《八重》

七月の終わりが近づく空は、相変わらず薄鈍色に沈み、洋館の庭は、湿気を含んだ重い空気に満たされている。梅雨は明けたと言われているのに、実際はまだ明けきらず、窓の外では、ほぼ絶えず雨音が響いていた。

舞蝶の姿を見るたびに、わたしは無意識のうちに目を逸らしてしまう。以前は、ただの無表情だと片付けていた。感情の欠落した人間なのだと思っていたのだ。だが、最近、その無表情の奥に、何か別のものが蠢いているように感じることが増えていた。


食事が終わり、夫が書斎へ、桔梗とわたしが応接間に移動する。わたしは、桔梗を伴い、応接間へと向かう途中で、ふと振り返った。舞蝶はまだ食卓に座り、使用人が片付けをするのを、ただ静かに見つめている。その背中は、以前にも増して小さく、そして、どこか歪んでいるように見えた。気のせいだろうか。そして、僅かに震えていた。

怒りに震える。一瞬そんな姿にも似ていると思ったが、彼女が怒ることは無いだろう。

寒いのだろう。彼女には感情がないのだから。


午後の時間、わたしは桔梗の歌の稽古に付き添っていた。柔らかな歌声が、応接間に満ち、陽光が降り注ぐ中で、桔梗の表情は生き生きと輝いている。舞蝶は、普段のように部屋の隅に座っている。けれど、その日の彼女は、いつもと少し違っていた。彼女の視線が、時折、歌っている桔梗ではなく、窓の外の庭の木々に向けられているのが見て取れた。彼女の目は、何かを追っているようでもなく、ただ虚空を見つめているようだ。

その顔に、微かに影が差しているのを、わたしは確かに見た。そしてそれは、単なる光の加減ではなかった。


わたしは、一瞬、声をかけようかと迷った。しかし、すぐにその考えを振り払う。彼女に声をかけたところで、何になるというのだろうか。彼女はいつも無言で、何の反応も示さないではないか。それに、桔梗の稽古の邪魔をしてはならない。わたしは、彼女の存在を、視界の隅に押しやり、意識的に無視することにした。

だが、それから舞蝶の表情が、以前とは異なる様相を呈していることに、わたしはますます気づかされるようになった。彼女は、相変わらず無言で、感情を表に出すことはない。けれど、その薄い膜の向こう側で、何かが蠢いているような、そんな錯覚に陥ることが増えたのだ。

夕食の準備中、わたしは使用人に指示を出すために、台所へと向かった。その途中で、ふと舞蝶の部屋が目に入る。彼女の部屋の押し入れが、僅かに開いているのが見えた気がした。

誰かが、そこに何かを置いたのだろうか。そう思いながら、何気なく目を向けると、その扉の隙間から、舞蝶が中に身を潜めているのが見えた。

彼女は、何かをしているわけではない。ただ、その闇の中に、じっと座っているだけだった。その背中はかなり小さく、ひどく沈んでいるように見えた。わたしは、思わず足を止める。彼女の姿から、これまで感じたことのない、不穏な気配が漂っているのを感ジテジウ。まるで、彼女自身が、その闇に吸い込まれてゆくよう────。

わたしは、一瞬、彼女に近づこうかと迷った。何を考えているのか、問い質そうかと考える。しかし、次の瞬間には、その考えを打ち消した。彼女は、いつだってわたしたちの言葉を理解できているのかわからない。話しかけても、ただ無表情でいるだけだ。それに、このような薄暗い場所で、何を話すというのか。

昔はどうであったか。ふと思う。

ここに引っ越してくる前は、もう少し話していたでは無いか。わたしたちに虐げられようと、普通に接してきた。

けれど三年前、桔梗が来た時からか、二年前、引っ越した時だろうか。

今の舞蝶に変わった。

わたしたちのせいだろうか。

いや、違う。彼女のせいだ。あるいは、自分の立場を理解したのだろう。

わたしは、何も見なかったかのように、足音を立てずにその場を離れた。彼女の存在は、常にわたしにとって、厄介なものでしかなかった。彼女の感情など、知る必要もない。知ったところで、この家の秩序を乱すだけだ。わたしは、この洋館の平穏を保つために、彼女の存在を無視し続ける必要がある。それが、わたしの役割なのだ。

夕食の時も、わたしは、変わらぬ場所に座り、変わらぬ食事を口にする。遠くで微かに聞こえる夫と桔梗の声に耳を傾けながら、わたしは無意識に舞蝶の姿を探す。彼女は、居間の片隅で、普段のように、静かに座っていた。暗がりに沈む彼女の顔は、はっきりと見えない。しかし、わたしには、その影の中に、これまでとは違う、冷たい光が宿っているように感じられた。それは、悲しみでも、怒りでもない。まるで、感情の奥底から湧き上がる、無機質な輝きのようだ。

その光を見ると、わたしの胸の奥は、奇妙なざわめきに満たされた。それは、恐怖ではない。けれど、どこか不気味で、わたしの心を掻き乱すものだ。わたしは、そのざわめきを、意識的に鎮めようとした。この洋館の平穏を乱すものは、排除しなければならない。たとえそれが、わたしの娘であろうと。

わたしは、皿に残った料理を、無言で口に運んだ。普段好きだった味は、いつものように感じられない。ただ、舌の上に、漠然とした氷のような冷たさが残るばかりだ。舞蝶の存在は、まるでこの洋館に染み付いた古びた黴のように、わたしの意識の片隅に、常に不穏な影を落とし続けている。けれど、わたしは、その影から目を逸らし、わたし自身の役割を全うする。それが、この家を、この家族を、あるべき姿に保つための、唯一の道なのだと、わたしは自分に言い聞かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る