第二部【舞蝶③】
《舞蝶》
空は、相変わらず薄鈍色に沈み、洋館の窓を叩く雨音だけが、やけに鮮明に耳に届く。書斎の奥、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めている父の声も、応接間から漏れ聞こえる母と桔梗の笑い声も、わたしには遠い国の物語のように響く。わたしの世界は、この薄暗い和室の畳の匂いと、壁に染み付いた黴の香りに限られているのだ。
桔梗の部屋で過ごす時間も、いつしかわたしは、部屋の隅の陽の当たらない場所に追いやられていた。桔梗は、ソファに深く身を沈め、新しい刺繍糸を手に、黙々と作業を進める。絹糸の滑らかな感触が指先を滑る音が、わたしの耳には、嘲笑のように聞こえる時がある。
日が経つにつれ、わたしは桔梗の部屋の片隅に押しやられ壁に身を寄せるようになっていた。外は激しい雨が降っていて、窓ガラスを叩きつける雨音は、まるで洋館が怒鳴り声を上げているかのようだ。桔梗は、珍しく刺繍の手を止め、窓の外を眺めている。その表情は、どこか退屈そうで、僅かに憂いを帯びているようにも見えた。
彼女は不意に立ち上がり、部屋の中央に置かれた、色鮮やかな花が活けられた花瓶に目をやった。
その花瓶は、異国のガラス工芸品で、複雑な模様が施され、光を受けて虹色に輝いていた。わたしは、一度もそれに触れることを許されたことがない。花をいけてみたいと思ひ桔梗に述べたが、直ぐに痛みが走った。
桔梗は、ふと、その花瓶に手を伸ばす。わたしは、何気なくその様子を見ていた。すると、彼女の手が、滑るように花瓶から離れ、ガシャン、というけたたましい音とともに、花瓶は床に落ち、粉々に砕け散った。
床に散らばるガラスの破片が、雨の日の薄暗い光を反射して、まるで無数の小さな星屑のように輝いていた。わたしは、思わず息を呑んだ。鮮やかな花々は、水浸しの絨毯の上に散乱し、その花びらは、まるで血潮のように、薄いピンク色の染みを作ってゆく。
桔梗は不注意だ。花瓶を割ったことは、何度あるだろうか。そして、そのたびにわたしが叱責される。
直後、母の甲高い声が、廊下から響き渡った。
「舞蝶!一体何を……!」
母が、部屋に飛び込んでくる。その顔は、怒りと驚きに歪んでいる。わたしは、無意識のうちに体を硬くし、息を殺した。ゐづものように、叱責の言葉が嵐のように降り注ぐのだろう。そして、その矛先は、やはりわたしにも向けられるに違いない。なぜなら、わたしは普段から桔梗の近くにいるからだ。
桔梗がやってもわたしのせいになる。
「まあ、桔梗、怪我はないの?大丈夫?」
母の次の言葉は、わたしの予想を裏切るものだった。母は、砕け散った花瓶や散乱した花には目もくれず、真っ先に桔梗に駆け寄る。彼女の顔には、娘の身を案じる深い愛情が滲み出ていた。桔梗は、少しだけ顔を青ざめさせていたが、すぐに「大丈夫よ、お母様」と答えた。
「ああ、よかったわ。これは大変。あげは、使用人!使用人を呼びなさい!」
母の声は、怒りから一転して、安堵と慌ただしさに変わっていた。わたしが呼ぶ前にすぐに駆けつけた使用人が、床に散らばったガラスの破片を、手際よく片付け始める。その間も、母は桔梗の手を取り、何度も大丈夫かと問いかけ、優しく彼女の髪を撫でていた。
わたしは、その光景を、部屋の隅でじっと見つめるしかない。かえって謝るなど刺激して、折檻が悪化したことが幾度もある。心臓の音が、耳の奥でドクンドクンと響く。わたしの中に、これまで感じたことのない、冷たい、黒い感情が芽生え始めたのを感じた。
ふと思い出す。数ヶ月前のことだ。
わたしもまた、同じように花瓶を倒してしまったことがある。父の書斎に飾られていた、ありふれた素焼きの花瓶だ。
その時、母の叱責は、まるで雷鳴のように部屋中に響き渡り、わたしは震えながら、独りでその破片を片付けさせられた。使用人は、誰も助けに来なかった。母は、わたしを冷たい目で見下ろすだけで、心配の色など微塵もなかった。あの時の、手のひらに刺さったガラスの痛みと、胸に突き刺さった言葉の痛みが、今も鮮明に蘇る。
なぜ、同じ過ちなのに、こんなにも違うのだろう。
桔梗が倒した花瓶は、高価な舶来品だ。
わたしが倒したのは、何の変哲もない素焼きの器であった。
価値の違いのはずは無い。わたしが倒したものの方が、遥かに価値が低い。
やはり、わたしと桔梗の、存在の価値の違いなのだろうか。
わたしの心の中で、何かが音を立てて崩れてゆくのを感じた。それは、僅かに残っていた、この家族への期待や、温もりへの憧れのようなものだったのかもしれない。それらが、まるで薄氷のように、脆く砕け散った。残されたのは、底知れない虚無と、冷たい、黒い感情の澱であった。
わたしの、桔梗を見る目が変わった。
これまでは、ただ遠い存在として、あるいは、自分とは異なる世界の住人として、ぼんやりと認識していただけだったけれど、今は違う。
彼女の笑顔を見るたびに、その声を聞くたびに、わたしの胸の奥に、冷たい錐が突き立てられるような感覚を覚える。それは、彼女への羨望ではなかった。むしろ、わたしの存在を蔑ろにし、彼女の優位性を際立たせるこの家庭の歪みへの、その歪みを当たり前のように享受する桔梗への、深い憎悪へと形を変えてゆく。
特に、桔梗が両親に褒められるたびに、その憎悪は明確な形を帯びていった。彼女が新しい歌の稽古で講師に褒められた時、父の友人が訪れた際に披露する琴の音色が賞賛された時、わたしはゐづも、彼女の背後に立って、その光景を憎らしげに見つめるようになった。
以前は、彼女の光が、わたしの存在を一層強く際立たせるように感じられたが、今では、その光が、わたしを闇の奥に押し込める重圧に他ならなかった。
わたしは、桔梗の眩いばかりの輝きの陰で、ひっそりと、恨みを募らせていった。それは、誰にも知られることのない、わたしだけの秘密の感情だ。そしてそれは洋館の薄暗い片隅で、着実に、その黒い芽を伸ばしてゆく。この恨みは、やがて、わたし自身をも変えてゆくのかもしれない。何故か、決定的なものとなる予感がある。
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