第4.0話「affannoso」

第3話

https://kakuyomu.jp/works/16818622172254681930/episodes/16818622174650423506





「ねぇお兄ちゃん。お兄ちゃんてば」


 呼ばれていたことに気がついて、伊沢いざわはようやく動きを止めた。とは言うものの鍵盤の上の指は元より止まっているようなもので、自分が思い描く動きには程遠い。伊沢は電子キーボードに接続していたヘッドホンを外すと、ラフな格好で後ろに立つ妹に向き直る。

 金曜日の夜、時刻は午後八時を過ぎたころ。一週間で一番、自由と言える時間帯。

 ピアノを始めて早二ヶ月。伊沢の生活には、夜に鍵盤に触れるという新たなルーティンが加わっていた。それまでの暮らしとは比べ物にならない文化的な習慣だ。

 伊沢の妹である彰美あきみは呆れ顔で、手に持ったアイスをスプーンで掬い取りながら言葉を続ける。


「最近取り憑かれたようにピアノ弾いてるよね」

「取り憑かれたってお前、もうちょっと言い方あるだろ」

「いやいや、今まで音楽に全く触れずに生きてきたお兄ちゃんがだよ、ピアノ買って二ヶ月もずーっと練習してたらそりゃあ何かに取り憑かれたんじゃあないかって思うでしょ」

「何かって?」

「音楽の神様的な誰かとか?」

「だとしたらもっと上手くなってる気がするけど」

「あぁ、それもそっか」


 ぱくり。彰美はアイスを口に放り込み、目を閉じてしっかりと味わう。そして「うーんうまい」と言ってからまた言葉を継いだ。


「まぁ確かに、二ヶ月ずーっと練習してるけど、まだ曲として成り立ってないもんね。なんて言うんだろ、油の切れた懐中時計? みたいな感じ?」

「何だよそのやたら文学的な喩えは。それに二ヶ月で弾けるようになったら誰でもピアニストだよ。こういうのは結局、地道な反復練習しかないからな」

「でもYouTube先生だけじゃ限界が来ない?」

「まぁ、そりゃあな。YouTubeだけで本当に曲が弾けるようになるのか、少し不安になってるところではあるな」


 伊沢は彰美の言葉に深く頷いた。実際に伊沢は、誰のピアノレッスンも受けていない。YouTubeのピアノ初心者用動画を見ながら鍵盤を触っているだけだ。

 それは初心者向け動画と銘打っているものの、ドがつくほど初心者の伊沢にはまだまだ難しい。動画を半分の再生速度にしても指が追いつかない、というか左右で別々の動きがまだできない。やればやるほど、本当に人間に再現可能なのかと首を傾げてしまう。

 ピアノを始めてからというもの、伊沢はピアノが弾ける人をより強く尊敬するようになっていた。いつか自分もあんな風に弾いてみたい。しかしそんな「いつか」は来るのだろうか、と伊沢は思い悩んだ。


「さて、そんな悩めるお兄ちゃんに朗報だよ」

「朗報?」

「この私が、お兄ちゃんのために一肌脱ごうじゃあないか」


 戯けながら彰美は、Tシャツの襟元からちらりと鎖骨を覗かせる。呆れながら溜息をつく伊沢。妹のセクシーな仕草に需要などない、と言わんばかりの表情を見せてやるが、彰美は構わず笑顔で続けた。


「私の会社の友達にさ、めちゃくちゃ上手いキーボーディストがいるの。なんとバンドも組んでんだよ。ちょうど良いから、その子を紹介してあげよう」

「何がちょうどいいんだ。どう考えてもその人に迷惑かかるだろ。俺、まだ左右で別々の動きもできないんだぞ」

「大丈夫大丈夫、それも伝えてあるから。この前ちょっとピアノの話になってさ、そういやウチの兄、三十歳こえて急にピアノ始めたんだよねー、頭おかしくなっちゃったのかなーって話してたんだ」

「どんな話の振り方してんだ」

「でね、その子は雪音ゆきねちゃんって言うんだけどさ、ウチの兄にピアノレッスンしてくれない? って頼んどいたから。ちなみに明日ね。今日約束取り付けたから」

「明日⁉︎」


 彰美の無駄な行動力の高さに驚く伊沢。思えば彰美は昔からこうだった。お節介焼きの彰美は、小さいころからまるで変わっていない。二十代後半になっても若々しいと周りから言われるんだよと彰美は嘯くが、それは言葉通りの意味ではないと伊沢には思える。


「お兄ちゃん、明日どうせ暇でしょ?」

「まぁ暇だけどさ……、でもその雪音さん? に悪いだろ? それにピアノ教えてもらうって言っても、俺はまだ教わる以前の問題だ」

「まぁ大丈夫じゃない? なんたって凄腕キーボーディストだからさ、雪音ちゃんは」

「向こうは凄腕でも俺は鈍腕だよ」


 確かに願ってもない機会ではある。バンドを組んでいる凄腕キーボーディストの個人レッスン。もちろん一日で弾けるようになる魔法があるとは伊沢も思ってはいないが、それでも上手くなるきっかけを掴めそうな話だった。

 ただ、伊沢の表情は乗り気のそれではない。その雪音という女性に悪いとも感じる上に、正当な対価を提供できる自信がなかったからだ。

 知り合いでない人に何かをしてもらう場合、それには当然として対価がかかる。金銭で支払えれば簡単だが、それが失礼にあたる場合も多い。どうしたものかと伊沢が頭を悩ませていると、それを察した彰美が答えた。


「あ、その辺は大丈夫だよ。雪音ちゃん、今ちょっと色々悩んでるみたいでね。ウチの兄は聞き上手だから何でも相談するといいよ、って言ってるから。それで貸し借りなしってワケ」

「それ全然大丈夫じゃないだろ……」

「大丈夫、大丈夫。何たってこの私のお兄ちゃんだよ? だから大丈夫に決まってるよ」


 スプーンを口に入れて、意味ありげに彰美は笑う。対する伊沢の表情は曇ったまま。しかし他でもない妹のお膳立てである。さらには自分にも利のある話だ。対価としてどんな話を聞かされるのかわからない上に、自分が役に立つかどうか未知数ではあるが。


「……明日、何時? て言うかどこでピアノのレッスンするんだ?」

「明日は雪音ちゃんの話を聞く日がメインってことで、ひとつよろしく」

「聞くにしても、何の相談なんだよ? 俺が聞いてどうこうなる話なのか?」

「雪音ちゃん、営業部なんだよ。ウチの兄も営業やってるよって話したらめちゃくちゃ食いついてきてさ。だからなんていうの、営業のノウハウ? そんなのを語ってくれればいいと思うな」

「当たり前のことしか言えないぞ」

「それがいいと思うよ。それが」


 えへへ。わざとらしく笑う彰美は、明日は午後七時に桜木町で、と笑顔のままで伝えてきた。どうやら件の雪音はそのあたりに住んでいるらしい。休みの日に遠出しなくてもいい配慮であり、彰美はすでに近くの店の予約もしてあると言う。

 相変わらず段取りと根回しが早い。伊沢は彰美の仕事ぶりを目の当たりにしたことはないが、案外上手くやっているようだ。


「午後七時に桜木町だな。わかった。彰美、それまでどうする? 久しぶりに二人で横浜にでも出かけるか?」

「何言ってるのお兄ちゃん」

「夕方までは時間あるんだろ?」

「私は行かないよ? お兄ちゃんと雪音ちゃんの二人で、食事を楽しんで来てね」




 ♩ ♩ ♩




 翌日。約束の午後七時より少し前。指定されたレストランの前に、伊沢いざわはやや緊張の面持ちで待っていた。彰美あきみ以外の女性との待ち合わせ。それも仕事ではなく完全なプライベート。一体何年振りだろうか。

 彰美が予約した店は、言い方はよくないかも知れないが可もなく不可もなくと言ったイタリアンだった。ただ良い店すぎると却って相手に気を遣わせてしまうので、そう言う意味では良い選択と言えよう。

 待ち合わせまであと五分。伊沢はスマホをポケットから抜いて、彰美とのメッセージ履歴を確認する。そこに添付された写真には、件の雪音ゆきねが彰美と写っていた。

 ふわりとしたショートボブに、印象的な黒縁メガネ。そんなに背のない彰美よりさらに低い身長。どんなバンドを組んでいるのか知らないが、何となく人前に出るのは苦手そうな雰囲気だ。もちろん伊沢は、人の見た目がアテにならないことを知っている。それでもおおよその傾向というものはある。その傾向でいうと、どちらかと言えば内向的な空気を纏う女性だった。


 彰美からの情報によると、件の雪音は、彰美より一つ年上の同期で営業職。どんな事にでも誠実に対応する人格者。他の情報はと伊沢は問うたが、「実際に会って判断してみて」と彰美にはあえて情報を絞られた。しかし顔がわからないと待ち合わせにも支障が出るということで、送信されたのがその写真だったと言う訳だ。もちろん彰美伝いで、伊沢の顔写真も雪音に送信されている。彰美いわく、免許写真みたいな面白みのない写真が。


「……あの、伊沢さんですか? 彰美ちゃんのお兄さん、ですよね?」


 スマホに視線を落としていて、伊沢はそれに気づくのが少し遅れた。慌てて視線を上に向けると、そこにいたのは件の雪音、その人だった。彰美からもらった写真とは違い、印象的な黒縁メガネは外されている。


「雪音さんですか? 伊沢葉介ようすけです。妹の彰美が、いつもお世話になっています」

「そんな、お世話になっているのはこっちです。彰美ちゃんには本当によくしてもらってて。課が違うので社内ではあまり会えないんですが、勝手に一番の友達だと思ってるんです」

「それはきっと彰美も喜ぶと思います。まぁあんな性格なので、僕としては雪音さんにご迷惑をかけてないかが本当に心配なのですが。あぁ、立ち話もなんなので、お店に入りましょうか?」


 連れ立って店内へ入りレセプションで名前を告げると、恭しい動作のスタッフが席へと案内してくれた。窓際のいい席だ。向かい合って座ると、スタッフが「予めコースをお伺いしております。ご用意しても?」と聞いてくる。食にこだわりのない伊沢にはありがたいが、雪音はどうなのだろう。


「雪音さん、すみません。彰美が勝手にコースを決めてるという話なのですが、苦手なものとかありませんか? アレルギーとかは?」

「いえ、大丈夫です。何でも食べます。それにきっと彰美ちゃんのチョイスなら間違いないと思いますし」

「そうですか。それならよかった」


 メニューから食前のドリンクを注文する。雪音はアルコールを嗜む習慣がないようで、ノンアルコールカクテルを注文していた。伊沢は飲めない訳ではないが、好きでもないので雪音に合わせてノンアルコールを注文した。


 運ばれてきたグラスを手にして、軽く合わせる乾杯をする。

 この澄んだ音の高さはラだろうか。柄にもないことを思いつつ、伊沢はそのカクテルを口にした。





【薮坂の第4.5話に続く】


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