駅とピアノとアド・リビトゥム
薮坂
第2話「tuning」
第1話
https://kakuyomu.jp/works/16818622172254681930/episodes/16818622172254690309
訝しむ表情の彼女を見て、
後はこのボールを、彼女がキャッチしてくれるかスルーするかである。伊沢の少なくはない人生経験から、後者の確率が圧倒的に高いことはわかっていた。
それでも数瞬の間、伊沢は彼女の反応を待ってみる。しかし彼女は苦笑いなのかそれともそれ以外の表情なのか、なんとも形容しがたい顔のままだ。
ここまま伊沢が黙っていたら確実に不審者である。いやもう充分に不審者だった。なにせ自分から初対面の人に話しかけているのだ。どうにかしなければならないのは伊沢の方であるし、少なくともそれを自覚している。伊沢はしどろもどろになりながらも、なんとか言葉を紡ぎ出した。
「す、すみませんいきなり話しかけたりして。決して怪しい者ではなくてですね、いやええと、この言い方も怪しいな。すみません、何て言ったらいいのかわからないんですが、あなたの演奏に感動したんです。とても素敵でした。ただ、それだけなんです」
必死で捻り出した言葉と共に、伊沢の額に汗が浮かんだ。春にはまだ早い、ロンドンの冷たい風。異国の空気はただでさえアウェイなのに、この状況はより骨身に染みるようだった。
ピアノの前に立つ彼女は間違いなく日本人に見える。海外出張が多くなって改めて気がついたのは、日本人は日本人にとって判別しやすいと言うことだった。言葉にはしづらいが、異国でもすぐにわかる同じ空気を纏っている気がするのだ。
その同族である日本人に、海外でこれほど冷たい視線を向けられるのはなかなかにキツいものがある。しかしこれは伊沢が蒔いた種。彼女に話しかけなければ始まっていない話である。まだ無言を貫く彼女に、伊沢は頭を下げた。
「……すみませんでした。不快な思いをさせてしまったのなら謝ります。ただ感謝を伝えたくて。本当にそれだけなんです」
そう謝罪し伊沢は踵を返す。半ば逃げるようにそこから立ち去ろうとすると。肩越しに彼女の、透き通った美しい声が聞こえた。
「……あの、こちらこそごめんなさい。演奏への感想、ありがとうございました。実はこう言うのには慣れてなくて。だから警戒してしまって、なんと言うか申し訳なかったです」
伊沢が思わず振り返ると、先ほどの彼女の冷たい表情は少しだけ和らいでいるように見えた。だがまだ完全に警戒を解かれた訳ではないし、その辺りの機微を読み取るのは仕事柄慣れている。
このチャンスをふいにはできない。彼女にとっては、いきなり不審者に話しかけられたのと同義だ。つまりどう考えてもマイナスイベントである。だからこそ伊沢は、自身が不審者でないことを明らかにして、彼女にとってのマイナスを少しでもゼロに近づけたいという使命感に駆られた。
「僕、伊沢と言います。出張でこっちに来ているんですが、実は先程仕事で大きな失敗をしまして。ヘコみながら駅を歩いていると、あなたの演奏が聞こえてきたんです。なんというか感動して、本当に勇気を貰えました」
「こちらこそ、聴いていただきありがとうございました。お好きなんですか? マイ・フェア・レディ」
「それって、さっきの曲のタイトルですか? すみません、音楽には全く明るくなくて」
そう答えると、彼女は少し首を傾げて見せた。そりゃそうだろうと伊沢は思う。曲の名前も知らないのに、感動したと彼女に伝えているのだから。
もちろん、伊沢はさっきの曲を「知っている」と嘘を吐くこともできた。伊沢の仕事にハッタリは重要だ。
誰かになにかを売る「営業」は、時に嘘が必要な仕事である。嘘を嘘と見せないで、相手にいかに信用してもらうか。またはより信頼してもらうために、その吐いた嘘を本当に変えてしまうか。そんな技術をずっと磨いて来たし、今ではどんな初対面の人とでも自然に話せると伊沢は思っていた。事前準備の時間を充分にもらえれば、相手にその「なにか」を買ってもらうことさえできると自負していた。
ただそんなことをしても意味がないと、その時の伊沢には思えた。ここで嘘を吐いても意味がない。先程の客先での失敗も相まって、伊沢は真実の大切さを改めて感じているところだった。
「……僕、全然音楽のことを知らないんです。知ってる曲がそもそも少ないし、楽器もまともに触ったことはない。誰しもが小学生でやるリコーダーくらいです。でも、そんな僕が感動したんです。あなたの演奏に。名前も知らない曲に感動したんです。もっと聴いていたい、と思えるくらいに」
薄っぺらい嘘は、本物にはまるで通じない。それに嘘は、やはり相手にとって礼を失する行為だ。相手のための嘘という言葉を耳にするが、どこまで行っても嘘は吐く側のためにある、と伊沢は思う。
こと芸術に関して、嘘は不要なのだろう。生きるために嘘を必要とした伊沢が、必要としなかった音楽。そこに嘘の入る余地はない。だから伊沢は本当の気持ちを伝えた。それが彼女に伝わっているかどうかは、また別の問題であるが。
「……それはその、ありがとうございます。とても嬉しいです。でもアレですね。そのセリフだけ聞くと、まるで新手のナンパみたい」
「そんなことありません。いや、そう言い切るのも失礼ですかね?」
「ええと、どうなんでしょう」
彼女は口元を隠しながら、伊沢に少しだけ笑顔を向けた。その所作から育ちの良さが滲み出ている。その喩えを本当に変えてもいいと思えるほど、彼女は伊沢にとって魅力的に映った。
伊沢はいつもの癖で、彼女の姿を改めて観察した。服装に持ち物。指輪の有無とその位置。言葉の微妙な訛りと、そして靴だ。特に靴は、その人を表すもうひとつの顔だと伊沢は思っていた。
彼女の靴は踵の低いショートブーツ。新品ではないが、よく手入れされている。変に華美ではなく質実剛健といった雰囲気は、旅慣れしている者が選びそうな品だった。
「……ロンドンにはご旅行で?」
「いえ、仕事です。その合間にこのピアノを見つけて。私、ピアノを弾くのが好きなんです」
「ひょっとして、お仕事も音楽関係ですか?」
「これはただの趣味ですよ。音楽を仕事にできる人は、選ばれた人たちですから。私とは雲泥の差です」
「僕にはプロに思えましたよ。あなたの演奏」
「そんな、やめてください。プロの人となんて、比べること自体が烏滸がましいですよ」
伊沢は彼女の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。これはしていい話題ではないようだ。いつもの伊沢なら当然に話題を変える。その方が確実に、相手から好印象を持たれるからだ。しかし敢えて、今日の伊沢はその触れてはならなそうな話題を続けた。
「すみません。実は僕、プロの演奏っていうのをちゃんと聴いたことがなくて。ネットやテレビで流れてくるのは別にして、生で聴いたことがないというか。だから能動的に生演奏を聴いたっていうのは、あなたの演奏が初めてなんです」
「……聞く機会、一度もなかったんですか?」
「裕福な家庭ではなかったですし、その機会にも恵まれませんでした。だから僕に音楽の知識はほとんどないんです。失礼な物言いになってたら申し訳ないのですが、あなたの演奏がプロのそれに聞こえたというのは、僕の純粋な気持ちです」
伊沢のその言葉を、彼女はおそらく全て嘘だとは捉えなかったのだろう。否定する訳でもなく、かと言って肯定する訳でもなく、彼女はただ曖昧な表情を浮かべる。そして。
「きっとそれはあなたの仰るとおり、音楽についてあまりご存じないからなのでしょうね。あ、いえ。別にそれ自体を否定している訳ではありません。あなたがこれから、音楽をもっと知っていけば、プロと私の違いがありありとわかると思いますよ」
「いい音楽をたくさん聴けば、理解に繋がりますかね?」
「それもアリですけど。もっといい方法があります」
彼女はそう言って、再びピアノに向き直る。そして鍵盤を手で示しながら、伊沢に続けた。
「──ピアノを始めてみるのはどうでしょう」
「え? 僕がですか?」
「こう言う言葉、聞いたことないですか? あれこれ考えるよりやってみた方が早い、って」
「いやでも僕、ドがつくほどの素人ですよ? それこそ、どこがドなのかもわからないのに」
「みんな初めはそうですよ。私だってそうだったんですから。今日はたった一音だけでもいいんです。ただ鍵盤に触れるだけ。好きなところを弾いてみて下さい」
「でも僕、もうこの歳ですし……今更ピアノなんて、」
「明日のあなたより、今日のあなたの方が若いです。明日より今日、ですよ」
たった一音だけ。彼女はそう言った。ただ鍵盤に触れるだけだと。
「ではこうしましょう。ドの音はどこでしょう? これだと思う鍵盤を押さえるだけでいいんです。クイズだと思えば、気が楽になりませんか?」
ここまでしてくれたのに拒否するのは、伊沢にはできなかった。ただ鍵盤を押さえるだけ。正直どこがドなのかわからない。それでも伊沢は、これだと思うその音を出してみた。
思った以上に鍵盤の手応えは重い。だがそれとは裏腹にとても澄んだ音が、駅の喧騒と混ざるように響いた。これがピアノの音。
「……これがドですか?」
「残念、ハズレです。それはラですね」
「そうでしたか……」
「でも。そのラの音って、最初の一音として一番相応しい音ですよ」
「それってどういうことですか?」
「ピアノを続ければ、そのうちわかると思いますよ。それまで頑張ってみてください。それでは、私は次の用事があるのでここで失礼します」
姿勢良く頭を下げ、踵を返した彼女を伊沢は呼び止める。声をかけたものの、なにを言うべきかわからない。ただここで、この出会いを終わりにしたくない。それだけは確かだった。
「あの、いつかまた会えますか?」
「あなたがこのままピアノを続けてくれれば、いつか会えると思いますよ。私、ピアノが好きですから。駅ピアノとかストリートピアノとか、そこにピアノがあったら弾いていると思います」
「じゃあいつか、僕の演奏を聴いてください。始めてみようと思います、ピアノを」
「楽しみにしてますね。では、またいつか」
今度こそ彼女は、振り返って行ってしまった。ショートブーツのコツコツとした音が、どこか凛とした彼女の雰囲気とよく合っていた。
そのまま彼女の後ろ姿が雑踏に消えてしまうまで、伊沢の目はずっと彼女を追っていた。
♩ ♩ ♩
「あれ? おかえりお兄ちゃん。今日だっけ、出張から帰ってくるの」
伊沢が自宅に戻ったのはそれから三日後。家にはラフな格好をした三歳下の妹が、アイスクリームを片手に出迎えてくれた。察するに風呂上がり。濡れた髪に巻きつけたバスタオルがそれをありありと物語っている。
「お前それ、俺が買った柚子シャーベットだろ」
「ふっふー、食べられたくなかったらもっと冷凍庫の奥底に隠しておくべきだったね」
「……まぁいいけど。俺も風呂入るわ。疲れた」
「ていうか、そのでっかい荷物はなに? 私へのお土産?」
「いや、これは日本についてから買ったんだ。まぁ土産と言えば土産かな。ちなみにこれは俺のだぞ」
「あれれ、たった一人の肉親へのお土産はないわけ?」
「あるよ。ロンドン土産。それは後でな」
「やった! で、それなに?」
「……キーボード。音楽の方の」
「えっ? お兄ちゃんが音楽? どう言う風の吹き回し?」
目を丸くする妹を尻目に、伊沢は首元のネクタイを緩める。が、思い立ったようにリビングに引き返すと、キーボードの包装を開け始める。
「お風呂は?」
「いや、ちょっと気になることがあって」
説明書を見ながらキーボードのセットアップを始める。驚くほど簡単だ。コンセントを繋いで主電源を入れると、「PIANO」と書かれたボタンが白く光る。
あの時と同じ場所。つまり伊沢は、ラの音を人差し指で奏でる。本物のピアノとはまるで違う軽い手応えだが、音の高さは同じ。澄んだ音だ。
「なぁ彰美、この音がなんだかわかるか?」
「あのねお兄ちゃん。私が知ってると思う? お兄ちゃんと同じように育ったのに。まず私は、お兄ちゃんがピアノを買ってきたことに心底驚いてんだけど」
「そうだよな、わからないよな。これは『ラ』らしくてさ、始まりにぴったりって教わったんだ。なんでだろうな?」
「……まさかそれだけのためにピアノ買ったの?」
「いや俺、これから始めようと思ってるんだ」
「三十をこえて、今からピアノ?」
「今日の俺がこの先の人生で一番若いからな」
それだけ言うと、伊沢は再び鍵盤に向き直った。
そしてもう一度、ラの音を出す。カツリとした、爪と鍵盤がぶつかる小さな音と共に、もう一度ラの音が鳴る。
──いい音だ。あの時ロンドンで彼女が奏でた音には、当然遠く及ばないけれど。
【第三話に続く】
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