第二部【桔梗①】

《八重》

寝室の窓から差し込む月明かりは、磨き上げられた家具の輪郭をぼんやりと浮き上がらせ、すべてが墨絵のように静止している。遠くで、置き時計の振り子が規則正しく時を刻む音だけが、やけに大きく響く。

舞蝶が息絶えたあの朝から、幾日経っただろうか。わたしは、あの出来事の詳細を、夫の時継には簡潔に伝えた。彼は、予想通り、感情を一切見せることなく、ただ「処理」を促した。まるで、一つ故障した機械を片付けるかのように。


その冷徹な反応に、わたしの心は奇妙な安堵を覚えた。これで、舞蝶の存在は、この洋館から完全に消え去る。あの重苦しい澱のような気配から、解放されるのだ。

けれど、一番の問題は、未だわたしの胸に重くのしかかっていた。桔梗に、これをどう説明すればいいのか。

まだ話せていない。

桔梗に。わたしの愛しい娘に。

彼女の人生に、舞蝶の死という、このような不吉な影を落とすことは、断じて許されない。彼女の心に、不必要な動揺や、暗い感情の種を植え付けることだけは、避けなければならない。

わたしは、毎日、夜、寝台に横たわりながら、何度も何度も、心の中で言葉を紡ぎ直した。舞蝶の死を、病気と偽る。簡単だが、それでは桔梗が詳細を尋ねかねない。突然の事故では、あまりに不自然だ。警察を呼ばなかったことに疑問を持たれては困る。

数えきれないほどの言葉が、思考の中で絡み合い、消えてゆく。やがて、一つの結論にたどり着いた。


「舞蝶は、遠い親戚の家へ引き取られました」


この言葉こそが、最も穏便で、悲劇性を伴わない説明だ。舞蝶は、確かにわたしたちの血縁だ。遠い親戚という曖昧な表現であれば、具体的な場所を問われることもないだろう。そして、それが、桔梗の心に余計な傷をつけずに済む、最善の方法なのだ。

わたしは、その言葉を、心の中で何度も反芻した。声に出して言ってみる。密やかな囁きが、闇に吸い込まれる。


「舞蝶は、遠い親戚の家へ引き取られました……」


完璧だ。これならば、桔梗も納得するだろう。彼女は、舞蝶に深い関心を抱いていない。ただ、わたしや夫のように自分の日常の秩序が乱れることを嫌うだけだ。そして、舞蝶の不在が、彼女に何の不利益ももたらさないことを示せば、それで良い。

しかし、その結論に至ったにもかかわらず、わたしの心には、微かな不安の影が差していた。それは、言葉の偽りに対する罪悪感ではない。わたしにとって、桔梗を守ることが何よりも優先される。そのための嘘など、取るに足らないものだ。

不安の正体は、別のところにあった。

本当に、この嘘が、すべてを丸く収めるだろうか。

舞蝶の死は、この洋館の中で、まるで最初から存在しなかったかのように消え去る。けれど、その存在が、洋館のどこかに、薄い染みのように残るのではないか。舞蝶は、いつもわたしの心をざわつかせた。わたしが意図的に無視し続けたにもかかわらず、その存在は、常にわたしの視界の隅に、不穏な影を落とし続けていた。

娘の死が、本当に、わたしを解放してくれるのだろうか。

それとも、あの和室に閉じ込められたまま、洋館の一部となって、永遠にわたしを苛み続けるのだろうか。

わたしは、寝台の中で身じろぎ、冷たい寝具の感触を確かめた。身体は疲れているはずなのに、なぜか眠りにつけない。桔梗の安らかな寝顔が、脳裏に浮かぶ。彼女は、今、何の不安もなく、深く眠っているだろう。その安らかな寝顔を、舞蝶の死という暗い現実で穢すことはできない。桔梗は、光の中にいなければならない。常に、希望と、美しさと、幸福の中に。

わたしは、再び言葉を反芻する。

「遠い親戚の家へ引き取られました」

声に出すと、その言葉が、まるで現実味を帯びてゆくように感じられた。

そうだ。これでよい。これが最善なのだ。

明日、朝食の食卓で、桔梗にその言葉を告げる時、わたしは、完璧な表情を、完璧な声色で、その言葉を告げられるのだろう。微塵の動揺も見せることなく、ただ事実を述べるかのように。それが、わたしの役割だ。この家を、この家族を、あるべき姿に保つための、唯一の道なのだと、わたしは自分に言い聞かせた。

けれど、心の奥底で、わたしは知っていた。舞蝶の存在は、思うより暗く、深く、壊れている。わたしの想像以上に、この家に、そしてわたしの心に、深く根を張っているのかもしれない。その不安は、まるで湿気を帯びた空気のように、わたしの胸の奥にじっとりとまとわりつき、離れない。

遠くで時計の針が、新たな一刻を刻む。

チクタク、チクタク。

その規則的な音は、まるで、わたしの心臓の鼓動のように響き、眠りを拒んでいるかのようだ。わたしは、目を閉じ、闇の中で、明日、桔梗に告げる嘘の言葉を、ただひたすら反芻し続けた。その言葉が、本当にこの家を、わたしの未来を、安寧へと導いてくれるのだろうか。その問いだけが、夜の闇の中で、わたしを苛み続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る