第3話 Exsercise

薮坂さんの第2話はこちらです。

https://kakuyomu.jp/works/16818622173209486641/episodes/16818622173209527192


第3話

 仕事を終えるともう七時半を悠に回っていて、繁華街ではすでにパブの灯りが中世に逆戻りしたような雰囲気を路地に作り出している。一人でエールを飲む気はしない。地下鉄でセントラル・ロンドンから抜け出し、住宅街の駅で降りた。店が集中する駅周辺は夜でもそれなりに人は多く、エスカレーターで深い地下から上がっていくと逆に地上から潜っていく何組もの人々とすれ違う。

 駅に併設されたスーパーのグロサリー・コーナーで見切り品ラベルの品を籠に放り込む。アプリのセルフレジで済まそうとスマートフォンをショルダーバッグから取り出すと、ちょうど画面が光った。

『Ms. Ritsuko Ishimichi, you are now ready to check in』

 女性――律子はメールの通知バナーをスライドした。

 ――あっという間だな。

 明日はここを発って別の街に行く。海外文化を扱う雑誌記者として、一回の渡欧で数カ国回るのはいつものことだ。ロンドンの三泊四日は旅行なら長いのかもしれないが、仕事となると瞬く間に過ぎる気がする。

 スーパーを出て歩き出すと、夜風と共に小さな花びらが肩を掠めていった。春が近い。

 セントラル・ロンドンの西側にあたるグロスターロード駅の周りは、美術館が密集するひとつ隣の駅に比べて住宅地が多い。さらに北の界隈ほどハイソなエリアでもなく、しかしながら治安は良く、空港まで一本でいけるためか手頃な宿もそこそこある。

 ――悪い癖が出たなぁ……

 駅を少し離れれば静けさが身を包み、けして多くはない街灯りの中にヴィクトリア様式の赤煉瓦の建物が浮かび上がる。現実世界を抜け出したような感覚は、静かな思考へ誘う。

 ――何で行きずりの人にあんな偉そうなこと話しているんだろう。

 人気のない通りを歩くと一日の出来事が取り止めもなく思い出されるのはいつものことだが、今日はやや苦い唾が湧くのを禁じ得ない。

 何の曲も知らず、こんなど素人の音を聴いて感動を述べた彼。ピアノの調子はガタガタだしミスタッチだってあった。耳の肥えた人間から舌打ちされたって文句の言えないクオリティであることは自分が一番承知している。

 それなのに愚直に言葉を発した顔は、嘘をついてはいなかった。

 ――音楽のことになると、ダメだな。

 どうもムキになってしまう。これまでもそうだった。音楽や、芸術に対して漏らされる言葉を聞くとき、つい熱くなってしまう。世の中の風潮が芸術一般を非日常やレジャーと思いがちなのに反発を覚えて、軽い気持ちで向き合う視線に出会いそうな予感がするたび、知らずのうちに防護線を引く自分がいる。

 ――音楽を始めてみろとか、偉そうに。

 自分だって素人に過ぎないくせに、何カッコつけたこと言ってるんだろう。

 今までも駅ピアノや街ピアノを弾いていて話しかけられることはあったし、「その曲好きだよ」とか感想を受け取った経験も一回ではない。その時々に人との触れ合いが嬉しくて楽しかったはずだ。

 ――同じ日本人だったからかな。

 ホテルに着いて夕飯を食べていても、荷物のパッキングをしていても、妙に駅でのやり取りが頭の中に残って消えてくれない。気づけば思い出してぐるぐると思考している自分がいる。

 何も知らない人間が何を言っているのかと思ったのだろうか。自分はそんな傲慢な人間だったのだろうか。だからあんな試すような、意地悪い謎かけをしてしまったのか。

 音楽を甘く見ないでほしいと、これまでも時折り心の奥底で焔が灯るのは知っている。それがまた今日も起こってしまったのだろうか。

 もしそうならば、彼はそれを察知しただろうか。

 ――楽しいだけが音楽じゃないし。

 純粋な感想の言葉だったはずなのに、どこかでそんな風に反発する自分がいる。偏見だと理性が叱咤するが、経験からくる嫌悪感が反論する。

「音楽を、音を「楽しむ」としか考えない人間が世の中にはどれだけいるのか」

 そう思ったのだろうか。

 自分ですらわからない。そんな反発を覚える原因にはならない反応だったはずだ。何か別の感情が働いたのではないか。

 ――気持ち悪い。

 明日、ロンドンを出たら忘れるだろうか。

 また会えるなんて約束はしたけれど、忘れてしまった方がスッキリするだろうか。

 ――あ……

 手持ちのトートバッグに入れていた仕事のファイルを、ロンドン用から次の行き先のものへ入れ替えていた時、手が止まった。

 次の目的地はプラハ。確かあそこには――


 ***


 プラハ中央駅へ降り立ったブーツは、スーツケースと並んでホームを抜けると、出口方面に向きを変えた。

 ――うん、まだあった。

 テレビでも取材されたことのあるプラハ中央駅の駅ピアノ。洗練されたサン・パンクラスの駅と比べると、壁や床の汚れも目立ってやや治安も心配になる駅の中、周りの雰囲気と同じく木目がペンキのようなもので汚れたピアノがそこにある。

 昨日の違和感をさっさと消すには、また弾いて塗り替えればいいと思っているのか、自分の違和感の理由を突き止めたいからなのか、どちらかは分からない。

 けれども無性に弾きたくて、指が疼いて仕方なかった。

 通行人の間を縫ってガラスに寄せられたピアノへ寄る。椅子を引いたら案の定軋み、思いのほか大きな音にびくりと体が反応した。

 それでも座って鍵盤に手を載せれば、いつもの通り落ち着きと静かな高揚がある。

 背中のガラスを通して照りつける太陽がピアノに反射して眩しい。でも構わない。見る楽譜などないのだから。

 ――やや地域外れるけど、比較的ご近所の国ということで。

 ひと息の呼吸のあと、思い切り鍵盤に指を叩きつける。

 連続する和音の強打。音数の多い強烈な響きが低音の素早い同音反復と重なり複雑なリズムを繰り返す。

 バルトーク、ミクロコスモス第153番。練習曲とはいえ十分に演奏会で弾くに適する内容の音楽。ブルガリアのリズムに乗った多彩な和音の連なりは、原始的なエネルギーを身体から耳へ、耳から身体へ伝えていく。

 チェコからハンガリーを隔てて向こうのルーマニア出身の作曲家、バルトークが生み出す独特な拍動と不協和音は、伝統的クラシックに慣れた耳には不安定で落ち着かない。だが今はその緊張が心地よい刺激となって律子のうちに燻る火種をうまく弾けさせ、その正体を掴む間も無く発散させていく。

 弾丸のように弾き通して去る。そう決めてかかれば終わりも早い。最後の連打まで走り切ると、勢いのまま椅子から立った。

「見事なパワーですね。若くて良い」

 掛けられた声に立ち上がった身体が固まる。咄嗟に振り返ると、そこにいたのは初老の男性だった。

「嫌いではないですよ。私もいいですかね」

 見た目は欧州人、訛りのある英語の発音だ。にこやかに細められた目は優しいが、その奥にある光に律子の神経が緊張する。

「もちろん、どうぞ」

「それでは」

 その相貌には引っかかるものがあった。どこで見たのか、初めてではない感覚。

 男性は慣れた所作でピアノの前に座る。そして何の合図も、わずかに力を入れることもなく――音が鳴り出した。


 薮坂さんの第4話へ続く。

 

 

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