第36話:神様の真実
記憶は透明な水晶のように、光に照らされれば無数の色を映す。
神の秘密もまた、永遠の沈黙の後に、いつか言葉となる。
神域の綻びから一日が過ぎた。朝霧が森を包み込み、キャンプは静寂に包まれていた。神代遼は誰よりも早く目覚め、湖のほとりに座っていた。水面に映る自分の姿は、昨日までとは何か違うように感じられた。
腕輪の青い光は弱々しく、アフロネアの気配は依然として遠いままだった。神域の修復に全力を注いでいるのだろう。
「戻ってくるのかな」
つぶやきは霧の中に溶けていく。綻びの中で見た無数の可能性が、まだ彼の脳裏に鮮明に残っていた。
「神代さん」
セリアの声がして振り返ると、彼女は朝霧の中から静かに歩み出てきた。その周りには、いつもの虹色の光が漂っている。
「朝早いですね」
「君もね」
「私は……神域の様子を確かめていました」
彼女の言葉には、使命感が込められていた。
「どうなってる?」
「修復は進んでいます。アフロネア様とユーノス様が、懸命に働いていらっしゃる」
セリアの説明に、遼は安堵の息をついた。
「よかった」
「ただ……」
彼女は言葉を切り、湖面を見つめた。
「何?」
「完全な修復には、まだ何かが足りないようです」
「何が?」
「それは……明確には言えません。神々も模索中のようです」
セリアの表情には、確かな懸念が宿っていた。
「今日一日は静かに過ごした方が良いでしょう。神域が安定するまで」
彼女の忠告に、遼は頷いた。
「皆にも伝えておく」
セリアは微かに笑み、立ち去ろうとした。
「セリア」
「はい?」
「君とユーノスの関係は、僕とアフロネアと似てるのかな」
突然の質問に、彼女の瞳が揺れた。
「似ている部分もあれば、違う部分もあります」
「どう違うの?」
「私は幼い頃からユーノス様に選ばれましたが……あなたは偶然の出会いで」
「偶然? 本当にそうなのかな」
遼のつぶやきに、セリアは不思議そうに首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「いや、何でもない」
セリアは静かに頷き、霧の中へと消えていった。彼女の後ろ姿には、儚さと強さが同居していた。
***
一日は静かに過ぎていった。キャンプの全員が昨日の出来事で疲れたのか、いつもより穏やかに日常を過ごしている。レオンはラティアと共に森の探索に出かけ、エリオットたちは昨日の体験を熱心に絵日記に記録していた。
遼は自分の小屋で過ごすことにした。時折、腕輪を見ては、アフロネアの気配を探る。僅かな青い光が、彼女の存在を示しているだけだった。
昼過ぎ、フローラが小屋を訪ねてきた。彼女の手には、野草を煎じた薬湯が入った小瓶があった。
「神代さん、お加減はいかがですか?」
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと疲れただけで」
「これを飲んでください。元気が出ますよ」
彼女の優しさに、遼は感謝の言葉を返した。
「ありがとう。君はやさしいね」
「いえ、当然のことです」
フローラは少し間を置いてから、静かに尋ねた。
「アフロネア様は……まだ戻られていないのですね」
「ああ。神域の修復に力を使っているみたいだ」
「神域……わたしたちには見えない世界なのですね」
彼女の言葉には、好奇心と畏敬の念が混じっていた。
「君は怖くないのか? 神の存在が現実にあるって知って」
「最初は驚きましたが、怖くはありません」
フローラの答えは、意外なほど落ち着いていた。
「私の民は昔から自然と神々を敬ってきました。だから、彼らが実在するとわかっても、どこか納得できる部分があるんです」
彼女の視点には、深い洞察があった。
「それに……アフロネア様は神代さんを大切にしている。それだけで、私も彼女を尊敬できます」
素直な言葉に、遼は心を打たれた。彼女の心の広さは、時に驚くほどだった。
「ありがとう、フローラ」
「戻られたら、よろしくお伝えください。私も祈っていると」
彼女はそう言い残し、小屋を後にした。その足取りには、どこか強さが宿っていた。
***
夕暮れが近づいた頃、遼は森の奥深くへと足を運んでいた。昨日の綻びが現れた場所の近くには、まだ何か特別な気配が漂っているような気がしたからだ。
『遼……』
微かな声が聞こえた気がして、彼は足を止めた。
「アフロネア?」
『ええ……少しだけ話せるわ』
彼女の声は弱々しく、遠くから響くようだった。
「大丈夫か? 無理しないでくれ」
『心配ないわ。神域の修復は、ほぼ完了したから』
「よかった」
『でも……もう少し時間がかかるわ。完全に元に戻すには』
アフロネアの声には、疲労と共に何か決意のようなものが感じられた。
「君に会いたい」
素直な気持ちを伝えると、彼女の気配が温かくなった。
『私も……』
その瞬間、風が強まり、木々がざわめいた。空気の流れが変わり、森の中心から光が広がり始める。
「これは……」
光は徐々に形を取り、人の形となっていった。そこに現れたのは、アフロネアだった。しかし、いつもの高飛車で自信に満ちた女神の姿ではない。疲れた表情で、どこか儚げに立っていた。
「アフロネア!」
遼は驚いて駆け寄った。彼女は弱々しく微笑み、その場に座り込む。
「力を使い果たしたわ……でも、少しの間なら現れられる」
「無理するな」
「大丈夫よ。話したいことがあるの」
遼も彼女の隣に座った。二人の周りには、夕暮れの優しい光が差し込んでいる。
「遼、あなたは綻びの中で、多くの可能性を見たわね?」
「ああ。いくつもの未来と、過去の記憶」
「そう。それは神域の特性よ。時間が重なり合う場所だから」
彼女は深呼吸し、決意を固めたように言った。
「私も、修復作業の中で多くのことを見たわ。そして……決めたの」
「何を?」
「あなたに全てを話すと」
アフロネアの瞳には、長い時を生きてきた存在の疲れと、同時に新たな希望が宿っていた。
「私の過去を、私がなぜ神になったのかを」
その言葉に、遼は息を呑んだ。彼女が自ら過去を語ることなど、これまで一度もなかった。
「聞かせてほしい」
アフロネアは静かに目を閉じ、遠い記憶を辿るように口を開いた。
「私はかつて、人間だったの」
森の静けさの中、彼女の告白が響く。
「今から一万年以上前、北方の小さな村で生まれた少女だった」
「人間だった?」
「ええ。普通の、何の変哲もない人間」
アフロネアの目が遠くを見つめる。
「私には恋人がいたの。シグルドという名の戦士」
彼女の声が震える。
「彼は強く、優しく、そして……誰よりも私を愛してくれた」
遼はアフロネアの表情の変化に気づいた。通常の高慢さはなく、ただ純粋な懐かしさと痛みがあった。
「でも、その時代は戦乱の世。彼は隣国との戦いに赴き、そして……」
彼女は言葉を切った。その沈黙に、全てが語られていた。
「戻らなかった」
遼が静かに言葉を補う。アフロネアは小さく頷いた。
「私は彼を待った。日々、祈りを捧げ、神々に彼の無事を願った」
風が吹き、銀髪が揺れる。
「でもある日、彼の形見だけが村に戻ってきた。私は……耐えられなかった」
話すことの辛さが、彼女の表情に表れている。
「崖に登り、そこから身を投げたの」
「アフロネア……」
「でも死ねなかった。代わりに、私は神になっていた」
その衝撃的な告白に、遼は言葉を失った。
「当時の最高神が私の純粋な愛と悲しみを哀れに思い、死なせる代わりに恋愛を司る神として生まれ変わらせたの」
「それが、恋愛の女神アフロネアの始まり……」
「ええ。初めは素直に喜んだわ。恋愛を司る神として、幸せな恋を守れると思ったから」
彼女の声には、皮肉な笑みが混じる。
「でも実際は違った。何千年、何万年と、人々の恋の祈りを聞き続けるうちに、気づいたの」
「何に?」
「恋は痛みをもたらすということに」
アフロネアの瞳には、万年の時を生きてきた存在の疲れが宿っていた。
「幸せな恋もあるけれど、多くは別れや裏切り、死別で終わる。私は人々の祈りを聞くたび、自分自身の痛みを思い出したの」
「だから、フラグを折ることにしたのか」
「ええ。"縁切りも恋愛のうち"という言い訳で」
彼女は自嘲気味に笑った。
「本当は、彼らを痛みから守りたかっただけなのに」
その告白には、長い孤独の時を経た神の弱さが現れていた。
「アフロネア……」
遼は思わず彼女の手を取った。神の手は冷たく、しかし確かな温もりがあった。
「シグルドは、綻びの中にいたシルエットだったのか」
「ええ。あなたも見たのね」
「髪の色といい、どこかシェルスピールの物語に出てくる男に似ていた」
「人間の物語は、時に神々の真実を映すのよ」
アフロネアは静かに微笑み、遼の手を握り返した。
「だから私は、あなたのフラグを折ろうとしたの。あなたにも、恋の痛みを味わってほしくなかった」
「だけど、その考えは変わってきたんだね」
「ええ。あなたと過ごすうちに、気づいたことがあるの」
「何に?」
「恋の痛みを恐れて避けるより、その可能性を信じることの方が、ずっと勇気がいるということ」
彼女の言葉には、神としての成長が込められていた。
「神代さん、アフロネア様」
二人の会話に割り込むように、セリアの声がした。彼女は木々の間から静かに現れた。
「セリア」
「お話を聞かせていただきました」
セリアの瞳には、驚きと共に深い理解の色があった。
「アフロネア様が人間だったなんて……」
「驚いたかしら?」
「はい。でも……実は、ユーノス様も同じなのです」
その言葉に、アフロネアの目が見開かれた。
「ユーノスも?」
「はい。彼もかつては人間で、深い愛によって神となられました」
セリアの説明に、アフロネアは言葉を失った。
「私は知らなかった……弟神なのに」
「彼は、あなたと同じ苦しみを経験しています。だからこそ、恋の成就に力を注いでいるのです」
「まるで私の反対ね」
「いいえ、同じ鏡の裏表です。どちらも愛から生まれた選択」
セリアの洞察は鋭かった。彼女は二人に近づき、静かに言った。
「神域の修復は進んでいますが、完全には戻っていません」
「なぜ?」
「神々の力だけでは足りないのです。必要なのは……」
「何?」
「選択です。神と人の、真実の選択」
セリアの言葉には、深い意味が込められていた。
「どういうこと?」
遼が尋ねると、セリアは空を見上げた。
「神域の綻びは、単なる事故ではありません。それは、神々と人間の間に生まれた新たな絆が、古い秩序を揺るがしているから」
「新たな絆?」
「あなたとアフロネア様、そして私とユーノス様の関係です」
アフロネアは複雑な表情で遼を見つめた。
「私たちの絆が、神域を変えているの?」
「はい。古来より、神と人は一定の距離を保ってきました。しかし今、その境界が揺らいでいる」
セリアの説明は続く。
「完全な修復のためには、新たな境界を定める必要があります。それには……選択が必要なのです」
「どんな選択だ?」
「それは……まだ明確ではありません。ただ、その時が近づいていることは確かです」
彼女の言葉には、予言者のような響きがあった。
「セリア、私に教えてほしいことがある」
アフロネアが言った。
「何でしょう?」
「ユーノスは、どうして人間を愛したの?」
その質問には、姉神としての好奇心と、一人の女性としての複雑な感情が混じっていた。
「彼は……愛ゆえに苦しんだ人を救いたかったのです。その願いが、彼を神へと変えました」
「まるで私とは逆の道を歩んだのね」
「しかし目的は同じです。人々を守ること」
セリアの言葉に、アフロネアは静かに頷いた。
「理解し始めたわ……」
彼女の表情には、長い眠りから覚めたような清々しさがあった。
「神代さん」
セリアが遼に向き直った。
「あなたはこれから、重要な選択をすることになります。その時には、心の声に従ってください」
「心の声……」
「はい。綻びの中で見た可能性は、全て選択の結果です。どれが正しいというわけではなく、あなたの心が求める道が、最も真実なのです」
その言葉には、神の使いとしての知恵と、一人の少女としての優しさが込められていた。
「ありがとう、セリア」
彼女は小さく頷き、再び木々の間へと消えていった。彼女の後ろ姿には、虹色の光が漂っていた。
二人だけになり、静寂が戻ってきた。夕日が森を赤く染め、アフロネアの銀髪に美しい陰影を作り出している。
「長すぎるほど、長く生きてきたわ」
彼女はつぶやいた。
「一万年以上か……想像もつかない」
「ほとんどは、ぼんやりと過ぎていったわ。でも、あなたと出会ってからの日々は……鮮明に覚えている」
その言葉には、神としての孤独と、新たな希望が混在していた。
「アフロネア、君が人間だったことを知って、何か変わった気がする」
「何が?」
「君との距離。今まで神と人間という隔たりがあったけど、元は同じ人間だったと思うと——」
「親しみが湧くの?」
「ああ、そんな感じだ」
アフロネアは少し照れたように顔を背けた。
「失望はしなかった? 高慢な神様が、実は弱い人間だったって知って」
「逆だよ。君がそんな過去を乗り越えて、今ここにいることが素晴らしいと思う」
その言葉に、彼女の瞳が潤んだ。
「遼……」
彼女の声が震える。
「一万年以上生きてきて、初めて……心から感謝を感じるわ」
「なぜ?」
「あなたが私を理解してくれたから」
アフロネアの素直な言葉に、遼の胸が温かくなった。
「僕も、君に感謝してる」
「何に?」
「フラグを折る使命をくれたことに。それがなければ、君とも、フローラとも、皆とも出会えなかった」
夕日が沈み、二人の周りに青い影が広がり始めた。アフロネアの姿が少しずつ透明になっていく。
「力が尽きるわ……戻らなきゃ」
「また会えるよね?」
「ええ、必ず。でもその前に……」
彼女は遼の頬に触れ、静かに言った。
「選択の時が来たら、自分の心に正直に」
「君は?」
「私も……自分の心に従うわ」
その言葉を最後に、アフロネアの姿は光となり、夕暮れの空へと溶けていった。
遼は一人残され、空を見上げた。星々が一つ、また一つと輝き始めている。それぞれの星には、無数の物語が刻まれているのだろう。神々の歴史も、人間の記憶も、全てが宇宙の織物の一部として。
腕輪の青い光が、以前より明るく、温かく感じられた。それは彼と女神の絆が、より強く、より深くなった証だったのかもしれない。
キャンプに戻る途中、彼はふと立ち止まり、遠くの星を見つめた。
「シグルド……彼女はまだ君を覚えているよ」
風が木々を揺らし、葉の擦れる音が答えのように響いた。
明日もまた、新しい一日が始まる。そして彼らは、選択の時へと少しずつ近づいていくのだろう。
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