第二部【八重①】

《八重》

わたしは、桔梗の変化に心を痛めながらも、それが舞蝶の死を目撃したせいだとは、決して認めないことにした。認めてしまえば、わたしの完璧な世界が、音を立てて崩れ去るような気がしてならない。


この数日、わたしは舞蝶の和室や、二階の収納スペースに入ることを避けていた。娘の亡骸が運び出された後、部屋と収納スペースは、使用人に清掃を指示したが、どうしても自ら足を踏み入れる気にはなれなかった。

だが、いつまでも放置しておくわけにはいかない。遺品整理をし、あの部屋を完全に「無かったこと」にしなければ落ち着けない。

そうすれば、この家から、そして桔梗の心から、舞蝶の影が完全に消え去るはずだ。


わたしは、覚悟を決めて、舞蝶の部屋へ向かった。廊下は普段通り薄暗く、ひんやりとした空気が肌に纒わり付く。和室の引き戸は、少しだけ重かったが、軋む音を立てて開いた。


部屋の中は、予想通り、静まり返っていた。陽の光がほとんど差し込まないため、昼間でも薄暗く、どこか湿った空気が澱んでいる。畳からは、藁と黴の匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。舞蝶が残したものは、ほとんどなかった。粗末な寝具と、僅かな着替え、読みかけの本が数冊程だ。

どれも、彼女の存在がいかに希薄であったかを物語っているかのようだ。


わたしは、無言でそれらを片付け始めた。着替えは、小さな行李に詰め、本はまとめて紐で縛る。手際よく作業を進めながらも、心のどこかで、言いようのない不快感が募ってゆくのを感じていた。まるで、舞蝶の残した気配が、この部屋の隅々にまで染み付いているようだ。


やがて、部屋の隅にある押し入れの前に立った。ここには、彼女の私物が、もう少し入っているはずだ。桔梗が来る前に仕方なく買い与えたものがあるだろう。

観音開きの重い扉に手をかけ、引いた。

ギィ、と鈍い音を立てて、押し入れの扉が開く。

押し入れの中は、一段と暗く、ひんやりとしていた。奥には、埃を被った古い箱が幾つか積まれているのが見える。それらを一つ一つ手前に引き出し、中身を確認してゆく。どれも、使われなくなった着物や、古い贈答品、季節外れの調度品ばかりだった。舞蝶のものは、ほとんど見当たらない。

わたしが買い与えたものを捨てたのだろうか。

怒りがわくが、直ぐにわたしは関係の無い違和感を覚えた。


押し入れの奥、本来ならば壁であるはずの場所に、見慣れないものがあった。

置かれたわけではないようだ。

壁の一部に溶け込むように存在する、もう一つの扉のようだ。高さは、1メートルほどで、幅も同じくらいだろう。正方形のようだ。

古びた木製で、表面は滑らかだが、年月を経て黒ずんでいる。

二年でここまで古びるはずがない。後から古びた木をとりつけたようだが、おぼえがない。

取っ手のような凸部は見当たらず、ただそこに、一枚の板がはめ込まれている。

だが、近寄ってみると、見えにくい凹みはあるようだ。

わたしの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。全身の血液が、一瞬にして凍り付いたかのように、ひんやりとした感覚が走る。息が、荒く浅くなる。肺が酸素を求めるように激しく上下する。

なぜ、こんな場所に扉があるのだろう。

わたしは、この洋館の間取りを熟知している。この押し入れの奥は、確か、この部屋の外壁か、あるいは隣の納屋の一部であるはずだ。こんなところに、隠された扉など、これまで一度も見たことも聞いたこともない。それに、この扉は、まるでこの和室の壁の材質とは異なる。木目がきめ細かい和室の押し入れの壁と異なり、かなり木目が荒い。

わたしは、恐る恐る、その扉に手を伸ばした。指先が触れると、ひんやりとした木の感触が伝わる。それは、ただの古い木材ではない。まるで、生きているかのように、微かな熱を帯びているような錯覚に陥った。表面には、不規則な木目が走っており、まるで、人間の血管のように見える。

恐怖が、思考のすべてを飲み込み始めた。背筋に冷たいものが走る。まさか、舞蝶が、この扉の向こうから────そんなはずは無い。

そんな、ありえない想像が頭をよぎり、わたしは慌てて手を引込めた。

この扉は、何か不吉なものだ。舞蝶の死と、桔梗の異変。そして、この突然現れた扉。すべてが、まるで一本の糸で繋がっているかのように、わたしの中で不穏な連鎖を形成し始めた。

わたしは、もう一度、その扉を凝視した。それは、何の装飾もなく、ただそこに存在しているだけなのに、その存在感は、部屋の中のどんなものよりも強く、わたしを圧倒した。漆黒に近い黒ずんだ木の色が、薄暗い押し入れの奥で、異様な闇を放っている。

この扉は、元々ここにはなかったはずだ。この洋館に引っ越して来て以来、わたしは何度もこの部屋に足を踏み入れている。舞蝶がこの部屋に閉じ込められていた時も、その存在を疎ましく思いながらも、時折、様子を窺いに来たことがある。その時、この押し入れの奥に、このような扉があった記憶は、一切ない。

まるで、この扉が、舞蝶の死とともに、この和室に現れたように思えてしまう。


思考が混乱し、頭の中で警鐘が鳴り響く。わたしは、この異常事態を、どう処理すればよいのだろうか。

夫に相談すべきであろうか。


しかし、彼は、このような非合理的な事柄には一切関心を示さないだろう。むしろ、わたしの神経が衰弱しているとでも言うかもしれない。

そして、何よりも、桔梗に知られてはならない。

彼女は、すでに不安定な状態にある。もし、この扉の存在を知り、舞蝶の死と結びつけてしまえば、彼女の心は完全に壊れてしまうだろう。わたしの愛しい桔梗を、舞蝶のような存在にしてはならない。

わたしは、震える手で、押し入れの扉を閉めようとした。だが、手が滑る。何度やっても、うまくゆかない。まるで、この扉が、わたしを拒んでいるかのように、手が震え、力が込められない。


「なぜ……」


声にならない叫びが、喉の奥で潰れた。押し入れの扉を閉め、その奥にある「異物」を隠蔽しようとするわたしの意思に反して、手が勝手に震え、わたしを苛む。

この扉は、わたしを試しているのだろうか。 それとも、わたしに、何かを伝えようとしているのだろうか。

その答えは、闇の中に沈黙したままだ。

わたしは、舞蝶の遺品整理を中断し、その場を離れるしかなかった。和室の引き戸を閉め、廊下の薄暗闇の中へ逃げるように戻る。だが、その背後には、閉ざされた和室の奥で、あの扉が、確かに存在している。

その存在は、わたしの心に、これまで感じたことのない、底知れぬ恐怖と、不穏な予感を刻みつけていた。そして、それは、この洋館の平穏が、すでに偽りに過ぎないことを、わたしに突きつけている。

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