「君の存在は、僕の記憶でできている」

海月

第1話

静かな病室だった。


 白く塗られた壁は無言を貫き、天井のスプリンクラーさえ、呼吸を潜めているように見えた。


 午後三時、窓から差し込む陽光が、母のベッド脇の小さな木製テーブルに長く影を落とす。

 その上には、ぬるくなったミルクティーと、古びた文庫本。それから、昨日僕が折った折り鶴が一羽。


 母の吐息は浅く、まるで風船がしぼむような音が時折聞こえてくる。


 そのたびに、僕は思わず視線を母の胸元に落とす。

 胸が、まだ上下しているか。

 息をしているか。


 心臓が鳴る。小さな、不安げな音で。


 「ねえ、瑛太」


 突然、母が声を出した。

 ゆっくりと瞼を開け、こちらを見て微笑む。

 痩せこけた頬に、ほんのわずか、春の光が反射する。


 「陽翔は、元気にしてる?」


 ――その言葉だった。


 静寂が、空気ごと止まったようだった。

 壁の時計の秒針だけが、乾いた音を刻んでいる。


 僕は唇を噛んだ。


 この問いを、僕は何度聞いただろう。


 三日前も、昨日も、さっきも。


 でも、母にとっては“初めて”の質問なんだ。

 記憶の地層が崩れたその場所には、いつも“あの子”が立っている。


 「……うん。元気だよ」


 声が、少し震えた。


 でも、母は気づかない。いや、気づいていても、気づかないふりをしてくれているのかもしれない。


 母の目が細くなって、まぶしそうに窓の方を見つめる。


 「そう……よかった。あの子、泣き虫だったからね。ひとりにさせるの、心配だったの」


 言葉が胸に刺さる。


 僕の方こそ、あのとき、ひとりになった気がして、泣きそうだったのに。


 「今でも思い出すのよ。あの子が公園で転んで、大泣きしたこと。瑛太、覚えてる?」


 僕は小さくうなずいた。


 あの日のことを、鮮明に思い出す。


 小さな手を握って泣いていた陽翔。赤くすりむいた膝。僕が差し出したポケモンの絆創膏。

 風の音と、夏の匂いと、母の笑い声。


 ああ、全部……記憶の中にある。

 でも、陽翔はもう――いない。


 なのに、母の中では、彼はまだ「生きている」。



その夜。

 病院の廊下は、まるで誰かが時間を止めたように静まりかえっていた。


 面会時間はとうに過ぎていて、看護師の靴音だけが一定のリズムで遠ざかっていく。


 母の病室にひとり残っていた僕は、ベッド脇の椅子に座り、電気もつけず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 街の明かりが、ぼやけて揺れて見える。


 目が熱い。


何も泣くようなことなんてないのに、どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。


 ふと、隣から小さな声が聞こえた。


 「……陽翔?」


 母が夢の中で、呼んでいた。


 声が震えていた。

 頼るような、すがるような声音だった。


 「陽翔……どこ……?」


 言葉にならない叫びが、母の唇から零れる。


 思わず、僕は立ち上がっていた。


 ベッドの横にしゃがみ込み、手を握る。細くて、冷たくて、でも、そこには母の“生”が確かにあった。


 「……お母さん。陽翔、いるよ」


 喉が、焼けるようだった。

 でも、その瞬間、母の顔に浮かんだ表情を、僕は一生忘れないだろう。


 ……安心したように微笑んで、涙をこぼしていた。


 「……よかった。陽翔……瑛太のこと、お願いね……あの子、ほんとは、すごく寂しがりやだから……」


 胸が締めつけられた。

 母は、“忘れて”いるわけじゃなかった。

 きっと、心のどこかで知っていた。でも、“忘れたふり”をしていたんだ。


 その優しさを、僕は裏切れなかった。


 翌日、僕は病院の一番奥にある談話室にこっそり入り、陽翔の字を真似て、母への“手紙”を書いた。


 ――文字の形も、言葉のクセも、僕は誰より知っていた。

 だって、あの子のノートや手紙を、何度も何度も読み返したから。


 「お母さんへ

  今日も元気です。ちゃんと朝ごはん食べました。

  瑛太がちゃんと病院に来てるか、見張ってるからね。

  また手紙書くよ。

   ――陽翔」


 僕はそれを、そっと病室の枕元に置いた。

 何も言わず、気づかれないように。


 ……ただ、“弟”は、ここにいるんだって。そう思ってくれたら、それでよかった。



 「今日も、陽翔からお手紙が来たの」


 母は、朝の光に照らされた病室で、うれしそうに言った。

 彼女の手には、一枚の便箋。僕が書いた、弟のふりをした手紙だった。


 「見て、このハートのマーク。あの子、昔からこうやって手紙に落書きしてたわね」


 母は、にこにこと笑いながら手紙を撫でた。

 僕の胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。


 机の引き出しには、僕が書いた手紙がすでに十数枚、リボンで綴じられていた。

 「陽翔からの宝物」と、母は呼んでいた。


 それを聞くたび、僕は何も言えなくなる。

 母が喜ぶならそれでいい――そう思って始めた嘘だった。

 でも今、僕の中の“瑛太”が、少しずつ薄くなっていくような気がした。


 “陽翔”を生かすために、“僕”が消えていく。


 その日の帰り道、春の風が街路樹を揺らしていた。


 人通りの少ない裏道を歩きながら、僕はスマホのメモ帳を開く。


 陽翔の誕生日、好きだったもの、使っていた言葉……すべてをリストにしてあった。


 “存在”を偽るために、“記憶”を研ぎ澄ませる。

 それはまるで、自分の魂を削って、誰かの形に彫り直す作業だった。


 ある日、母はぽつりとつぶやいた。


 「ねえ、瑛太。陽翔、最近お手紙に“ありがとう”ってよく書くのよ。……あなたに、感謝してるんだと思う」


 僕は、答えられなかった。

 声を出したら、たぶん、泣いてしまう気がしたから。


 母の視線は窓の外の空に向いていた。

 まるで、そこに陽翔が立っているかのように、優しく目を細めていた。



夕暮れが、街をやわらかな茜色に染めていた。


 病室のカーテンが風に揺れて、床に揺れる光と影が、まるで波のように漂っている。


 その日、母は少しだけ声が出しづらそうだった。

 点滴の管が増え、酸素マスクもつけられていた。


 けれど、目は澄んでいた。

 もう、見えないものが見えているような、静かな光を湛えていた。


 「ねえ、瑛太……陽翔に、もう一通……最後に、お手紙が書きたいの」


 僕は、喉の奥が詰まる音を聞いた。

 ペンと便箋を、そっと手渡す。


 母は時間をかけて、一文字ずつ丁寧に綴った。


 手が震えていた。

 けれどその文字は、やさしく、まっすぐで、温かかった。


 「陽翔へ

  いつもお手紙、ありがとう。

  あなたの言葉に、私は何度も救われました。

  そして、ありがとうをもう一度。

  生まれてきてくれて、本当にありがとう。


  瑛太のこと、見守ってあげてね。

  あの子、強がりだから。

  ……私も、もう少しで会いに行くから。

  そのときは、ぎゅっと抱きしめさせてね。


   お母さんより」


 母が手紙を書き終えたあと、僕は、病院の外に出て、ひとりベンチに腰を下ろした。

 風が強くなってきて、空が少しだけ泣きそうな色をしていた。


 スマホのメモ帳を開く。

 そのページに、最後の一文を加える。


 「陽翔は、今日、空になった。」


 そして、僕は白い便箋に文字を綴った。

 “陽翔”としてではなく、“瑛太”として。


 「お母さんへ

  今まで、たくさんの手紙を読んでくれてありがとう。

  僕はもう、“陽翔のふり”をしなくていいかなって思ってます。

  だって、お母さんは全部、わかっていたんだろうから。

  優しく、知らないふりをしてくれてたよね。

  本当にありがとう。


  最後の手紙は、僕から贈るね。

  “陽翔”は、きっと僕の中に生き続ける。

  だからもう、大丈夫。


  ――瑛太より」


 手紙を読み終えた母は、微笑んでいた。

 すべてを許すような、柔らかな目で、僕の顔を見つめていた。


 「……瑛太、ありがとう。……ずっと、わかってたよ」


 その言葉を最後に、母は静かに目を閉じた。


 夕暮れの光の中で、まるで眠るように。





あれから何年も経った。



 僕は時々、母と陽翔の手紙を読み返す。


 その文字のひとつひとつに、記憶が宿っている。


 触れるたびに、あのときの空気の匂いや、夕暮れの風の音が蘇る。


 彼らは、もうこの世界にいない。

 でも、僕の記憶の中で、確かに「存在している」。


 そう思えるから、僕は今日も歩いていける。

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「君の存在は、僕の記憶でできている」 海月 @umi_tuki

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