硝子写しの涙(副題:白木蓮、或いは彼のたなうら)

りりょう

"Du lebst nur einmal."(人生は一度きりである)

 "Also gib nicht auf, damit du es nicht bereust."(だから諦めてはいけない、後悔しない為に) 


 "――Und dann kam die Zeit."(――そしてその時は来た)


 夢を見た。それは宛ら白昼夢のように幻想的な、美しい夢だった

 真夏の逃げ水のように捉えどころがなく、花の命の如く短く儚い。ただの夢というにはそれは余りにも――。

 強い光は影をより一層濃くさせる。 

 記憶の中にある彼の無垢な笑顔や言葉、仕草のひとつひとつは時に私の心の内を照らす一筋の温かな陽の光のようであり、時に私の中にある――罪のように仄昏い――後ろめたさを暴く雷光のようでもあった。

 彼を愛しい、と思い始めたのはいつからだったか。

 彼の隣に可憐な女性がいようが、縁談が持ち上がろうが、私の中に醜い嫉妬の念が渦巻くなどということは一切無かった。強がりなどではない。ただ彼の傍にいられればそれで良かった。彼は親友として私の事を見ていたし、私もその状況に満足していた。

 勿論、想いを伝え、彼と結ばれれば、それは本当に夢のような幸せだと思う。が、思うだけだ。

 例え彼が私の気持ちを受け入れてくれたとして(優しい彼のことだ、有り得る話だった)、世の風潮もあり、私は自身が、そして何より彼が奇異の目に晒されるであろう事に耐えられなかった。

 私の罪に似た後ろめたさの正体、彼への思慕の念。

 いつしか私は彼への気持ちに蓋をし、見ないふりをした。私は自らを弱い人間だと、そう思った。

 ある日のこと、駅前の喫茶店で彼から全集を借りる約束をしていた私は、ついいつもの様に無意識の内に、彼の何処か憂いを帯びた横顔に見惚れていた。

「……どうした、またじっと俺の事なんか見て」

 頬杖をつき、窓の外をぼんやりと眺めながら彼が尋ねる。

 しまった、と視線を逸らしながら、私は必死に言い訳を考える。此方を見ていないからと、すっかり油断をしてしまっていた。

「……否、なんでもない」 

 結局咄嗟に言葉が出ず、気まずそうに紅茶を啜った私を見て彼は、

「へぇ」

 と、したり顔でにやつく。

「さては見惚れてたな」

 彼が愉快そうに笑う。

 あぁやはり雷光だ、と思った。告白の一つすらすることが出来ず、平穏を望み、彼の親友という立場から決して動こうとしない、弱い私への彼からの罰だと。

「男なんかに見惚れてどうする」

 そう言って、さも呆れたふうに溜息を吐き、興味がないというふりをしながらも、私の心中は穏やかではなかった。

「素直じゃないねえ」

 と苦笑いしながら彼はこう続ける。

「恋に男も女も、神も仏も無いさ」

 彼のその一言に、私は頭の上に疑問符を浮かべながら、

「男女は兎も角、神仏は妙だろう」

 と一般論を述べた。

「……そうかな、」

 と、彼は私の言葉に少しだけ寂しそうな表情をする。

「俺は神様に懸想した事があるよ」

 とても美しくて優しかった――そう遠い目をして言うと、彼はテーブルの上にあるカップを手に取り、紅茶を口にした。

 彼はしばしば嘘かまことか分からない事を口にしては、私を含めた周囲の人々を翻弄した。

 ――そんな日々がずっと続くのだと、そう思っていた。

 ある日の朝のこと、私は書斎の片隅で途方に暮れていた。

 彼から借りていた全集を返そうと本棚に手を伸ばしたところ、それはするりと掌をすり抜け、大きな音を立てて床に落ちてしまった。それだけならまだしも、困った事に、落ちた拍子に全集に挟んであった彼の御気に入りの木製の栞が壊れてしまったのだった。

 その栞は薄く切られた香木に繊細な細工で鳥の姿――姿かたちからして恐らくオオルリだろう――を模ったもので、本に挟むと香りが移り、頁を捲ると仄かに白檀が香るという風流な品であった。それが、ほぼ中心の辺りで真っ二つに割れている。

 やってしまった。同じ品は手に入るだろうか、無理ならば弁償しなければ…そんなことを考えていると、ふと机上に開かれたまま置かれている、読みさしの本に書かれたある一文が目に留まる。そこに書かれていた文言はこうだった。


 "Also gib nicht auf, damit du es nicht bereust."(だから諦めてはいけない、後悔しない為に)


 "――Und dann kam die Zeit."(――そしてその時は来た)


 その時、虫の知らせというのだろうか、何故か言葉に出来ない妙な胸騒ぎがしたことを今でもよく覚えている。

 その日の午後、彼の訃報を耳にした。共通の友人による報せで、死因は交通事故による即死だったという。苦しまずに逝けたであろう事が唯一の救いと言うべきだろうか。

 然しもう二度と彼の声を聞くことも叶わず、笑顔を見ることも、触れることも叶わない。地獄のようだ、そう強く思う。地獄に生きながら、私は涙一つ流さず、静かに彼を見送った。

 私はその日、本当に哀しいことがあった時、人は泣けないものなのだということを知った。

 結局、私は何も出来なかった。否、しようとすらしなかった。

 もし叶うなら、彼にもう一度逢いたい。そして想いを告げられたなら――例えどのような結果になろうとも――どんなに良いだろう。

 そんな事を夢想しては、彼のいない現実を思い出し、どうしようもない相違がある事に苦しんだ。

 あの日見た本の言葉に、私は苛まれ続けている。

 神も運命も恨むことなく、私は己の弱さを恨んだ。

 ただ只管に強い後悔の念だけが私の中に残った。

 ――それから暫く経ったある夜の事、私は夢を見た。

 空はちょうど黄昏から夜の闇へと変わる狭間。

 霧深い森の中、湖のほとり。

 蝶の羽ばたきすら聞こえてきそうな静寂の中、ただ彼と二人きりだった。

 湖を覗き込むようにして屈み込んでいる彼の白い首筋を斜め後ろから見下ろすようにして、私は彼の事を眺めていた。

 白く細い首筋と、濡羽色の黒髪、長い指。潔癖で繊細、そして優しく、美しい魂。

 罪の、ような――。

「……春、」

 意を決し名を呼ぶとゆっくりと彼が見上げるようにして私を振り返る。

「何だ」

 どうかしたか。

 嗚呼。この声、この表情だ、とそう思う。途端に強烈なノスタルジアが込み上げる。

 彼は、昔と変わらずとても美しかった。

 ――静寂。

 玉響のように僅かな時間だった。然しまるで途方に暮れる程の歳月が経ったかのような錯覚に陥りかける。

 絡みつく焦燥を振り払おうと私はゆるゆると首を振った。

 そして、

「……愛してる、」

 ずっと好きだった。

「ずっと、」

 泣き出したい気持ちをぐっと堪え、渇いた咽から絞り出すように言葉を紡ぐ。

「……うん、」

 彼はいつものように茶化す訳でもなく、ただ私をじっと見つめ、知ってたよ、とそう呟いた。

 その頬を、降り始めた雨が一筋、涙のように伝う。

 やっと聞けた――そう言って立ち上がり、私の方へと手を延ばす。

「……ありがとう、月浦」

 白木蓮を思わせる柔らかで温かなたなうらが、私の骨張った両の手を優しく包み込む。

「やっと、言えた……」

 緊張の糸が切れ、震え嗚咽する私の肩を彼がそっと抱き寄せ、そのまま抱擁をする。

 降り頻る雨の中、境界線を埋めるような泡沫の抱擁。彼の手にした永遠は、私にはまだ遠く。

 どれだけの時間が経ったのだろうか、それは一瞬にも、永遠にも思えるひと時だった。

 気づけばいつの間にか雨は止み、空には満ちた月が浮かんでいる。

 ふと腕の中を見ると、抱き締めていた筈の彼は、1頭の美しい烏揚羽に姿を変えていた。

 ――また、いつか。

 そう静かに別れを告げる声が、私の耳元で朧気に聞こえた。

 蝶は霧の中、濃紺の空に浮かぶ満ちた凍える月へと羽ばたき、還っていく。

 そんな――夢だった。

 目を醒ますと窓の外は嵐で、立ち上がった私は魂を抜かれたように、今しがた溺れていた夢を反芻しながら、窓を叩く雨が硝子に映った己の頬を濡らしていくさまをただぼう、と眺めていた。

 ――また、いつか。

 一夜の邂逅、幾億年の如く永き寂莫と旅する。

 再び出逢える、その時まで。

 今は暫し、夢の中で。


 "――Meine Liebe, du warst mein Ein und Alles."(――愛しき人よ、あなたは私の全てであった)


 ※Alexander Maler著「Bis wir uns wiedersehen」(また逢う日まで)より引用。

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