人が、震える声で呟く。
村瀬は、ゴブリンたちの死体の惨状に青ざめながらも、部隊を率いて砦の中心部、ボス部屋である広場へと慎重に進んだ。そして、そこで信じられない光景を目にする。
広場の中央。玉座だったであろう場所には、一際大きな体躯を持つゴブリンチーフの死体が、眉間から胸までを一直線に切り裂かれて転がっていた。その周囲には、精鋭であるはずのホブゴブリンの護衛たちが、同じように一撃で絶命して散らばっている。
そこは、戦闘の跡というよりは、まるで神か悪魔が通り過ぎた後のような、一方的な虐殺の現場だった。
「……うそだろ……? これを、誰が……?」
新人たちが恐怖に顔を引きつらせる中、村瀬の脳裏に、数時間前の光景が蘇っていた。
無感情な瞳で自分を見つめ、静かにゲートの奥へと消えていった、あの男の背中。
『お前みたいなソロじゃ、ボス部屋にたどり着くことすら無理だろうがな』
自分の放った言葉が、ブーメランのように突き刺さる。
まさか。ありえない。あいつが、一人でこれを?
村瀬は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。彼の常識、彼のプライド、そして彼がこの数年間で築き上げてきた自信が、音を立てて崩れ落ちていく。
この日、アイアンルートの新人育成部隊が見た「静寂の砦」の光景は、すぐにギルド上層部へと報告された。
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