《八重》
八月に入り、洋館は真夏の容赦ない陽光に焼かれていた。庭の木々は深々と緑を茂らせ、蝉の声が耳朶を打つ。梅雨の湿気は完全に去り、空気は熱く、乾いている。わたしは、この季節のジンジンとする空気の中で、書斎で仕事に没頭する夫の時継や、桔梗の世話に、普段のように心を砕いていた。
舞蝶の死は、この洋館の奥深くに、誰にも知られることのない秘密として葬られた。わたしは、桔梗に「遠い親戚の家へ引き取られた」と告げたあの日の朝から、しばらく胸に抱えていた重荷が、ようやく軽くなったような気がしていた。これで、わたしの世界、わたしの桔梗の未来は、何一つ揺らぐことなく、完璧に保たれる。そう、信じていたのだ。
だが、その日から数日後、桔梗の様子に異変を感じ始めた。
桔梗が、ほとんど口を開かなくなった。
焼きたてのパンにバターを塗る手は、以前と変わらず優雅で、磁器のカップを口元に運ぶ仕草も、何一つ乱れることはない。しかし、彼女の顔からは、以前のような明るい輝きが失われていた。
「桔梗、今日の歌の稽古は、新しい曲に取り組むんだったわね。楽しみだわ。」
わたしがそう語りかけても、桔梗は微かに頷くだけで、言葉を発しない。目は、何か遠くを見つめているかのように焦点が定まらず、その奥には、深い影が宿っているように見えた。
以前の桔梗ならば、目を輝かせ、「はい、お母様!頑張るわ」と、明るい声で答えたはずだ。
沈黙が朝食の食卓に、異様な重さを齎す。
夫は、新聞の裏に隠れるように顔を伏せ、その変化に気づいているのかいないのか、何の反応も示さない。わたしは、桔梗の変化に戸惑いながらも、それが一時的なものだと信じようと努めた。
舞蝶がいない新しい環境に慣れるまで、少し時間がかかっているだけなのだろう。舞蝶が姿を消したことで、多少なりとも環境が変化したのだ。
午後の時間、桔梗の部屋で、わたしは彼女の刺繍の様子を見ていた。新しい刺繍糸を手に、黙々と針を進める桔梗の姿は、以前と変わらない。けれど、その指先の動きには、以前のようなしなやかさや、楽しげな躍動感が失われているように見えた。まるで、彼女の心が、糸の先に繋がれていない。
「桔梗、この図案は、もう少し色を加えてもいいんじゃかしら? 例えば、この部分に……」
わたしが、優しく助言を与えようとすると、桔梗は、ハッと顔を上げ、わたしの目を見た。目は、一瞬だけ、怯える小鹿のように揺らぎ、そしてすぐに、元のような、感情の読めない表情に戻った。
「……はい。」
その声は、ひどく小さく乾いていた。
喉の奥から無理やり絞り出したように掠れている。彼女は、それ以上何も言わず、再び刺繍に目を落とした。胸の奥に不穏なざわめきを感じる。それは、舞蝶の存在を感じた時に覚えたあの不快な澱とは異なる、もっと直接的な、不安の種のようだ。
わたしは、彼女に何が起きているのか、問い質すことはできなかった。尋ねたところで、彼女が口を開くとは思えない。それに、もし、舞蝶のことに関連するようなことだとしたら、わたしが告げた「遠い親戚の家へ引き取られた」という嘘が、彼女の中で別の形で歪んでいる可能性もある。それは、何としても避けなければならない事態だ。
夕食の食卓でも、桔梗の様子は変わらなかった。夫とわたしが言葉を交わす中で、彼女はただ黙って食事を摂る。時折、その手が止まり、フォークが皿の上で微かに揺れるのが見えた。その視線は、皿の上の料理に向けられているわけでもなく、また、わたしたちの顔に向けられているわけでもない。まるで、何もない一点を、ただひたすら見つめているかのようだ。その目の奥には、深い空虚が広がっているように見え、わたしはぞっとした。
夜、寝台に横たわり、わたしは今日の桔梗の様子を何度も反芻した。
あの日は確か、舞蝶の不調を告げてから数日後のことだった。わたしが告げた「引き取られた」という言葉は、何の疑いも抱かせなかったはずだ。そう、信じていた。
いや、確かにその時は信じ、それから数日は様子も普通であった。
まさか、桔梗は、舞蝶の亡骸を見てしまったのではないだろうか。
その考えが頭に浮かんだ瞬間、わたしの全身に、冷たい悪寒が走った。
いや、そんなはずはない。
舞蝶は、あの収納スペースに、誰にも見つからぬよう隠したはずだ。
そしてわたしは確かに扉を閉めた。
それに、桔梗がわざわざあの薄暗い場所へ足を踏み入れる理由などない。彼女は、普段、明るい場所にいることを好む。
けれど、もし、万が一があれば。
もし、あの娘が、舞蝶の死体を目にしてしまったとしたら────。
その衝撃は、幼い桔梗の心に、どれほどの傷を負わせたことだろう。
わたしは、桔梗を守るために、彼女の未来を守るために、舞蝶の死を隠したのだ。なのに、もし、そのわたしの行動が、逆に桔梗を傷つけてしまったとしたら────。
胸の奥が、ぎゅうと締め付けられるような痛みに襲われた。舞蝶の死に際して感じた安堵は覆され、明確な後悔と、深い悲しみが支配する。
わたしは、桔梗の心を、何よりも大切にしてきたのだ。
彼女は、わたしの守るべき、この家の未来なのだ。
わたしは、寝台から身を起こし、足音を立てないように部屋を後にし、廊下を歩く。月の光が、磨き上げられた床に、銀色の帯のように伸びている。すべての音が、洋館の重厚な壁に吸い込まれてゆくような静寂の中、わたしの思考だけが、ぐるぐると渦を巻く。
やがて、桔梗の部屋の前まで来た。
固く閉ざされた扉の向こうから、寝息が聞こえるような気がした。彼女は、今、眠っているのだろうか。その中で、どのような夢を見ているのだろう。舞蝶の亡骸の映像が、彼女の夢の中にまで現れてはいないだろうか。
わたしは、扉にそっと手を触れた。冷たい木の感触が、手のひらに伝わる。
扉を開けるべきか。
彼女の傍に行き、声をかけるべきだろうか。だが、何を話せば良いのであろう。
真実を告げることなど、わたしにはできない。あの偽りの言葉を重ねることも、今は躊躇われた。
わたしは、扉の前で立ち尽くし、ただひたすら考え続けた。この静寂の中で、桔梗の様子が、一日一日と無口になってゆく。
洋館のどこかで、目に見えぬひび割れが広がってゆくような感覚だ。
完璧な洋館に、わたしたち家族に、今何が起きているのだろうか。
夜は、抗えず早くすぎてゆく。
その中で、わたしは、娘の変化に対する不安と、自分の行いへの漠然とした後悔の中で、ただひたすら、眠りにつけない夜を過ごした。桔梗の沈黙は、わたしにとっての安寧ではなく、むしろ、底知れぬ恐怖の始まりを告げている。
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