第38話:第三の選択

 選択の間に揺れる心は、星空を映す湖面のよう。

 風が過ぎれば新たな波紋を描き、いつか自らの姿を見出す。


 月明かりが神域の森を銀色に染める深夜、神代遼は祭壇の前で一人考え込んでいた。浮かぶ石の上で二つの模型が静かに脈動し、選択を促すかのように淡く輝いている。


「どちらを選んでも、後悔する」


 つぶやきは夜の静寂に溶けていく。島の模型を見つめれば、この神域で過ごした日々が鮮明に蘇る。アフロネアとの出会い、フラグを折る使命、仲間たちとの絆。都市の模型には、忘れかけていた日常が映る。家族の顔、学校の風景、失われた平凡な時間。


「神代さん」


 フローラの声に振り返ると、彼女は月光に照らされて立っていた。祭司の衣装ではなく、いつもの民族風のワンピース姿。その手には小さなランタンが灯されている。


「フローラ、なぜここに?」


「眠れなくて……それに、あなたもここにいると思ったから」


 彼女は遼の隣に静かに座った。ランタンの光が二人の表情を優しく照らし出す。


「決まりましたか?」


「いや、まだ」


 沈黙が流れ、二人は共に祭壇を見つめた。


「わたし、考えていたんです」


 フローラが静かに口を開いた。


「神域と現世、どちらかだけを選ぶことに、本当に意味があるのかなって」


「どういうこと?」


「どちらの世界も、わたしたちの一部。神域での経験は現世の記憶を変え、現世での絆は神域にも影響してる」


 彼女の洞察には、森の民特有の自然との調和の哲学が感じられた。


「二つの世界は別々に存在するのではなく、お互いに影響し合って一つの大きな流れを作っているのかもしれません」


 その言葉に、遼の心に何かが灯った。フローラの素朴な智慧が、彼の思考に新たな光を投げかけたのだ。


「神代さん」


 再び声がして、今度はレオンとラティアが近づいてきた。二人は手を繋ぎ、祭壇の前に立った。


「君も考え込んでるのか」


 レオンの声には友への思いやりがあった。


「ああ。でも、まだ答えは出ない」


「わたしたちも悩んでいたの」


 ラティアが静かに言った。


「元の世界に戻れば、家族に会える。でも、ここで見つけた大切なものまで失いたくない」


 彼女の視線がレオンに向けられた。二人の間に生まれた絆は、もはや切り離せないほど強いものになっていた。


「どうして二つに分けなきゃいけないんだ?」


 レオンの問いは、遼の心の奥に響いた。


「騎士として考えれば、どちらかだけを守るのではなく、全てを守る道を探すのが務めだろう」


 それは理想論かもしれない。しかし、その信念には確かな重みがあった。


 夜半を過ぎ、エリオットも加わった。彼の表情には不安と決意が混在していた。


「俺さ、やっぱり家族のもとに戻りたいんだ。でも、ここで経験したことも忘れたくない」


 彼の率直な言葉に、皆が頷いた。それぞれの思いは異なれど、全てが等しく尊重されるべきものだ。


 月が西に傾き始めた頃、銀色の光が森の中から現れた。静かに近づいてくるそれは、セリアだった。彼女の周りには、いつもの虹色の輝きが漂っている。


「皆さん、ここにいたのですね」


 彼女の声には優しさがあった。


「神代さん、何か答えは見つかりましたか?」


「まだ確信はないけど……皆の言葉を聞いていて、少しずつ形になってきた」


 遼は立ち上がり、祭壇に向かって歩み寄った。月光の下、彼の表情には新たな決意が浮かんでいた。


「セリア、教えてほしい。神域と現世、本当に二つしか選択肢はないのか?」


 彼女は小さく微笑んだ。


「神代さんなら、きっとわかるでしょう。綻びの中で見た無数の可能性を思い出してください」


 その言葉に、遼の心に閃きが走った。綻びの中で見た無数の未来、分岐点、そして可能性——それはまさに、今この瞬間のためにあったのかもしれない。


「みんな、ありがとう」


 遼は仲間たちに向き直った。


「答えが見えてきた気がする。でも、もう少し考えたい」


 皆は理解を示すように頷き、それぞれの思いを胸に抱きながら、キャンプへの帰路についた。


 遼とセリアだけが残され、二人は共に祭壇を見つめた。


「本当に可能なのだろうか、第三の選択肢なんて」


 セリアは静かに答えた。


「神域の本質は何でしょう?」


「本質?」


「ええ。神域は単なる場所ではありません。それは神々と人間の関係性そのものなのです」


 彼女の言葉には、神の使いとしての洞察があった。


「関係性……」


 遼は腕輪を見つめた。アフロネアとの絆の証。最初は命令と服従の関係だったものが、いつしか互いを理解し、時に反発し、それでも共に歩む関係へと変わってきた。


「セリア、アフロネアを呼べるか?」


「はい。ユーノス様にも伝えます」


 彼女は目を閉じ、祈るように手を合わせた。虹色の光が彼女から放たれ、空へと延びていく。


 待つこと数分、祭壇の上空に光が集まり始めた。青と虹が交錯し、やがて二つの姿が浮かび上がる。アフロネアの銀髪と、ユーノスの金髪が月明かりに輝いていた。


「呼んだのね、遼」


 アフロネアの声には、驚きと共に期待が含まれていた。


「答えが出たのですか?」


 ユーノスの問いかけに、遼は首を横に振った。


「まだ完全には。でも、質問がある」


「質問?」


「神域と現世は、本当に分けられなければならないのか?」


 その問いに、二柱の神は互いを見つめ合った。


「神域は神々の領域であり、現世は人間の領域」


 アフロネアが答える。


「両者の境界が曖昧になれば、秩序が乱れるのです」


 ユーノスが続けた。


「でも、それは過去の話だろう?」


 遼の言葉に、神々は静寂を保った。


「二人は既に境界を超えている。アフロネアは僕に力を与え、ユーノスはセリアと共に在る」


 彼の指摘は核心を突いていた。


「二つの世界は既に交わっている。だから、綻びも生じたんだ」


 アフロネアが静かに頷いた。


「その通りよ。でも、だからこそ選択が必要なの。秩序を取り戻すために」


「秩序? それとも、単なる慣習?」


 遼の問いは、神々の古い価値観に挑戦するものだった。


「神と人が互いを理解し、尊重し合う新しい関係性は構築できないのか?」


 深い沈黙が流れた後、アフロネアが静かに微笑んだ。


「あなたが望むのは、第三の選択肢?」


「ああ。神域と現世を完全に分けるのではなく、行き来できる道を作る」


 その提案に、ユーノスが首を傾げた。


「それは前例のないこと。神域と現世の間に常設の道など」


「だが不可能ではないでしょう?」


 セリアが進み出て、師に向かって問いかけた。


「神々と人間が新たな契約を結べば」


「契約?」


「はい。互いの領域を尊重しつつ、交流を許容する。そうすれば、両方の世界が豊かになるのでは?」


 セリアの提案には、神の使いとしての英知が感じられた。


「それに」


 遼が付け加えた。


「フラグを折るだけでなく、選ぶ自由を守ることこそが、本当の意味での恋愛の尊重ではないだろうか」


 その言葉に、アフロネアの表情が変わった。彼女の瞳には、何かを悟ったような光が宿っていた。


「縁切りも恋愛のうち……それが私の口癖だったけど」


 彼女は遠い目をして呟いた。


「フラグを折るのではなく、選ぶ自由を守る……」


 その考えは、彼女の中の何かを動かしたようだった。


「面白いわ」


 女神の声が夜の静寂を揺らした。


「一万年生きてきて、こんな提案を受けたのは初めてよ」


 彼女はユーノスを見た。


「弟よ、あなたはどう思う?」


 ユーノスは少し考え込んだ後、穏やかに微笑んだ。


「不思議なことに、私も興味を感じます。神々と人間が新たな関係を築く可能性」


 彼はセリアに視線を向けた。


「あなたの忠誠と知恵は、私に多くのことを教えてくれました」


 セリアの頬が赤く染まる。神と使いの間には、互いへの深い敬愛が存在していた。


「しかし」


 ユーノスは表情を引き締めた。


「それには大きな力が必要です。神域と現世の間に道を開くには」


「それに、安全性の問題もある」


 アフロネアが続けた。


「神域の力が無制限に現世に流れ込めば、均衡は崩れる」


「だから条件が必要だ」


 遼は確信を持って言った。


「例えば、特定の日だけ行き来できるとか」


「星祭りの夜」


 セリアが続けた。


「それに、神々の力が強まる時だけ」


 二人の提案に、神々は静かに頷いた。


「現実的な案ではあるわね」


 アフロネアは腕を組んだ。


「でも、それでも大きなエネルギーが必要よ」


「私たちの力を合わせれば」


 ユーノスが言った。


「それでも足りないでしょう」


 遼は静かに答えた。


「だから、僕たちの力も使って欲しい」


「何?」


「僕の腕輪とセリアの祈り——神と人の力を合わせれば、新たな道は開けるはずだ」


 彼の提案に、アフロネアは驚いたように目を見開いた。


「人間の力を借りるなんて……」


「恥ずかしいことではないでしょう、姉上」


 ユーノスが柔らかく言った。


「むしろ、それこそが新たな関係の第一歩なのでは」


 長い沈黙の後、アフロネアは静かに微笑んだ。


「面白い。やってみる価値はあるわね」


 女神の決断に、遼の胸に希望が広がった。


「明日、皆に伝えよう。そして、全員の総意で最終決定をする」


 彼の言葉に、セリアが頷いた。


「はい。全ての声を聞き、全ての想いを尊重する選択を」


 月が沈み、夜明けの気配が森を包み始めた。祭壇の上で二つの模型が輝く中、新たな可能性が形を取り始めていた。それは神と人の古い境界を超え、新たな調和を求める旅路の始まりだった。


 東の空が明るさを増す頃、セリアは祭壇の前で祈りを捧げていた。彼女の周りには虹色の光が美しく広がっている。


「明日が来ますね」


 彼女の静かな言葉に、遼は頷いた。


「ああ。新しい選択の日が」


 夜明けの風が二人の間を優しく吹き抜け、祭壇の光が朝日を迎えて一層輝きを増した。第三の選択へと続く道が、少しずつ形を現し始めていた。

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