駅とピアノとアド・リビトゥム
蜜柑桜
第1話 Prelude
仕事鞄を肩にかけて迷いなく出口方面へ向かうスーツ姿の男性、トレンチ・コートのポケットから取り出したスマホ片手に立ち止まるヒールの女性、重たげなスーツ・ケースをきょろきょろしながら押していく二人連れに、コーヒー・カップに口をつけながらカフェから出てくる青年。
イギリスは首都、ロンドンのサン・パンクラス駅の通路はいつも多様な人々の姿とざわめきに満ちている。
バッキンガム宮殿から見て北東に位置するこの駅は、パリから来るユーロ・スターの着駅、かつ欧州各地をつなぐ国際線の発着駅だ。尚且つロンドン市内交通およびイギリス国内長距離線のターミナル駅でもあるキングス・クロスは徒歩一分の隣同士。常に往来が絶えないこの広い駅は、多数のカフェやブランド・ショップ、薬局からスーパーまで揃い、さながらショッピング・モールだ。列車に用事がなくても訪れている人は多いだろう。
ロンドンという人種のるつぼな街は、来る者も受け入れ、いい意味で干渉しない。その入り口になるこんな駅であるからして人々のバックグラウンドも多種多様。それでいて——それだからだか——駅を通りすぎる人も佇む人も、とりたてて他者に気を留めない。そこに一人、欧州の島国から遠く離れたアジアの島国の人間が歩いていても。
——あれ……
テムズリンク線改札方面からへ歩いてきた冬物ショートブーツの足が、ユーロスターの到着出口に差し掛かろうという少し手前で止まる。
列車発着時刻のアナウンス、スーツケースを転がす音、待ち合わせの人々の会話、カフェの食器がぶつかる音、スマートフォンの通知音。それら全てが混淆し空間の中で濁となっても、この耳は判別する。
——《幻想即興曲》。
女物のスラックスの足が速まる。ショパンの調べに急かされるが如く柱を通り過ぎ、ヒールが止まった。
柱の裏にあったのは一台のアップライト・ピアノ。その前に座って、まさに今、入国審査を出てきたばかりといった中年のフランス人男性が、いかつい手を鍵盤の上に滑らせている。
——ここに「駅ピアノ」、あったんだ。
ピアノの周りで足を止めているのはユーロスターの出口を見ている人ばかりで、誰も演奏している男性には注意を払っていない。女性は足音を立てないよう演奏者の斜め後ろに近づくと、左右に動く肩を見守って耳を澄ませた。
演奏が終わる。男性が立ち上がる。女性はやはり音が立たないように、拍手を贈った。鞄を取り上げ振り向いた奏者と目が合うと、ピアノを軽く顎で合図される。「次、どうぞ」の合図だ。
——どうも。
会釈を返して、たった今、男性がいた椅子に腰を落ち着ける。貴重品が入ったショルダー・バックはショルダー・テープを腰に回したまま椅子に置き、肩にかけていたトート・バックをピアノの蓋に載せる。
横目で左右をちらと見る。先の男性を取り巻く状況と同じく、女性を見る人はいない。そっと鍵盤に人差し指を落とせば、キーは重たく沈んだ。そう、このベストから程遠い楽器の感触。さして手間をかけてメンテナンスもされておらず、あるままに放って置かれている感じ。
深呼吸を一つ。ここはロンドン——それなら。
左手がリズミカルに動き出す。分散和音のアルベルティ・バスの伴奏に、オペラ・アリアのように歌うアレグロの旋律。有名なヨハン・ゼバスティアン・バッハの末息子、モーツァルトにも影響を与えた「ロンドンのバッハ」、クリスティアン・バッハの鍵盤ソナタ。
一楽章弾き終えると、氷点の外気ですっかり冷えた手が適度に熱を取り戻した。サッと首を巡らすと周りの情景はさして変わっていない。後ろで控えている、先程の自分のような
——これだからいい。
遠慮なく、ギアをかけた指が滑り出す。
今度は打って変わって分厚い和音が賑やかなダンスを紡ぎ出す。旋律線を辿る右手が同時に伴奏も。ここはロンドン。コヴェントガーデンにいた花売り娘イライザが歌う『マイ・フェア・レディ』のヒット曲は、駅の喧騒と紛れて消えていく。誰もが無音を守る静まり返ったホールや、じっと後ろから視線を注がれるレッスン室の狭い部屋とは違う。鑑識の耳目に刺されながら一音のミスタッチも許されない空間ではない。
左右を過ぎる旅行者は自分の演奏なんて気に留めない。人混みの中で一人になって、程よい緊張と自由が愉悦を生み出す。ざわめきに溶ける音の遊びはいつの間にか空気中に霧散していく。
気ままに弾ける自由。途中で終わっても大して気にならない。しかし確かに「弾いた」感覚が、自分の熱い体に残っていく。異国のこの場所で、ここの空気を作るような一体感と達成感。
——だから気持ちいいのかも。
メンテナンスされていない鍵盤の動きは鈍かったり鋭すぎたり不安定だ。鳴りの悪いキーをコントロールするのもストリート・ピアノの醍醐味かもしれない。
夜明けまで踊りたいイライザと一緒に、クライマックスまで踊り切る。最後の和音でペダルから足を離したら、「ガコン」と大仰な音がピアノの外板に反響した。
仕事終わりに疲れた体が心地よい疲労に変わっていく。女性はふっと息を吐き出すと、ショルダーバックを肩に掛け直した。
ショルダー・テープに掛けた手が、中空で留まった。真っ黒なアップライト・ピアノに映る人影に目を留め、ひと呼吸おいて振り返る。
「すみません」
そこにいたのはスーツ姿の男性だった。アジア人は欧米人から見れば見分けがつきにくいかもしれないが、アジア同士なら判別できる。日本人だ。女性は慌てて椅子から離れ、後ろにいた待ち人に会釈する。通り過ぎていく人がほとんどであるから、誰も気に留めていないと思っていたし、座っていた時の頭の高さではピアノに映っているのは見えなかったのだ。待ち人がいる時に一人で二曲はマナー違反だろう。
ところが男性は、椅子が空いてもそこへ近づこうとはしなかった。代わりに手袋をはめた両手を叩き続けている。
弾く気ではないのかと訝しがっていると、男性の方が先に口を開いた。
「素晴らしいですね」
「え?」
「あなたのピアノですよ」
***
ヨーハン・クリスティアン・バッハ ソナタ 作品十七
https://www.youtube.com/watch?v=XCGaldUh1G4
フレデリック・ロウ作曲『マイ・フェア・レディ』よりI could have danced all night
https://www.youtube.com/watch?v=hA9bEKKxTNU
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