第6話
# 第6話 『森の小屋で』
アイラと私は村から北東に伸びる森の小道を進んでいた。彼女は小さな革の鞄を持ち、私はナイフと水筒、それに緊急時用の小さな包みを携えている。
「ブルームヒールは森の奥、小さな清流の近くに生えているんです」アイラが説明した。「青い花で、触れると少し冷たく感じるのが特徴です」
「見つけやすいものなの?」
「春なら目立つんですが、この季節は少し見つけにくいんです。でも私は何度も採りに来ているので」彼女は自信ありげに言った。
森は徐々に深くなり、木々が太く、背も高くなっていく。日差しは葉の間から筋となって地面に落ち、美しい光景を作り出していた。時折、小鳥や小動物の気配を感じる。
「村では薬草の専門家なんだね」私は会話を続けた。
「そこまででもないです」彼女は少し照れた。「でも母から教わったことはたくさんあります。母は村一番の薬師だったんです」
「素晴らしいな。その知識が村の役に立っているんだね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。「はい。人の役に立てるのは幸せなことです」
1時間ほど歩いたところで、アイラが立ち止まった。
「あそこです」彼女は小さな開けた場所を指さした。「川のそばに生えているはずです」
確かに、岩の間を流れる小さな清流があり、その周囲に青い小さな花が見える。
「見つけた!」アイラは小走りに近づいた。
私たちは手分けして薬草を集め始めた。アイラは熟練した手つきで、適切な大きさの花だけを丁寧に摘んでいく。私も彼女の指示に従って作業を続けた。
「こんな感じでいいかな?」私が採った花を彼女に見せる。
彼女は近づいて確認し、笑顔で頷いた。「完璧です。カイトさん、器用ですね」
作業を続けながら、森の美しさに見とれていた私だったが、ふと違和感を覚えた。森の鳥の声が突然止んだのだ。
「アイラ、ちょっと静かになったと思わない?」
彼女も顔を上げ、周囲を見回した。「本当ですね...」
その時、遠くから低い唸り声が聞こえてきた。アイラの顔から血の気が引いた。
「この唸り声...」
突然、藪が揺れ、大きな影が飛び出してきた。灰色の毛皮に覆われた大型の獣。オオカミにも似ているが、体はずっと大きく、目が赤く光っている。
「グレイハウンド!」アイラが叫んだ。「走って!」
彼女の手を取り、私たちは全力で森の中を走り始めた。獣は追いかけてきている。その足音と唸り声が迫ってくる。
「あそこ!」アイラが叫んだ。「猟師の小屋があります!」
確かに、前方に小さな木造の小屋が見えた。全力で駆け込み、ドアを閉める。かんぬきを下ろす間もなく、獣がドアに体当たりしてきた。木のドアが軋む音がする。
「このドアはどれくらい持つ?」私は周囲を見回した。
「わかりません...グレイハウンドはとても強いです」アイラの声が震えている。
もう一度、獣がドアに体当たりした。今度はドアの上部が少し割れた。
「何か武器は?」
アイラは小屋の隅を指さした。「あそこに猟師の道具があるかも」
急いで探すと、古い槍と弓が見つかった。槍を手に取り、ドアの方を向く。
「アイラ、後ろに下がって」
「カイトさん...」
三度目の体当たり。ドアの上部がさらに割れ、獣の赤い目と牙が見えた。【言霊の術】を使うべきか考えたが、獣相手では効果があるかわからない。
「もう一つの能力を使うべきか...」
その時、窓の方から音がした。別の獣が窓を攻撃し始めたのだ。
「二匹?」アイラが恐怖に声を上げた。
ここは【現実改変(微小)】を使うしかない。MPは回復しているはずだ。
「アイラ、大丈夫だ。俺に考えがある」
私は槍を床に置き、意識を集中させた。「現実改変...この小屋の周りに...獣を遠ざける結界を作りたい」
体から力が抜けていくような感覚と共に、小屋の周囲が薄く光るのを感じた。そして、獣の攻撃が突然止んだ。唸り声が遠ざかっていく。
「何が...?」アイラは驚いた様子で窓から外を覗いた。
獣たちは混乱したように小屋の周りをうろつき、やがて森の中へ消えていった。
「どうやら...去ったようだ」私は安堵のため息をついた。
「どうしたんですか?どうやって...」
「運が良かったんだ。たぶん何か別の獲物を見つけたんだろう」
嘘をつくのは気が引けたが、能力の説明はまだできない。アイラはまだ半信半疑のようだったが、とりあえず安全になったことに安堵している様子だった。
窓から外を見ると、空が暗くなり始めていた。
「もう夕方だね。今から村に戻るのは危険かもしれない」
アイラも頷いた。「夜の森は危険です。特にグレイハウンドが出たとなると...」
「この小屋で夜を明かすべきかな」
彼女は少し躊躇ったが、同意した。「そうですね...ここなら安全でしょう」
小屋の中を調べると、古い寝床、薪ストーブ、簡単な調理道具などが見つかった。幸い、乾いた薪も置いてあった。
「火を起こそう」私はストーブに薪をセットし始めた。
アイラは持ってきた包みから食料を取り出した。「少しですが、夕食になります」
パンとチーズ、それに干し肉。質素だが空腹を満たすには十分だ。
ストーブの火が部屋を暖め、外が完全に暗くなった頃、私たちは床に敷いた毛布の上で食事をしていた。
「無事で良かった」アイラは小さく言った。「あのグレイハウンド、最近村の近くまで現れるようになったんです」
「それが獣害の正体か」
「ええ。でも普通、一匹だけなんです。今日は二匹...増えているのかもしれません」
「心配だね。村に戻ったら村長に報告しよう」
静かに食事を続ける中、小屋の外では風が強まり、木々が揺れる音がした。急に雨粒の音も聞こえ始めた。
「雨が降ってきたね」
アイラは窓の方を見た。「本格的な雨になりそうです...帰れなくて正解でした」
「ああ。でも大丈夫、明日の朝には止むはずだ」
雨音が強まる中、ストーブの火だけが小屋を照らしている。アイラの横顔が火の光に照らされ、柔らかな輪郭が浮かび上がっていた。
「ちょっと寒くなってきた」彼女は肩を抱くようにして言った。
「もう少し火を強くしようか」
「いえ、薪を節約した方がいいです。この毛布があれば大丈夫」
しかし、彼女が少し震えているのが見えた。私は自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
「あ...ありがとうございます」彼女は少し顔を赤らめた。
「どういたしまして」
しばらく沈黙が続いた。ただ雨音とストーブの火が弾ける音だけが聞こえる。
「アイラ、質問していいかな。ずっと一人で暮らしてるんだよね?寂しくないの?」
彼女は膝を抱えるようにして座り直した。「慣れました...でも、正直に言うと、寂しい時もあります」
「結婚とかは考えなかったの?」
「考えなかったわけじゃないんです」彼女は少し遠くを見るような目をした。「でも、村には同年代の人が少なくて...それに、私は少し変わり者だと思われているみたいで」
「変わり者?全然そんな風には見えないけど」
「薬草のことばかり考えていて、村の外に興味があって...ここでは珍しいんです」
「俺は、そういうところが素敵だと思うけどな」
彼女は驚いたように私を見た。「本当ですか?」
「ああ、好奇心や情熱があるのは素晴らしいことだよ」
「ありがとうございます...」彼女の声が少し震えた。「実は...カイトさんが村に来てから、私、少し変わった気がするんです」
「どう変わったの?」
「もっと...可能性を感じるようになりました。この村の外にも、私にもできることがあるんじゃないかって」
私は彼女の顔をじっと見た。火の光に照らされた彼女の表情には、何か新しい決意のようなものが見えた。
「カイトさんは、私の知らない世界をたくさん見てきたんですよね」
「まあ、そうだね」地球のことを考えると、それは嘘ではなかった。
「いつか...教えてもらえますか?あなたの見てきたものを」
「もちろん。いつでも」
彼女が僅かに体を寄せてきた。「本当に?」
「ああ、約束するよ」
彼女の目が潤んでいるように見えた。「ありがとう...カイトさん」
その時、彼女の肩から私の上着が滑り落ちそうになり、咄嗟に手を伸ばした。同時に彼女も上着を取ろうとして、私たちの手が触れた。
一瞬の沈黙。
「アイラ...」
彼女は目を逸らさなかった。その緑の瞳に、火の光が小さく揺れている。
自然な流れで、私は彼女に近づき、彼女もまた私に体を寄せてきた。そして―
柔らかな唇が触れ合った。彼女の唇は少し冷たかったが、すぐに温かさが広がった。最初は優しく、探るようなキスだったが、徐々に深まっていった。
彼女の手が私の胸に触れ、私は彼女の腰に腕を回した。キスが終わると、彼女は少し息を切らしながら私を見つめた。
「カイトさん...私...」
「俺もだよ、アイラ」
そっと彼女の頬に触れる。彼女は目を閉じ、その感触を楽しんでいるようだった。
「怖くないですか?」彼女が小さな声で尋ねた。
「何が?」
「こんな...急に」
「自然なことだよ。俺たちは惹かれ合っている」
彼女の目が再び潤んだ。「誰も...こんな風に言ってくれたことがなかった」
再び彼女にキスをし、今度はより深く、情熱的に。彼女の体が私に寄り添い、その温もりが伝わってきた。
「アイラ、君は美しい」
彼女の頬が赤く染まった。「恥ずかしい...」
「本当のことさ」
言葉より気持ちを伝え合うように、私たちは再び唇を重ねた。やがて炎の揺らめきの中、二人の影が一つに溶け合っていった。
***
雨の音と、小屋の中の静けさ。二人の吐息だけが、時折この静寂を破る。
やがて、アイラが私の胸に頭を預け、満足そうに目を閉じていた。「不思議ね...」彼女は小さく呟いた。「こんなにも自然なことだなんて」
「そうだね」私は彼女の髪を優しく撫でた。「二人が望むなら、何も不思議じゃない」
彼女は安心したように頷き、私の胸に顔をうずめた。「これからどうなるのかしら...私たち」
「一緒に考えよう。焦ることはないよ」
外では雨がまだ降り続けていたが、小屋の中は暖かく、二人の心にも新たな温もりが灯っていた。
***
目が覚めると、小屋の中はまだ暗かった。窓の外は夜明け前の薄暗さで、雨は止んでいるようだ。アイラはまだ私の腕の中で眠っていた。
「何時だろう」
そう思った瞬間、突然、小屋の空間が歪み始めた。まるで現実が液体のように揺らいでいる。
「これは...」
アイラを起こさないように慎重に体を起こす。空間の歪みは強まり、やがて青白い光が広がった。そこから現れたのは、あの「観察者」だった。
「カイト、適応状況の確認時間です」
声は不思議なことにアイラを起こさない。彼女はまだ平和に眠っている。
「彼女には見えていないし、聞こえていないのでご安心ください」観察者が言った。「時間を一時停止しています」
「なるほど。そういう能力もあるんだな」
観察者は首を傾げた。「興味深い反応です。通常、被験者はこの状況でパニックになります」
「もう慣れたよ」私は肩をすくめた。「それで、何を確認したい?」
「あなたの異世界への適応状況と、システム機能の使用状況です」
「順調だと思うけどね。村に落ち着き場所を見つけたし、人間関係も築けている」私はまだ眠るアイラを見た。
「はい、その点は特に興味深いデータが得られています」観察者の表情は読めないが、声には少し面白がっているような調子があった。
「ところで、前回『拡張システム権限』を付与したが、その使用状況が通常とは異なるパターンを示しています」
「そうかな?」私は知らないふりをした。
「あなたは【システム干渉】を使用して、通常アクセスできない機能に接触しました」
「実験の一環じゃないのか?適応能力のテストとして」
観察者は一瞬黙った後、「確かにその解釈も可能です」と言った。「しかし、その結果として『特異性』が発現しました。これは予定外の展開です」
「特異性?」私は知らないフリを続けた。
「【現実改変(微小)】の能力です。あなたはすでに使用していますね」
「ああ、そうだな。便利な能力だよ」
「通常、このような能力は与えていません。システムの安定性に影響を与える可能性があるからです」
「じゃあ、能力を取り上げるのか?」
観察者は再び沈黙した後、「いいえ。実験データとしての価値があります。観察を継続します」
「太っ腹だな」
「ただし、条件があります」観察者が言った。「この能力の使用頻度と範囲を記録し、定期的に報告していただきます」
ここぞとばかりに交渉のチャンスだと感じた。
「それなら、僕にもリクエストがある」
「リクエスト?」観察者は再び興味深そうに首を傾げた。
「この能力を使いこなすには、もっと情報が必要だ。例えば、他の転移者がどんな能力を持っているかとか、この世界の魔法との関連性とか」
「それは通常提供していない情報です」
「でも、不安定な能力を持った実験体が暴走するよりも、データを提供して適切に使わせた方が、より良い実験結果が得られるんじゃないかな?」
観察者は考え込んだ。「論理的な指摘です」
「それに、より興味深い実験データを提供できると思うよ。例えば、この能力を使って何がどこまでできるか、計画的に試してみるとか」
「…それは価値のある提案です」
「お互いWin-Winということで」
観察者はしばらく沈黙した後、「了承しました。限定的な情報を提供します」と言った。
すぐに目の前に青い画面が現れた。
『転移者情報(限定開示)』
『現存確認転移者数:7名』
『最寄り転移者:南東15km - 能力特性:戦闘特化型』
『転移者発現能力傾向:個人特性と適性により多様化』
『現実改変能力保有者:1名(あなた)』
「なるほど…こちらも記録させてもらうよ」私は情報を頭に入れた。
「さらに、魔法との関連性についてですが」観察者が続けた。「あなた方転移者のシステム能力は、この世界の『魔力』と互換性があります。つまり、魔法使いから学ぶことで、能力の制御や拡張が可能になる場合があります」
「それは有益な情報だ。ありがとう」
「最後に、あなたの『特異性』についての注意点です」観察者の声が少し厳格になった。「【現実改変】の使用は空間に痕跡を残します。頻繁に使用すると、この世界の法則に干渉し、予期せぬ現象を引き起こす可能性があります」
「具体的には?」
「局所的な自然現象の異常、時間の流れの乱れ、あるいは…『観測者』以外の存在の注意を引く可能性」
「『観測者』以外?それは何を意味するんだ?」
観察者は初めて躊躇するような素振りを見せた。「それについては…情報開示の権限がありません」
「なるほど。上司がいるんだな」
「…そのような解釈も可能です」
興味深い情報だ。この世界には観察者たちの上位存在もいるのかもしれない。
「他に質問はありますか?」観察者が尋ねた。
「王都について知っていることを教えてほしい。特に転移者に関連して」
「王都には複数の転移者が存在します。一部は王国の要職についている者もいます。また、転移者同士が集まる隠れた場所があると報告されています」
「その場所の詳細は?」
「『黄金の鍵亭』という酒場です。一見普通の店ですが、特定の合言葉で地下への入口が開かれると言われています」
これはレイモンドが暗示していた場所かもしれない。
「最後に」私は本当に気になっていた質問をした。「なぜ僕をサンプルに選んだんだ?」
観察者は初めて微笑んだように見えた。「あなたの適応能力と社会的交渉スキルが評価されました。予測通り、あなたは興味深いデータを提供しています」
「まるで最初から計画されていたみたいだな」
「…観察を続けます」観察者はそれ以上答えなかった。「次回の確認は1ヶ月後です。ただし、『特異性』の大規模な使用があった場合は、臨時確認を行う可能性があります」
「了解した」
青白い光が再び広がり、観察者の姿が消えていく。
「それと…」最後に観察者の声だけが残った。「あなたとその女性のつながりも、興味深いデータを提供しています。続けてください」
なんとも微妙な言い方だ。まるで恋愛リアリティショーの司会者のようだ。
光が完全に消え、小屋の中に通常の空間が戻った。アイラはまだ眠っていた。しかし、彼女の瞳が少しずつ開き始める。
「おはよう」私は微笑みかけた。
「カイト...」彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。「おはよう」
窓の外では、朝日が森を照らし始めていた。新たな一日の始まりだ。
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