《桔梗》

舞蝶が姿を見せなくなって、もう数日が経つ。初めは、具合が悪く部屋に籠っているのだろうと母の言葉を疑いもなく受け入れていた。けれど、日を追うごとに、その空席が、わたしの心に小さな違和感の種を蒔き始めていた。彼女の存在は、まるでわたしという絵に添えられた、影のようなものだった。その影が消えたことで、光は拡散し、どこか焦点の定まらないものになったような気がしていたが、それだけでは無い。

朝食の食卓では、もう何も触れられなかった。すべてが、普段通りの、完璧な秩序の中で進行していた。舞蝶の不在は、食卓の上の、単なる見えない空白として扱われた。

午後になり、母がわたしの部屋を訪れた。珍しいことだった。普段、母がわたしの部屋に足を踏み入れるのは、稽古の進捗を確認する時か、新しい洋服の採寸の時くらいだ。彼女は、音もなく部屋に入ると、わたしの向かいの椅子に腰掛けた。その表情は、いつものように穏やかで、優しさを湛えている。けれど、彼女の目の奥には、どこか探るような光が宿っているように見えた。


「桔梗、少しお話があるの。」


母の声は、いつになく落ち着いていて、わたしは無意識に刺繍の手を止めた。何だろう。何か、わたしが期待に応えられなかったことだろうか。

あるいは、新しい稽古の話だろうか。


「舞蝶のことなのだけれど。」


その言葉を聞いた瞬間、わたしの心に、微かな緊張が走った。やはり、舞蝶のことだ。この数日、わたしの心に微かなざわめきを与えていた空白のことだ。


「はい、お母様。体調は、もう良いの?」


わたしは尋ねた。母は、ふと視線を窓の外の庭に向け、そしてゆっくりとわたしに目を戻した。


「ええ、実は……」


母は、そこで言葉を区切った。その間が、わたしの胸を締め付ける。まるで、これから告げられる言葉が、この部屋の完璧な秩序を、微かに揺るがすような、そんな不安な予感があった。

────早く言って。


間が耐えられなかった。



「舞蝶はね、遠い親戚の家へ引き取られることになったのよ。」


その言葉は、まるで庭に舞い落ちた一枚の葉のように、静かに、あっけなく告げられた。

引き取られる。遠い親戚の家へ────つまり

舞蝶はいなくなる。


「そうなの…」


わたしは、ただそれだけを答えた。驚きはなかった。なぜだろう。この数日の舞蝶の不在が、すでにわたしの心に、何らかの変化が起きていることを予感させていたのかもしれない。あるいは、母の言葉に、最初から微かな嘘の響きを感じていたからだろうか。その声は、完璧に穏やかで、優しさを湛えていたけれど、わたしには、その奥に隠された、何か冷たいものが透けて見えるような気がした。


「あの子はね、少し体が弱くて、この洋館の暮らしが、負担になってしまっていたようなの。遠い親戚には、病弱な子供の世話に慣れている者がいるから、あの子のためには、そちらで暮らすのが一番だと、親戚のご夫婦が判断されたのよ。」


母は、そう続けた。その説明は、理路整然としていて、何の矛盾もなかった。舞蝶が病弱だという話は、これまで聞いたことがなかったけれど、彼女が普段から感情を表に出さず、影のようにひっそりと生きていたことを思えば、病を隠していたとしても不思議ではない。具合が悪い、と数日前に言ったこととも僅かに繋がる。


それに、わたしたちの家族は、常に世間とは隔絶された場所で生きてきた。遠い親戚の存在など、わたしの知るところではない。そのため、居てもおかしくはない。



「そう、だったのですね…」


わたしは、再びそう答えるしかなかった。言葉に詰まることはなかった。質問も湧いてこなかった。ただ、母の言葉が、わたしの心の中で、どこか不自然に響くのを感じていた。まるで、完璧に調和した音の中に、ごく僅かな不協和音が混じっているように。

母は、わたしの反応を見て、満足げに微笑んだ。その笑顔は、普段のように優しく、温かかった。その顔を見ていると、わたしの心に纏わり付いていた微かな違和感が、霧のように薄れてゆくのを感じられた。母は、普段からこの家の秩序を完璧に保ち、わたしを守ってくれる存在だ。彼女の言葉は、この家の真実であり、わたしが疑うべきものではない。


「これで、桔梗も安心して学業に専念できるわね。あの子のことは、もう心配しなくていいのよ。」


母は、そう言ってわたしの髪を優しく撫でた。その手つきは、普段通りの愛情に満ちていた。わたしは、頷いた。そうだ。心配する必要などないのだ。舞蝶は、わたしとは異なる存在だった。彼女は、わたしの光を際立たせる影。その影が、別の場所に移っただけのこと。


だが、母が部屋を出て行った後も、わたしの心には、拭い切れない違和感が残っていた。

疑問はない。それなのに────。


それは、はっきりとした形を持たない、漠然としたものだ。舞蝶の不在が、これで完全に「解決」されたはずなのに、なぜだろう、心のどこかに、小さな石が転がっているような感覚が残る。

部屋の片隅にある、舞蝶が座っていたはずの空席を見つめた。陽光が降り注ぐ中、そこには、何の影もなかった。まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように影も形もない。だが、空白は、以前よりも強く、わたしの心に存在を主張しているように思えた。

わたしは、刺繍糸を再び手に取り、針を進めた。絹糸が布を貫く微かな音だけが、部屋に響く。窓の外では、真夏の陽光が降り注ぎ、庭の花々が風に揺れている。すべてが、普段通りだった。舞蝶の不在は、これで「説明」された。わたしの完璧な世界は、再びその輝きを取り戻したのだ。

しかし、その説明の背後にある、母の目の奥に見えた僅かな拒絶と、言葉の端々に感じた不自然な響きは、まるで洋館の壁に染み付いた、目に見えぬ薄い黴のように、わたしの心の奥底に、置き去りにされた違和感として残った。

そして、その違和感は、いつか、この完璧な秩序を揺るがす、小さなひび割れとなるのかもしれない。

そんな予感が、ふと過った。

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