《桔梗》
七月も、気づけば最後の日になっている。
完全に梅雨の開けた空は、抜けるような青さを取り戻し、洋館の庭には真夏の太陽が惜しみなく降り注いでいた。朝露を纏った薔薇の蕾は、一輪一輪が宝石のように輝き、庭師が丹精込めて手入れした芝生は、どこまでも均一な緑の絨毯を広げている。わたしの部屋は、南側に位置するため、窓からはこの完璧な庭園が絵画のように望める。朝の光は、真新しい人形の陶器の肌を滑り、舶来の絵本の金箔を鈍く輝かせた。すべてが、わたしという存在の価値を、静かに肯定するように、そこに存在していた。
朝食の食卓は、いつも通りの厳格な配置で、その中央には父が、その右手に母が、左手にはわたしが座っていた。銀食器が鈍く光を反射し、磁器のカップからは、薄い紅茶の香りが立ち上る。
そして使用人が、焼きたてのパンを丁寧に配膳してゆく。その一切の淀みない所作は、この洋館の秩序そのものだ。わたしと母の会話は、いつも通り控えめで、必要最低限の言葉しか交わされない。時折、わたしが学業の進捗や、琴の稽古の成果を報告すると、父は小さく頷き、母は柔らかな視線を向ける。それが、わたしの日常であり、幸せな時間だ。
けれど、今日の食卓には、いつもの薄暗い影がなかった。食卓の端、窓から最も遠い場所にある、小さな木製の椅子。そこは、普段なら舞蝶が座る場所だ。だが、今日は、その椅子はがらんとしていた。まるで、そこに座るべき存在が、最初からいなかったかのように、空間だけがぽっかりと残されていた。
「舞蝶は、まだ寝ているのかしら?」
わたしは、焼きたてのパンにバターを塗る手を止め、何気なく母に尋ねた。純粋な疑問だ。
いつも同じ時間に、まるで定められた役割を全うするように起きてくるはずの舞蝶が、そこにいないのは、わたしにとって珍しいことだ。彼女の存在は、常にわたしの視界の隅にあり、意識せずとも認識される、背景のようなものだった。その背景が、不意に消えたのだ。
母は、一瞬だけ、その視線をパンの皿に落とし、すぐに顔を上げた。その顔には、微かな戸惑いのようなものが浮かんだように見えたが、それはすぐに、普段の通り、穏やかな表情に覆い隠された。
「ええ、少し体調が優れないようです。使用人に、後で部屋まで食事を運ばせるように言っておきましたから。」
母の声は、普段と変わらない、穏やかな響きを持っていた。けれど、わたしは、その言葉の中に、微かな嘘の響きを感じた。それは、確かな根拠があるわけではない。ただ、母の表情に、いつもの「舞蝶への無関心」以上の、何かひっそりとした拒絶のようなものが滲んでいるように思えたのだ。まるで、彼女の不在を、母自身が望んでいるかのように。あるいは、何かを隠すように。父は、何も言わず、ただ手元の新聞に目を落としている。彼の無関心は、いつものことだったが、今は、その沈黙が、普段より重く感じられた。
わたしは、再び舞蝶の空席に目をやった。いつもそこにいるはずの影が消えた空間は、奇妙な空白を作り出しているように感じられた。部屋全体が、どこか息苦しいような、説明のつかない違和感に満たされている。陽光が降り注ぐこの食卓で、舞蝶の影は、わたしの光を一層強く際立たせるための、必要な対比だった。その影が消えたことで、光は拡散し、どこか焦点の定まらないものになったような気がした。わたしは、パンを口に運んだが、その味は、いつものように感じられなかった。バターの風味も、小麦の甘みも、すべてが薄膜に覆われたように曖昧だった。
食事が終わると、わたしは自室へと向かった。いつものように、刺繍糸を手に取り、ソファに深く身を沈める。普段なら、部屋の片隅に、舞蝶が影のように座っている。彼女は、わたしが新しい刺繍を始めるたびに、その作業をじっと見つめていた。その視線は、何の感情も含まない、ただの観察者のものだったが、それでも、そこに誰かがいるという微かな気配は、わたしにとって当たり前のものだった。けれど、今日は、そこには誰もいない。静かで、広々とした部屋に、わたしだけの存在が浮き彫りになる。その静けさは、いつもであれば心地よいはずなのに、今日ばかりは、わたしを不安にさせた。まるで、わたし自身の存在が、その広すぎる空間の中で、希薄になってゆくように。
午前の稽古の時間になっても、彼女が姿を見せることはなかった。わたしは、何度か、彼女の部屋の前を往復した。二階の北側に位置する、薄暗い和室。障子はいつも固く塞がれ、昼間でも陽の光が差し込むことはない。今日も、その扉は、固く閉ざされたままだった。中から、何の物音も聞こえない。部屋そのものが、息を潜めている。扉から漏れる何の音もない静寂が、わたしの胸に重くのしかかる。中に何か異変が起きているのではないか。そんな考えが、頭の片隅をよぎった。
舞蝶が風邪を引いたことなど、これまでほとんど記憶にない。彼女は、いつも感情を表に出さないように、体調の変化も悟らせなかった。だからこそ、今日の彼女の不在は、わたしの心をざわつかせたのだ。まるで、今まで当たり前だった風景の中に、突然、不自然な空白が生まれたような、そんな感覚だ。
けれど、わたしは、その扉を開けようとはしなかった。
開ける必要がない、そう思ったのだ。
舞蝶は舞蝶。わたしはわたし。それは、動かしようのない事実だった。彼女は、いつもわたしの影として、わたしの光を際立たせる存在だった。その影が一時的に消えたところで、わたしの輝きが損なわれるわけではない。むしろ、この静けさは、わたしにとっての自由であり、束の間の安寧なのかもしれない。彼女の無言の視線から解放され、わたしは、より自由に、より伸びやかに、この部屋で息ができる。そんな、密やかな喜びが、胸の奥に芽生え始めていた。
わたしは、刺繍糸を再び手に取り、針を進めた。絹糸が布を貫く微かな音だけが、部屋に響く。窓の外では、真夏の陽光が降り注ぎ、庭の花々が風に揺れている。すべてが、いつも通りだった。舞蝶の不在は、やがて、わたしにとって、単なる日常の些細な変化として、意識の奥底へと押しやられていった。彼女の影が消えた部屋は、次第に、元の静けさを取り戻していく。そして、わたしは、その静寂の中で、再び自らの役割に没頭していった。彼女の不在がもたらした一時のざわめきは、夏の日の蜃気楼のように、やがて消え去り、わたしの完璧な世界は、再びその輝きを取り戻したのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます