《桔梗》

午後、わたしは新しい本を探しに、洋館の奥に足を踏み入れた。普段はあまり立ち入らない場所だ。


薄暗い廊下には、古びた木の匂いが澱み、時折、軋む床の音が響く。


目的の書庫は二階の奥まった場所にあり、そこへと続く廊下は、日中の陽光も届かぬ、常に薄暗い空間だ。


その廊下の突き当たりに、普段は使われない小さな収納スペースがある。

母が「あの子はね、少し体が弱くて、この洋館の暮らしが、負担になってしまっていたようなの」と説明した時の、舞蝶のことがふと頭を過った。


病弱な舞蝶が、もし、この薄暗い洋館の奥で、ひっそりと暮らしていたとしたら────。

そんな、ありえない想像が、なぜか胸をざわつかせた。

いや、母が嘘をつくわけが無い。

そう振り払い、わたしは廊下を進んで行く。


わたしは、ふと、収納スペースの扉が、僅かに開いていることに気づいた。

普段は固く閉ざされているはずの扉が、まるで誰かがそこから出て行ったばかりかのように、ほんの数センチだけ隙間を見せている。好奇心が、わたしの足を止めた。普段であれば、他人の領域に踏み込むことはしない。しかし、その日は、なぜかその隙間から漏れる、ひんやりとした空気に、抗しがたい引力を感じたのだ。

わたしは、そっと、その扉へと近づいた。隙間から中を覗き込むと、そこは埃を被った古い箱や、使われなくなった道具が積み上げられているだけの、ただの物置だった。けれど、その奥に、目を凝らすと、何か異様なものが目に入った。


それは、小さな塊だった。


わたしの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。胸の奥に、冷たい氷が突き刺さったような感覚だ。


布が掛けられている。

息を飲みながら、布に手をかける。

手の温もりが、まだ残る。

母か、父か。

これを触ったばかりであろう。


わたしは、何気なくそれを捲った。


閉じた目。

僅かに開かれた口。

固まっている。

動かない。

人形?

いや、人だ。



そこにあったのは、舞蝶だった。


いたのでは無い。「あった」。


彼女は、そこに横たわっていた。


薄汚れた粗末な着物が、その細い身体を包んでいる。顔は、まるで蝋人形のように青白く、生気が失われている。



何度観ても目は固く閉じられ、唇は微かに開いたまま、何の言葉も発することなく、ただそこに「あった」。


わたしは、息を呑む。全身の血液が、一瞬にして凍り付いたかのように、ひんやりとした感覚が走る。心臓の音が、耳の奥で、ドクンドクンと激しく響き渡る。


舞蝶は、死んでいた。


母が言っていた「遠い親戚の家へ引き取られた」という言葉が、音を立ててわたしの脳内で崩れ落ちる。あれは、嘘だったのだ。

母は、わたしに、もしかしたら父にも、嘘をついていた。舞蝶は、ここからどこにも行っていなかった。この薄暗い洋館の、人の目に触れぬ片隅で、ひっそりと、そして誰にも知られることなく、息絶えていたのだ。



それとも。



あとから運んだのだろうか。



わたしの完璧な世界が、ガラガラと音を立てて崩れてゆく。


今まで信じてきた秩序も、母の優しさも、父の絶対的な存在も。

それらすべてが、舞蝶の亡骸という、この冷酷な事実によって、偽りだったと突きつけられた。

吐き気が込み上げた。喉の奥が焼け付くように熱い。恐怖と、混乱と、そして、得体の知れない裏切られた感情が、わたしの心を支配した。

どうすれば良いか。

母に、このことを告げるべきか。

その考えが、頭に浮かんだ瞬間、わたしの心は激しく葛藤した。

母は、わたしを深く愛してくれている。常に、わたしのことを第一に考えてくれる。わたしをこの家の「光」として、大切に育ててくれた。その母が、なぜ、わたしにこのような嘘をついたのだろう。舞蝶が、わたしたち家族にとって、どれほど「不都合な存在」であったとしても、このような形で、死を隠す必要があったのだろうか。

もし、この事実を告げれば、母は動揺し、苦しむだろう。

父も、動揺するかもしれない。

そして、この洋館の平穏は、完全に打ち砕かれる。

そんなことをすれば、わたし自身の世界も、完全に壊れてしまう。

わたしは、この完璧な秩序の中で、光として生きてきた。舞蝶の死という暗い事実が露呈すれば、この洋館の輝きは失われ、わたし自身も、その影に引きずり込まれてしまうかもしれない。

違う。それは、わたしが望む未来ではない。

わたしの心の中で、冷徹な理性が、感情を押し潰すように頭を擡げる。


舞蝶は、元々、わたしの光を際立たせるための影だった。その影が、このような形で消えたとしても、わたしがそれを暴く必要はない。むしろ、この事実を黙っていれば、母も父も、そしてわたし自身も、この家も、変わらぬ平穏を保ち続けることができる。

わたしの心は、激しく揺れ動いた。舞蝶の亡骸が、青白い顔で、何の言葉も発することなく、わたしを見つめているように感じられた。目は固く閉じられているはずなのに、まるで、わたしの葛藤を、すべて見透かしているように。


時間が、異常に長く感じられた。


ほんの数秒間であろう出来事が、永遠のように引き延ばされる。


わたしは扉を、早く閉めようと思った。だが、意志とは裏腹に、緩慢にしか、開いた扉を閉められない。

ガラガラ、と鈍い音が廊下に響き渡る。その音は、まるで、わたし自身の心の中に、真実を閉じ込める鍵をかける音のように聞こえた。

わたしは、舞蝶の死を見なかったことにする。

それが、この家を守るために、わたし自身を守るために、唯一できることだ。わたしは、この完璧な秩序を、何よりも優先する。舞蝶の亡骸は、この洋館の、誰にも知られることのない秘密として、この暗がりに永遠に葬られるべきだ。

わたしは、震える足でその場を離れた。廊下の奥から、光が差し込むわたしの部屋へと続く道が、遠く、そしてひどく暗く感じられた。わたしは、振り返ることなく、その光を目指して歩き出した。背後には、閉ざされた扉の向こうに、決して明かされることのない真実が、冷たく横たわっている。

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