第37話:選択の祭壇
選択とは光であり、また影でもある。
それは未来を照らし、同時に捨て去る道に闇を落とす。
神域の綻びから二日が過ぎた朝、神代遼は湖畔で目を覚ました。何時間瞑想していたのだろうか。湖面を撫でる風は、ささやかな波紋を描き、水面に映る朝陽が揺らめく光の芸術を生み出していた。
腕輪の青い光は、昨夜より明るさを増していた。アフロネアとの絆が以前よりも強まったことの証だろうか。
『目覚めたのね』
アフロネアの声が心に響く。以前の高飛車な調子ではなく、どこか優しさを含んだ声色だった。
「ああ。あの話の続きは?」
『神域の修復は進んでいる。でも完全な修復には、あなたの力が必要よ』
「僕の力?」
『ええ。これから皆に知らせるわ。集まってもらって』
遼は頷き、キャンプへと戻った。朝靄の中、仲間たちは日常の営みを始めていた。レオンと数人の男子生徒は水汲みの準備をし、女子たちは朝食の支度に取り掛かっている。
「皆、ちょっと集まってくれないか?」
遼の呼びかけに、皆が顔を上げた。その声には、いつもとは違う重みがあったのだろう。
「どうした、神代?」
レオンが訝しげに尋ねる。その傍らには、いつものようにラティアの姿があった。二人の間には、もはや堅固な絆が築かれている。
「アフロネアからの伝言がある。重要なことらしい」
その言葉に、キャンプ全体が静まり返った。神の名が持つ威厳が、おのずと場の空気を引き締める。
食堂テントに全員が集まると、遼は腕輪を掲げた。青い光が強まり、その光は空間に広がっていった。やがて光の粒子が集まり、アフロネアの姿が浮かび上がる。
「皆さん、お集まりいただきありがとう」
女神の声には、珍しく丁寧さが混じっていた。彼女の表情にも、以前のような高慢さは影を潜め、代わりに真摯な決意が窺えた。
「神域の綻びは、いずれ完全に修復されるでしょう。しかし、その先にある選択を、皆さんにお伝えしなければなりません」
彼女の言葉に、全員が息を呑んだ。
「神域と現世の境界が揺らいでいる今、二つの世界の関係を再定義する時が来ました。選択の時です」
アフロネアの視線が遼に向けられ、次いでセリアへと移った。二人の神の使いは、無言のまなざしで応える。
「今日の夕刻、神域の中心に『選択の祭壇』が現れます。そこでは二つの選択肢が示されるでしょう」
教室での授業のように、彼女は淡々と説明を続けた。
「この神域をこのまま存続させるか、あるいは——皆さんを元の世界に完全に戻すか」
その言葉に、生徒たちの間から驚きの声が上がった。
「元の世界に戻れるの?」
「家族に会えるってこと?」
「でも、ここでの生活も……」
様々な感情の渦が、食堂テントを満たしていく。
「選択をするのは神の使い、つまり遼とセリアです」
アフロネアの言葉に、全ての視線が二人に集中した。重責を告げられた遼の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。
「しかし、その選択は皆さんの総意を反映したものであるべきでしょう。だから今日一日、よく考え、話し合ってください」
そう言い残し、アフロネアの姿は光となって消えていった。その後には、重苦しい沈黙だけが残された。
やがて、セリアが立ち上がった。
「皆さん、これは神域と現世の境界を再定義する重大な選択です。どうか真剣に考えてください」
彼女の声には、使命感と共に温かさがあった。
「私はユーノス様の使いとして、神の視点をお伝えすることはできます。しかし、最終的な判断は皆さんの心に委ねられています」
その言葉に、ある種の解放感が広がった。神々の意志ではなく、彼ら自身の選択が尊重されるという安堵感だろうか。
「どうする?」
レオンが遼に尋ねた。騎士候補生としての彼は、常に指針を求められる立場にあった。
「まずは、皆の意見を聞きたい」
遼は静かに答えた。
「それぞれが何を望むか、神域に残りたいのか、元の世界に戻りたいのか」
彼の提案に、全員が頷いた。
***
朝食後、キャンプは幾つかのグループに分かれて話し合いが始まった。遼は中央の焚き火の側に座り、次々と訪れる仲間たちの話に耳を傾けた。
最初に来たのはエリオットだった。彼は少し緊張した面持ちで、遼の隣に腰を下ろした。
「神代、俺は……戻りたいんだ」
「ああ」
「弟が心配で。あいつ、俺がいないと宿題もろくにやらないし……」
「わかるよ」
エリオットの表情には、兄としての責任感が浮かんでいた。彼にとって家族の絆は何にも代えがたいものなのだろう。
次に訪れたのは、女子生徒のグループだった。数人の女の子たちが、互いの表情を窺いながら言葉を紡ぐ。
「私たちは、意見が分かれてるの」
リーダー格の女子生徒が言った。
「元の世界に家族がいるから、戻りたい子もいれば、この場所で見つけた新しい自分を大切にしたい子もいて……」
彼女たちの葛藤には、十代の決断の難しさが凝縮されていた。過去と未来、家族と自立、安全と冒険——選択は常に何かを得て、何かを手放すことだ。
「どちらが正解ということはないよ」
遼の言葉に、彼女たちは少し安堵の表情を見せた。
「それぞれの気持ちを大切にしてほしい」
昼過ぎ、フローラが林檎を手に訪れた。彼女は遼の隣に静かに座り、果実を差し出した。
「お昼です。何も食べていないでしょう?」
「ありがとう」
林檎を一口かじると、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。
「フローラは、どう思う?」
彼女は緑の瞳を湖に向け、しばらく考えてから答えた。
「わたしは……どちらでも」
「どちらでも?」
「はい。わたしの故郷は森そのもの。ここにあっても、元の世界にあっても、森があれば生きていけます」
彼女の言葉には、自然に寄り添って生きてきた者の強さと柔軟さがあった。
「でも……」
彼女は言葉を切り、遼の目をまっすぐ見つめた。
「神代さんのいる場所に、わたしもいたいです」
その告白には、迷いのない確かさがあった。フローラの心は、既に決断していたのだ。
「ありがとう」
遼は静かに答えた。彼女の想いの重みを、言葉に出来ないまま受け止める。
午後も話し合いは続いた。レオンとラティアは共に戻る道を望み、一部の生徒たちは神域での新たな生活に可能性を見出していた。意見は様々だが、一つだけ共通していたのは、もはや誰も「以前と全く同じ生活」には戻れないという認識だった。
夕刻が近づき、太陽が西の空に傾き始めた頃、セリアが遼の元を訪れた。
「話し合いは進んでいますか?」
「ああ。でもやっぱり意見は分かれている」
セリアは静かに頷いた。
「当然でしょう。人の心は一つではありませんから」
彼女の言葉には、深い洞察があった。
「神代さん、あなたはどうしたいですか?」
「僕は……」
遼は言葉を探し、空を見上げた。
「正直、わからない。元の世界には戻りたい気持ちもある。でも、ここでの体験、出会った人たち、そして……アフロネアとの絆」
彼は腕輪を見つめた。青い光は、彼と女神を繋ぐ証だった。
「全てを失いたくはない」
セリアは理解を示すように微笑んだ。
「それが、あなたの本当の気持ちですね」
「でも、二択しかないなら……」
彼女は首を振った。
「本当にそうでしょうか? 綻びの中で見た無数の可能性を思い出してください」
その言葉に、遼の脳裏に閃きが走った。綻びの中で見た無数の未来——それは選択の結果だけでなく、選択肢そのものの多様性をも示していたのではないか。
「セリア、もしかして……」
彼女は微笑むだけで、それ以上は語らなかった。しかし、その表情には確かな希望が宿っていた。
「神域の中心に向かいましょう。もう、時間です」
***
夕暮れの森を進む一行。遼とセリアを先頭に、キャンプの全員が神域の中心へと向かっていた。木々の間から差し込む斜光が、道を黄金色に染め上げる。
「本当にあるのかな、選択の祭壇なんて」
エリオットが不安そうに呟いた。
答えは、すぐに目の前に現れた。
森が開けた先には、かつて誰も見たことのない光景が広がっていた。円形の空間に、半透明の柱が立ち並び、中央には石の祭壇が浮かんでいる。祭壇の表面には複雑な模様が刻まれ、青と虹色の光が交互に脈動していた。
「これが……選択の祭壇」
セリアの声には、厳粛さが込められていた。
祭壇の前には、二つの形が浮かんでいた。一つは島の微細な模型、もう一つは彼らの故郷の都市の模型。どちらも淡く輝き、まるで生きているかのように微動している。
「神代遼、セリア=フィーン」
空から声が降り注ぐ。アフロネアとユーノス、二柱の神の声が重なり合っていた。
「選択の時が来ました」
光の柱が二人を包み、ゆっくりと祭壇へと導く。他の生徒たちは円形の空間の外周に立ち、息を呑んで見守っていた。
祭壇に立つと、二つの模型がより鮮明に見えた。島の模型からは、彼らが過ごしてきた神域の記憶が波紋のように広がる。一方の都市の模型からは、忘れかけていた元の世界の景色が浮かび上がっていた。
『二つの選択肢があります』
アフロネアの声が響く。
『この神域をこのまま維持し、皆さんの新たな世界とするか』
『あるいは、元の世界に完全に帰還するか』
今度はユーノスの声だった。
『どちらを選んでも、神々は尊重します』
二人の神の声には、真摯な決意が感じられた。
「でも、どちらかを選べば、もう一方は失われるんですね」
セリアが確認するように尋ねた。
『そうです。選択は、新たな秩序を生み出します』
答えに、遼の胸に重圧が押し寄せた。どちらを選んでも、何かを失う。どちらを選んでも、誰かが傷つく。
彼は振り返り、仲間たちの表情を見た。期待、不安、決意、迷い——様々な感情が交錯している。
「待ってほしい」
遼は声を上げた。
「この選択を、今すぐにしなければならないのか?」
一瞬の静寂の後、アフロネアの声が再び響いた。
『どういうことですか?』
「もう少し考える時間が欲しい。一晩の猶予を」
『神域の均衡は不安定です。長くは待てません』
ユーノスの声には緊張感があった。
「わかっている。でも、それでも……もう少し時間を」
遼の懇願には、決意と共に確かな希望が含まれていた。セリアも彼の横に立ち、神々に向かって頭を下げた。
「神域と現世の調和は、慎重な選択を要します。どうか猶予を」
長い沈黙の後、アフロネアの声が静かに降り注いだ。
『わかりました。明日の同じ時間まで』
『ただし、その間に神域の均衡が崩れれば、選択の権利も失われるでしょう』
ユーノスの警告を聞き、遼は固く頷いた。
「ありがとう」
祭壇の光が弱まり、二人は地上に戻された。周囲の柱も光を失い、ただの石となって佇んでいる。しかし祭壇だけは依然として浮かび続け、二つの模型は淡く輝いていた。
「さあ、キャンプに戻りましょう」
セリアが皆に呼びかけた。
「明日までに、最善の答えを見つけましょう」
生徒たちは静かに頷き、夕闇の森を帰路についた。遼は最後まで祭壇を見つめていた。
「第三の選択肢……きっとあるはずだ」
彼のつぶやきは、夜風に乗って森に消えていった。
神域の中心に一人残された祭壇の上で、二つの模型は静かに輝き続けていた。それは選択を待つ未来の象徴であり、同時に過去の記憶の結晶でもあった。
夜が深まり、星々が空を彩る中、選択の時は静かに近づいていた。
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