第12話 私はどうしたかったのか

帰宅後のリビング。


誰もいない部屋に灯りをつける。

無音の部屋が、まるで自分の内面をそのまま映したようで、

ふいにソファに崩れ落ちるように座った。


化粧も落とさず、髪もまとめたまま。


──「私は、幸せになりたかった」


その言葉は、ためらいなく口をついて出た。


私は、幸せになりたかった。

そのための努力は、なんでもした。


完璧な学校生活。

完璧な学歴。

完璧なメイク、ファッション、マナー、髪型。


ハイブランドの物を身につけ、

友人だって、ハイブランドしか選ばなかった。


努力の結果、掴んだのは――

完璧な夫。

完璧な幸せ。

完璧な娘。

そして……完璧な母。


そんなつもりだった。

完璧であることこそが、愛される条件であり、守るための鎧だった。


でも、その完璧さは、ひび割れていった。


夜中に娘が泣いていたとき。

私が抱きしめても止まらなかった涙が、

AIの読み聞かせの声で静かに収まっていくのを見たとき。


私は、私じゃ足りないと、初めて思った。


それでも、母親であることを諦めたくなくて、

もっともっと“正しい母”を目指していった。


笑わなかった。

泣かなかった。

怒らなかった。

間違えなかった。


でもそれは、もしかしたら、母親ではなく“広告”だったのかもしれない。


完璧であることに必死で、

私が本当に欲しかったものが、少しずつわからなくなっていった。


──じゃあ、私は、どうしたかった?


思い出す。


眠っている詩織の寝顔にそっと触れて、

「大丈夫よ」と言ったこと。




ベランダの出したプールの、水しぶきの中の丸い笑顔


「ニャンな」と言いながら猫を指さすかわいらしい手


好物を思い浮かべながら買い物し、朝早く詰めたお弁当。



きっと、あの子の記憶には残っていないような、

けれど私にとっては、母であったことの証明のような瞬間たち。


それら全部を、AIは黙って“記録していた”のかもしれない。


──私はどうしたかったのか。

きっと、「母として愛される」ことよりも、

「母として、ちゃんと愛していたことを、信じられるようになりたかった」だけだったのかもしれない。


リビングの時計が、小さく鳴った。


誰かの足音がした気がした。


リビングのドアが、ゆっくりと開いた。


詩織が、そこに立っていた。


顔を上げた母と、視線が合った。


言葉はなかった。

けれど、逃げようともしなかった。


詩織の手には、学校のノートが一冊。

ふと、それを母の前に差し出した。


開かれたページには、静かな筆跡でこう書かれていた:


「今日の記録:ママの顔が、よく見えた」


虚を突かれたようにいきなりこみ上げそうな涙を、港区女子のプライドが反射的にこらえた。


唇をキュッと引き締めて、鼻から息を吸う。


ふっと肩の力が抜けて、胸からじわりと暖かさがひろがる。


小さく笑って、母はソファの隣をぽんと叩いた。


詩織は、ゆっくりとそこに腰を下ろした。


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AI教室:氷室詩織の記録 @alphaofAI

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