第5話:ダンジョン初帰還と最初の波紋

 青白い光の揺らめきが収まると、ダンジョン特有の湿った空気は消え、管理棟の空調が作り出す無機質な空気が肺を満たした。帰還ゲートを抜けた俺――日向蓮は、無意識に肩を回していた。時刻は、ダンジョンに入ってから三十分も経っていない。


「ん……全然疲れてねぇな」


 軽く首を傾けながら呟く。肉体には疲労の欠片もなく、息一つ乱れていない。神経の高ぶりも既に収まり、身体は完全に平時の状態に戻っていた。異世界での死闘の後であれば、アドレナリンが抜けきるまで半日はかかったものだ。この世界のダンジョンは、俺にとって戦闘というよりは、むしろ軽いリハビリに近い。


 通路の先で、同じように帰還してきた他のパーティが壁に手をつき、荒い息を繰り返しているのが見える。三人の男女からなるパーティのようで、彼らの装備は泥とスライムの粘液で汚れ、革鎧には真新しい切り傷が刻まれていた。


「くそっ、今日の第一層はゴブリンが多かったな! あと少しで囲まれるところだったぜ」

「あなたの突っ込みすぎよ! ポーションもう一本使っちゃったじゃない」

「まあまあ二人とも、無事に帰ってこれたんだから。それより、この素材じゃ今日の稼ぎは赤字かもな……」


 彼らの疲弊しきった会話が、俺の耳を通り過ぎていく。あの程度のダンジョンで、あれほど消耗するのか。これが、この世界の平均的な冒険者の姿なのだろう。俺は、自分がこの世界の基準からいかに逸脱しているかを、改めて実感せずにはいられなかった。


 腰に吊るしたポーチの中身は、戦闘で得た素材が完璧な状態で整理されている。魔石は大きさ別に布で包み、ゴブリンの牙やジャイアントバットの爪は、先端が欠けないよう小瓶に詰めてある。回収、分別、保存。それは異世界での戦場生活で身についた、呼吸をするのと同じくらい自然な、生存のための作法だった。


 俺は彼らの横を無言で通り過ぎ、換金カウンターへと向かった。管理棟のロビーは、平日の午後にもかかわらず、多くの冒険者で賑わっている。俺が受付カウンターに立つと、登録の際に世話になった女性職員が、マニュアル通りの笑顔で応対した。


「お疲れ様です。本日の探索は……えっ」


 彼女は俺の顔と、壁の時計を二度見し、その笑顔を凍りつかせた。


「ひ、日向さん……? もう、お戻りですか? まだ三十分も経っていませんが……何かトラブルでも?」


 初回探索者が短時間で戻ってくる場合、その理由は二つに一つだ。装備の不調か、あるいは魔物に恐怖して逃げ帰ってきたか。彼女の視線には、後者を気遣うような同情の色がかすかに浮かんでいた。


 俺は無言でポーチをカウンターに置く。飄々とした表情は変わらず、語る言葉も簡潔だった。


「終わったから」


 その一言で、職員の表情が困惑に変わる。彼女は恐る恐るポーチを開け、中身を確認した。その瞬間、彼女のプロフェッショナルな表情が崩れ、素の驚きが顔を覗かせた。


 ポーチの中には、第一層で手に入るものとは思えないほど状態の良い素材が、まるで標本のように美しく収められていた。特に、ジャイアントスライムからしかドロップしない、拳大の魔石が放つ鈍い輝きは、周囲の他の冒険者の目さえ引きつけた。


「……こ、これ……第一層のボス、ジャイアントスライムの魔石……ですよね? しかも、表面に傷一つない、最高品質の……。まさか、討伐されたんですか? お一人で?」


「うん。普通にいたから、普通に倒しただけ」


 あまりに淡々と返され、職員の思考が数秒停止する。彼女は慌ててインカムに手を当て、小声で誰かに指示を仰ぎ始めた。その声は、必死に平静を装いながらも、わずかに上ずっていた。


「……監視室、聞こえますか? 受付です。コードF-73、日向蓮氏が帰還。第一層ボス、ジャイアントスライムの討伐を確認。……はい、ソロです。所要時間、約18分。……いえ、聞き間違いではありません。……はい、素材の損傷、極めて軽微。……分かりました。記録映像の保全、お願いします」


 インカム越しの相手も、相当混乱しているのだろう。どうやら、初回ダンジョンでソロ、かつボスを討伐し、これほどの短時間で帰還するという事態は、彼らの想定を完全に超えていたらしい。


 やがて換金処理が終わり、職員が分厚い報酬の封筒を手渡してくる。その顔には、先ほどの同情の色はなく、畏怖と好奇が混じったような、複雑な色が浮かんでいた。


「日向さん……こちらのデータによりますと、ダンジョン滞在時間は18分45秒となります。これは、新人記録どころか、このダンジョンのソロ討伐記録としても歴代最速です。おめでとうございます」


 俺は「ふうん」とだけ返し、封筒の中身を確認した。予想以上の金額だ。これだけあれば、貸与されたペラペラの装備を叩き返し、自前の装備を揃えるための、十分な足がかりになる。


 俺は職員に軽く会釈すると、その場を後にした。周囲の冒険者たちが、ひそひそと何かを囁きながら俺に視線を投げかけている。侮りや同情ではない。理解できないものを見る、警戒と驚愕の視線。それらを意に介すことなく、俺は自動ドアの向こう、街の喧騒の中へと歩き出した。


 記録も、他人の評価も、今の俺には何の価値も持たない。あの世界で重要だったのは、生き残ったか、死んだか。ただそれだけだったからだ。


◇ ◇ ◇


 ――その頃、ダンジョン庁・中央監視室。

 蓮が立ち去った後のモニタールームでは、混乱した空気が流れていた。壁一面に並ぶモニターの一つに、先ほどの蓮の戦闘記録が繰り返し再生されている。


「田中主任、どう思われますか?」


 若手の分析官が、困惑した様子で声をかけた。相手は四十代半ばの男性——元Bランク冒険者で、ダンジョン庁設立時から監視部門に所属している田中だった。彼は設立から三年、この部署で数多くの冒険者を見てきたベテランだが、今回の記録は彼の経験値を大きく超えていた。


「……正直、理解に苦しむ。初回の探索で、しかもFランクの単独行動で、これほど効率的な戦闘を行うなど……」


 田中は画面に映る蓮の動きを注視しながら、困惑を隠せずにいた。


「戦闘開始から討伐完了まで、無駄な動きが一切ない。まるで相手の行動パターンを熟知しているかのような……だが、記録上、彼は今日が初回探索のはずだ」


「上層部への報告は?」


「……段階的に行う。まずは継続観察として記録に留め、今後の動向を注視する方針で行こう。性急な判断は避けたい」


 田中の判断は慎重だった。ダンジョン庁は設立から日が浅く、前例のない事象への対応マニュアルは、まだ整備途上にあった。特に「帰還者」と呼ばれる特異な事例については、政府レベルでも対応方針が定まっていない状況だった。


「ただし、彼の今後の活動については、より詳細な記録を残すよう指示する。何か異常を察知したら、即座に報告するように」


 こうして、日向蓮という名は、まだ世に知られることなく、ダンジョン庁の記録の片隅に、一つの"注視対象"として記載された。しかし、その真の意味を理解する者は、まだ組織内に存在していなかった。


◇ ◇ ◇


 一方、当の本人は、そんな騒ぎを知る由もなく、団地の一室でコンビニの弁当を温めていた。電子レンジの無機質な音を聞きながら、彼は窓の外の夜景に目をやる。無数の灯りは、平穏そのものだ。だが、その平穏が、ひどく現実感のないものに感じられた。


(騒がれるのは面倒だ。このまま誰にも気づかれず、力をつけ、金を稼ぐ。目的を果たすまでは、それでいい)


 目的――異世界から持ち帰った、折れた聖剣の再生。仲間との、最後の約束。

 そのために必要なものを手に入れるまで……

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