《八重》
真夜中の洋館は、重く、深く、静まり返っていた。七月の最後の日、梅雨はとうに明け、日中は容赦ない陽光が降り注ぐ。だが、夜になると、洋館の石壁は昼間の熱をすべて吸い込んだかのように冷え込み、湿気を帯びた空気が、肌に纏わり付くように重く澱む。寝台に横たわりながら、わたしは薄目を開けた。漆黒の闇に包まれた部屋で、僅かに差し込む月明かりが、室内の家具の輪郭をぼんやりと浮き上がらせている。遠くで、時計の振り子が規則正しく時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
今日の朝、使用人から告げられた言葉が、鉛の塊となって胸の奥に沈んでいる。
「奥様、舞蝶様が……お亡くなりに、なっておりました。」
その言葉は、まるで真夏の熱気を凍てつかせる冷たい氷塊のように、わたしの思考を硬直させた。何が起きたのか、どうして、という疑問よりも先に、真っ先に頭をよぎったのは、この家の秩序が、音を立てて崩れるのではないかという懸念だった。わたしは、感情を表に出すこともなく、ただ使用人に「そう。分かったわ」と短く答えた。桔梗には、朝食の席で「体調が優れない」と告げた。それが、この家の平穏を保つための、唯一の道だったからだ。
だが、これも長くは続かない。そうわかっている。
舞蝶が死んだ。
あの、いつも感情の読めない顔で、ただ静かにそこにいた娘が。
あの、わたしの期待に一度も応えることなく、影のように生きてきた娘が。
可哀想、という感情は、わたしの心には湧き上がらなかった。悲しい、という感情もまた然り。むしろ、安堵に近い、微かな解放感が胸をよぎった。これで、あの重苦しい存在から、わたしは解放される。常に視界の隅に存在し、わたしの心をざわつかせた、あの得体の知れない澱のようなものが、取り除かれたのだ。
だが、安堵は一瞬で消え去り、別の、もっと大きな感情がわたしの心を支配し始めた。それは、動揺だった。この事態を、どう処理すればいいのか。夫には、まだ何も話していない。彼は、常に合理的な判断を求める人間だ。この突発的な出来事を、彼にどう伝えれば、最小限の混乱で済むだろうか。そして、何よりも、桔梗に、これをどう説明すればいいのか。
桔梗。わたしの愛しい娘で、わたしのすべてだ。彼女こそが、この家の未来を背負う、光そのものだ。彼女の人生に、舞蝶の死という、このような不吉な影を落とすことは、断じて許されない。彼女の心に、不必要な動揺や、暗い感情の種を植え付けることだけは、避けなければならない。
わたしは、寝台から身を起こし、足音を立てないように、静かに部屋を出た。
廊下を歩く。
月の光が、磨き上げられた床に、銀色の帯のように伸びている。すべての音が、洋館の重厚な壁に吸い込まれていくような静寂の中、わたしの思考だけが、ぐるぐると渦を巻く。
どう伝えるべきか。
「舞蝶は、病で亡くなりました」────それではあまりに唐突か。舞蝶は、特に病弱というわけではなかった。かといって、長く煩っていた、と嘘をつくのも無理がある。普段から無関心なふりをしている以上、病の詳細を問われた時に答えに詰まるだろう。
「突然の事故で……」────それもまた、詳細を問われかねない。そして、事故であれば、なぜ警察に届けないのか、という疑問が浮かぶ。この家は、外界とは隔絶されているとはいえ、完全に独立しているわけではない。外部との繋がりは、最小限に抑えるべきだ。
あの和室。舞蝶が閉じ込められていた、薄暗いあの部屋。彼女の部屋は、使用人小屋のように粗末で、日も当たらず、常に湿気が澱んでいた。あの部屋で、誰にも看取られることなく、ひっそりと息絶えたのだろう。誰の目にも触れない場所で、彼女はひっそりと消えた。それが、わたしにとっての真実であり、救いでもあった。
だが、その事実を、どう脚色すれば、桔梗の心を守ることができるだろう。
桔梗は、舞蝶をどう思っていたか。もちろん、わたしと同じように、彼女の存在を深く意識することはなかっただろう。けれど、彼女の影が、桔梗という光を際立たせるための対比であったことは確かだ。その対比が消えた時、桔梗の心に、どのような影響が及ぶのか。
「舞蝶は、遠い親戚の家へ引き取られました」────これはどうか。病死とするよりも、自然で、かつ悲劇性を伴わない。新しい場所で、新しい生活を送ることになった、とでも説明すれば、桔梗も納得するだろう。だが、再び会うことはない、と付け加えなければならない。
「しばらく会えないけれど、いつかきっと帰ってくるわ」────そのような希望を持たせる言葉は、後々、真実が露呈した時に、桔梗を深く傷つけることになる。それは避けたい。桔梗の心が傷つくことだけは、絶対に避けなければならない。
わたしは、桔梗の部屋の前を通り過ぎる。固く閉ざされた扉の向こうから、寝息が聞こえるような気がした。彼女は、今、何の不安もなく、深く眠っている。その安らかな寝顔を、舞蝶の死という暗い現実で汚すことはできない。桔梗は、未来なのだ。この家の、わたしの、そして夫の、すべての未来を背負う者なのだ。
この洋館は、外界から隔絶されている。この事実を、わたしたち夫婦が、巧みに利用してきた。世間から隔てられたこの空間で、舞蝶の死という事実を、どのようにして「無かったこと」にできるだろうか。完全に消し去ることはできない。だが、その影響を最小限に抑え、桔梗の心を守ることはできるはずだ。
わたしは、夫の書斎の扉の前に立ち止まった。重厚な木の扉は、夜の闇に沈み、まるで秘密をすべて閉じ込めているかのようだ。この扉の向こうにいる夫は、この事態をどう受け止めるのだろう。彼は感情的になることはない。常に合理的で、無駄を嫌う。舞蝶の死は、彼にとって、管理すべき「事案」の一つに過ぎないだろう。おそらく桔梗にも「舞蝶が死んだ」といってしまうだろう。彼に伝える言葉は、簡潔に、そして、今後の処理について、わたし自身の考えを明確に提示する必要がある。
問題は、やはり桔梗だ。彼女はまだ幼い。まだ、この世界の残酷さを知る必要はない。舞蝶の死という、不条理で、どこか不吉な出来事が、彼女の心に影を落とすことだけは避けたい。彼女は、光の中にいなければならない。常に、希望と、美しさと、幸福の中に。
わたしは、冷たい廊下に立ち尽くし、ただひたすら考え続ける。
舞蝶の死を、どう語るか。
その言葉一つで、桔梗の未来が変わる。
夜は、深く、静かに更けてゆく。洋館のどこからもただよう、湿気を帯びた空気の重さ、木材の匂い────その中で、わたしは、娘の未来を守るための、完璧な「物語」を紡ぎ出そうと、必死に言葉を探し続けた。
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