第6話:経験者の準備
ダンジョンでの衝撃的なデビューから数日が過ぎた。俺、日向蓮の日常は、驚くほど静かなものだった。世間が俺の記録に気づいて騒ぎ出すこともなく、ギルドからの接触もない。ダンジョン庁の内部で俺の情報がどう扱われているのか知る由もなかったが、この平穏は俺にとって好都合だった。
俺は初回の探索で得た報酬を元手に、本格的な装備を整えるための準備を開始した。貸与された初心者用の装備は、あの日のうちに丁重に返却した。あんなものでは、第二層以降の探索は心許ない。
向かったのは、都心から少し離れた、冒険者たちが集うエリアの一角にある古びた中古装備屋だった。大手チェーン店のような華やかさはないが、ショーウィンドウに並べられた武具はどれも使い込まれ、手入れが行き届いている。本物を見抜く目を持つ者が経営している店だということが、その佇まいから伝わってきた。
「いらっしゃい」
店に入ると、カウンターの奥で黙々と革鎧の手入れをしていた初老の男が、顔も上げずに低い声をかけた。白髪混じりの頭に、職人らしい深い皺が顔に刻まれている。無愛想だが、その手つきは確かだった。
「ショートソードと、軽量の防具を探している」
俺が用件を告げると、店主は初めて顔を上げ、俺の全身を値踏みするように一瞥した。その目は、客の懐具合を探る商人の目ではなく、冒険者としての実力を見極めようとする、元同業者のそれだった。
「ふん。あんたみたいなひょろっとした兄ちゃんが、ショートソードねぇ。まあ、好みは人それぞれか。予算は?」
「とりあえず、これで買える範囲で、一番信頼できるものを」
俺は報酬の入った封筒をカウンターに置いた。店主はちらりとその厚みを見ると、少しだけ目を見開いた。新人が初回の探索で手にする金額としては、明らかに異常だったからだ。だが、彼は余計な詮索はせず、ただ「……ついてきな」とだけ言って、店の奥へと俺を案内した。
壁一面に、様々な種類の剣が並んでいる。その中から、彼は一本の飾り気のないショートソードを抜き取った。
「こいつはどうだ。ギルドの量産品じゃない。二年前に引退したBランクの冒険者が置いていった、特注品だ。鋼の質もいいし、何より重心のバランスが絶妙だ。あんたみたいな速攻型には、相性がいいはずだ」
俺はその剣を受け取り、軽く振るってみる。手に吸い付くような感覚。刃の重み、柄の握り心地、そして重心。異世界で使い慣れた愛剣には及ばないが、この世界の武具としては上出来だった。
「……これを貰う。あと、防具は?」
「あんたの動きを殺さないようにするなら、金属鎧より革鎧だろうな。ダンジョン産のモンスターの皮をなめした、上物がある。防御力は少し落ちるが、軽さと柔軟性は保証する」
店主が持ってきたのは、黒く染められた硬質の革鎧だった。要所には金属プレートが埋め込まれているが、動きを阻害しないよう計算され尽くした配置になっている。
「いい腕だな、親父さん」
「……商売だからな」
ぶっきらぼうに答えながらも、彼の口元がほんの少しだけ緩んだのを、俺は見逃さなかった。
結局、俺は報酬のほとんどを使い、ショートソードと革鎧、そして丈夫なコンバットブーツ一式を購入した。決して安い買い物ではなかったが、命を預ける道具への投資を惜しむのは、三流のやることだ。
◇ ◇ ◇
団地の一室に戻ると、俺は早速、購入した装備のカスタマイズに取り掛かった。買ってきたばかりの道具を、そのまま実戦で使うなど、自殺行為に等しい。自分の身体、自分の戦い方に合わせて、徹底的に調整する必要がある。
まずはショートソード。柄に滑り止め効果のある革紐をきつく巻き付け、自分の手の形に馴染ませていく。鞘の内側には薄い布を貼り付け、抜刀時に金属が擦れる微かな音さえも消し去る。暗闇での奇襲において、音は命取りになるからだ。
次に革鎧。買ってきたタクティカルベストのプレートポケットに、ダンジョンで採取した硬いモンスターの鱗を加工し、仕込んでいく。鱗を一枚一枚ヤスリで削り、隙間なく重ね合わせることで、金属板以上の柔軟性と衝撃吸収性を持たせる。
それは、異世界での野営中に、来る日も来る日も繰り返してきた地道な作業だった。この世界の人間が見れば、ただの奇行にしか見えないだろう。
そんな作業をしていると、不意に胸が締め付けられるような感傷に襲われた。
(……昔は、こういう作業も、みんなでやっていたな)
焚き火を囲みながら、リーダーの剣士が剣の手入れをし、魔法使いの少女が薬草を調合し、俺は黙々と罠を作っていた。他愛のない会話をしながら、明日を生き抜くための準備をする。あの時間は、二度と戻らない。
俺は頭を振り、感傷を追い出す。過去を振り返っても、何かが変わるわけではない。今はただ、前を向いて生きるしかない。
夜が更け、全ての調整が終わる頃には、新品だった装備はまるで長年連れ添った相棒のように、俺の身体の一部と化していた。
そして俺は、もう一つの準備に取り掛かった。
それは、この世界に帰還してから、ずっと心の片隅で計画していたこと。異世界で身につけた、もう一つの生存技術――錬金術の実践だ。
異世界では、回復魔法の使い手は貴重な存在だった。パーティに一人は欲しいが、戦場で負傷すれば、その貴重な魔力はあっという間に枯渇する。だからこそ、俺たちのパーティでは、魔法に頼らない回復手段として、ポーションの自作技術が必須だった。材料となる薬草の知識、調合の比率、魔力を込めるための繊細な手順。それらは、死と隣り合わせの環境で、嫌というほど身体に染み付いている。
この世界でも、ダンジョンからは様々な植物が採取できる。その中には、異世界の薬草と酷似した成分を持つものがあることを、俺はネットの情報で突き止めていた。
俺は近所の薬局で、アルコールランプやビーカー、乳鉢といった簡易な化学実験セットを購入し、自室を即席の工房へと変えた。換気扇を最大にし、慎重に作業を進める。
まずは、第一層で採取してきた「ヒールグラス」という薬草を乳鉢ですり潰し、精製水を加えて煮詰めていく。異世界のレシピとの違いは、触媒となる魔力の質だ。この世界の魔力は、異世界に比べて濃度が薄い。その差を補うため、俺は自分の血を数滴、触媒として加えた。異世界で鍛え抜かれた俺の血液には、この世界のどんな物質よりも濃密な魔力が宿っている。
ビーカーの中の液体が、淡い緑色の光を放ち始める。不純物を取り除き、冷却すると、十数本の小瓶に満たされた「
「……上出来だ」
完成したポーションを手に、俺は小さく呟いた。
剣技だけが、俺の力ではない。生き抜くために身につけた全ての知識と技術。それこそが、俺が異世界から持ち帰った、最大の財産だった。
このポーションは、深層攻略の生命線になるだろう。そして同時に、いざという時には、莫大な資金源にもなり得る。だが、今はまだその時ではない。この切り札は、懐に隠しておくべきだ。
新しい装備、自作のポーション、そして五年間の死線で培った経験。
準備は、整った。
「――次は、第二層か」
窓の外が白み始める頃、俺は静かに呟いた。
まだ誰も知らない、一人の帰還者の反撃が、静かに始まろうとしていた。それは天才のそれではない。幾度も死に、それでも生き残った、ただの経験者による、周到で、確実な一歩だった。
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