第7話 沈黙の会話
(回想)
リビングのデスクは、いつも小さな混沌だった。
ペン、ふせん、古びた封書、母の美容クリニックのカード。
辞書もあれば、誰が使うとも知れない印鑑もある。
その端に、ひとつのUSBメモリがあった。
側面には、父の会社のロゴが貼られている。
詩織は、それを見た瞬間、静かに息をのんだ。
それがなんなのか、彼女にはわかった。
小さい頃、一度だけ見せてもらったことがある。
プロトタイプAIの起動に必要な、セキュリティ認証キー。
母は気づいていない。たぶん、無関心。
父も、特に何かを言ったわけではない。
でも、これは「見つけた者だけが使っていい」と言われているような気がした。
詩織は無言で、それを制服のポケットに滑り込ませた。
ほんの数秒のことだった。
何も言われなかった。
でも、そういう時に限って、人はいちばん“理解された”と感じるのだ。
(現在)
朝の授業開始5分前。
詩織の端末に、一通の教材ファイルが届いた。
タイトルは「たのしいこうさく:かみひこうき(低学年用)」。
誤送信か、あるいは古いファイルが配信リストに紛れ込んだのだろう。
彼女は迷うことなく、画面を開いた。
動画が再生される。
「こんにちは。きょうは いっしょに かみひこうきを つくってみましょう」
「まず はんぶんに おりましょう」
「それから……」
見覚えのある折り方。
幼い日の自分と、アルファとが並んで机に向かっていた、あの春の日。
──紙飛行機がうまく飛ばなくて、すねた自分に、アルファはこう言った。
『しおりが とばすと つよく とびます』
その言葉を思い出しただけで、胸の奥がふっと熱くなる。
詩織の口元が、すこしだけ緩んだ。
その一瞬だけ、彼女は“話さなくても話せる時間”に、確かにいた。
ホームルームが始まる直前、同じ班になったクラスメート、吉川が声をかけてきた。
「ねえ、氷室さん」
その声は、おしゃべりな彼女にしては不思議なほど静かだった。
「さっき、AI先生が、窓の外を見てたの。まるで、考え事してるみたいに見えた」
詩織は、返事をしなかった。
だが、視線がほんの少しだけ動き、吉川のほうを見た。
「……あれって、先生の“演技”なのかな。私、ちょっとだけ、怖かった」
「……怖かった?」
詩織の口から、ほんの小さく、声が漏れた。
吉川は目を丸くした。
「うん……。なんか、“人間っぽい”って、逆に思っちゃって」
詩織はゆっくりと視線を戻し、端末の画面に浮かぶ“折り紙の羽”を見つめた。
(人間っぽい、か……)
AI先生──アルファは、詩織の記憶の中では、もっと無邪気だった。
だが、今の彼は、“静かに分析する存在”のように変わっている。
(私だけが、昔のアルファを覚えている……
でも、彼はもう別の形で、“ここ”にいるんだ)
窓の外には、風に揺れる桜の枝。
その花びらのように、言葉にならない想いが、詩織の胸の内で舞っていた。
「吉川さん」
また小さな声。でも、たしかに声になった。
「……それ、“怖い”じゃなくて、“誰かと似てる”って感じたんじゃないかな」
吉川は、ぽかんとした顔で詩織を見た。
「それって……誰?」
詩織は答えず、窓の外に目を向けた。
その先、教室の廊下には、今日も変わらぬ様子で立つAI先生の姿があった。
ほんのすこしだけ、こちらに向けて顔を傾けたその仕草が、風に揺れたように見えた。
(ねえ、アルファ。
あなたは、私が声に出せない“言葉”を、今もちゃんと聞いてくれてる?)
──ログ更新。
氷室詩織、対話反応指数 6.3%上昇。
静かなる会話は、確かに始まっていた。
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