第35話:神域の綻び

 時間の傷は、世界の肌に現れる。

 一時の停滞が、永遠の均衡を崩すことがある。


 夕暮れの空が茜色に染まり始めた頃、神代遼は湖畔でのお茶会から戻ってきた。フローラとの時間は穏やかなものだったが、その合間に起きた時間停止という異常事態が、彼の心を揺さぶっていた。


「アフロネア、大丈夫か?」


『ええ。ただちょっと疲れてるだけよ』


 女神の声には、かすかな疲労が混じっていた。


「時間を止めるなんて、そんな力があったんだね」


『極めて例外的なことよ。通常は神王に許可を得なければならない禁術だもの』


「禁術?」


『ええ。時間の流れに干渉することは、神域の均衡を乱す危険があるのよ』


 その説明に、遼の胸に不安がよぎった。


「何か問題が起きる?」


『大丈夫、短時間だったし、範囲も限られていたから……』


 アフロネアの声には自信があったが、どこか言い聞かせるような調子も混じっていた。


 遼がキャンプの中央に戻ると、祭りの後片付けが進められていた。レオンを中心に男子たちは櫓を解体し、女子たちは飾り付けを集めている。


「神代、手伝ってくれるか?」


 レオンの呼びかけに頷き、遼も片付けに加わった。充実した祭りの余韻が、みんなの表情に残っている。


「いい祭りだったな」


「ああ。特に星の光の雨は、本当に神秘的だった」


 レオンの言葉に、遼は思わず微笑んだ。あれがアフロネアの力だったことを、彼は知らない。


「フローラさんにも感謝しないとな。彼女がいなかったら、こんな素晴らしい伝統も知らないままだった」


「そうだね」


 作業を進める中、遼は時折ふと立ち止まっては空を見上げていた。何か違和感がある。言葉にはできないが、空気の中に微かな震えのようなものを感じる。


『感じるの?』


 アフロネアの声がした。


「何か……変だ。空気が振動しているような」


『やはり影響が出始めたのね』


「影響?」


『時間停止の反動よ。神域が少し不安定になっているの』


 その言葉が終わらないうちに、突然の風が吹き抜けた。不自然なほど強い風に、地面の装飾品が宙に舞い上がる。


「なんだ?」


 レオンが驚いて叫んだ。風は渦を巻き始め、まるで小さな竜巻のように中央広場で踊っていた。


「皆、気をつけて!」


 遼が警告の声を上げた瞬間、風の中に異変が起きた。空間がゆがみ、まるで布が裂けるように、風の中心に暗い亀裂が現れたのだ。


「あれは……?」


 亀裂は徐々に広がり、内側から不思議な光が漏れ出していた。青と緑が混ざり合った幻想的な輝きだが、その美しさとは裏腹に、危険な気配が感じられる。


『綻びよ! 神域の綻び!』


 アフロネアの声には、明らかな動揺が含まれていた。


「どういうこと?」


『時間停止の反動で、神域と現世の境界が薄くなっているの。あそこは異空間への入り口になってしまった』


「危険なの?」


『近づかないように皆に言って! 吸い込まれたら大変なことになるわ!』


 遼は急いでレオンのもとへ駆け寄った。


「みんなを下がらせてくれ! あの亀裂は危険だ」


「わかった。おい、皆後ろに下がれ!」


 レオンの指示で生徒たちは距離を取り始めたが、好奇心から数人が亀裂に近づいていた。


「危ない!」


 遼の警告が届かないうちに、一人の男子生徒が風に煽られるように浮き上がり、亀裂へと吸い込まれていった。


「エリオット!」


 レオンが叫ぶ。消えたエリオットの悲鳴が、かすかに虚空から響いてくる。


『始まったわね』


 アフロネアの声には、緊張と共に決意が込められていた。


「どうすれば?」


『私が綻びを安定させる。その間に中に入って、吸い込まれた者を連れ戻して』


「中に? 僕が?」


『ええ。あなたなら大丈夫。腕輪が道しるべになるわ』


 遼は一瞬迷ったが、すぐに決断した。


「わかった」


「神代、何をする気だ?」


 レオンが心配そうに尋ねる。


「エリオットを助けに行く」


「無茶だ! あんな所に飛び込むなんて」


「大丈夫、戻ってくるから」


 遼の決意に、レオンは渋々頷いた。


「気をつけろよ」


「ああ」


 その会話の途中、さらに悲鳴が上がった。今度は女子生徒二人が、風に飛ばされた飾りを追いかけるうちに、亀裂に近づきすぎたのだ。


「きゃあっ!」


 二人は光の中に消えていった。


「これは、マズイ!」


 レオンの焦りの声が響く中、遼は亀裂に向かって走り出した。


「神代さん!」


 フローラの叫び声が背後から聞こえた。振り返ると、彼女が駆けてくる姿が見えた。


「行かないで! 危険です!」


「大丈夫だよ。必ず戻ってくるから」


 彼の言葉に、彼女は泣きそうな顔で頷いた。


「約束です」


「ああ、約束する」


 決意を新たに、遼は亀裂に向かって飛び込んだ。体が光に包まれる感覚。現実が溶けていくような浮遊感。そして——


 闇と光の渦の中に、彼は落ちていった。


 ***


 意識が戻った時、遼は見知らぬ空間に立っていた。周囲には半透明の壁が広がり、まるで巨大な水晶の内部にいるよう。床や天井の概念がなく、ただ青と緑が混ざり合った光の中に浮かんでいるような感覚だった。


「ここが……神域の内側?」


『正確には境界よ』


 アフロネアの声が、いつもより鮮明に響いた。


「エリオットたちは?」


『感知するわ……あちらよ』


 遼の腕輪が、特定の方向を指し示すように明るく輝く。


「アフロネア、君は大丈夫? 声が違う気がする」


『ここは神域に近いから、私の力も本来の姿に近づくの。でも、綻びを安定させるのに集中しているから、長くは持たないわ』


 その言葉には、切迫感があった。


「急ごう」


 遼は腕輪の示す方向へと歩き始めた。だが「歩く」という表現は正確ではないかもしれない。彼は意志の力で前進しているような、不思議な感覚だった。


 空間の中を進むにつれ、周囲に奇妙な映像が浮かび上がり始める。半透明の壁に映し出される光景は、どこか見覚えのあるものだった。


「これは……」


『記憶の断片よ。神域の綻びには、時間の欠片が閉じ込められているの』


 壁に映る映像の中で、遼は自分自身を見た。アフロネアと初めて出会った日、フラグを折った最初の瞬間、フローラとの出会い——全てが走馬灯のように流れる。


「僕の記憶?」


『あなたの過去、そして……可能性の未来』


 映像は変化し、まだ見ぬ光景が浮かび上がる。島から脱出する姿、学園に戻った日常、そして様々な人々と共に歩む未来。それは一つではなく、無数の分岐を持っていた。


「これが……未来?」


『可能性の一つよ。神域の綻びは、時間の糸も乱すの』


 遼は足を止め、映像に見入ってしまう。その中には、フローラと手を取り合う自分、アフロネアと語り合う自分、そして一人孤独に歩む自分——無数の選択肢が、彼を待ち受けていた。


『遼、迷わないで。記憶の迷路に囚われると、抜け出せなくなるわ』


 アフロネアの警告に、遼は我に返った。


「ああ、行こう」


 前に進むにつれ、遠くから声が聞こえてきた。


「誰か、助けて!」


「ここはどこなの?」


「怖い、出られない!」


 エリオットたちの声だ。遼は急いで声のする方向へと向かった。


 すると、光の渦の中に三人の姿が見えてきた。彼らは半透明の壁に囚われたように、動けずにいた。


「エリオット! 皆!」


「神代! 来てくれたのか!」


 エリオットの顔に安堵の表情が広がる。女子生徒二人も、希望の光を見つけたように目を輝かせた。


「どうすれば彼らを助けられる?」


『あなたの腕輪を使って。境界を触れば、彼らを引き出せるはず』


 遼は腕輪を掲げ、透明な壁に触れた。すると青い光が広がり、壁が波紋のように揺れ始める。


「手を伸ばして!」


 エリオットが最初に手を伸ばし、遼の手をつかんだ。彼を引き寄せると、壁から解放されたように体が実体化した。


「ありがとう! ここ、めちゃくちゃ怖かったんだ」


「説明は後だ。他の二人も」


 遼は同じように女子生徒二人も救出した。彼女たちは泣きそうな顔で礼を言う。


「さあ、帰ろう」


『待って、もう一人いるわ』


「え?」


『さっき、もう一人吸い込まれたみたい』


「誰だ?」


『わからないけど……あの方向よ』


 腕輪が別の方向を指し示す。遼は救出した三人に言った。


「ここで待っていて。もう一人探してくる」


「一人で大丈夫か?」


 エリオットの心配に、遼は頷いた。


「心配ない。すぐ戻る」


 そう言って、遼は腕輪の導きに従って再び奥へと進んだ。


 この空間の奥に進むにつれ、映像はより鮮明に、より不思議なものへと変わっていく。過去と未来だけでなく、別の可能性の世界——遼がフラグブレイカーにならなかった世界、アフロネアと出会わなかった世界。


「これは……」


『可能性の分岐点よ。あなたの選択一つで、世界は無数に分かれるの』


 その言葉に、遼は深い感慨を覚えた。


 やがて、一人の人影が見えてきた。銀髪のショートボブ——セリアだった。


「セリア!」


 彼女は振り返り、遼を見て穏やかに微笑んだ。不思議なことに、彼女は他の三人のように壁に囚われてはいなかった。むしろ、自由に動き回っているようだった。


「神代さん、来てくださったのですね」


「無事か? どうしてここに?」


 セリアは静かに頷いた。


「私は綻びを修復するために入ったのです。ユーノス様の命を受けて」


「修復?」


「はい。神域の綻びは、放っておくと広がる一方です。私も力を貸しています」


 彼女の周りには、虹色の光が漂っていた。それは彼女の持つ神の力の現れだろう。


『セリア、あなたも助けに来ていたのね』


「はい、アフロネア様。ユーノス様は現在、神域の中心で均衡の回復に努めていらっしゃいます」


 セリアの説明には、使命感が込められていた。


「しかし、ひとりの力では限界があります。神代さん、お力添えを」


「僕に何ができる?」


「あなたの腕輪と、私の祝福の力を合わせれば、この空間から全員を安全に戻せるはずです」


 その言葉に、遼は頷いた。


「わかった。エリオットたちがあっちで待ってる。一緒に戻ろう」


 三人をセリアのもとに集め、彼女は準備を始めた。彼女の両手から虹色の光が広がり、空間に複雑な模様を描いていく。


「神代さん、あなたの腕輪を」


 遼が腕輪を差し出すと、青い光と虹色の光が交わり、眩しい輝きとなった。


「これで、帰路が開きます」


 セリアの言葉通り、彼らの前に光の門が現れた。その向こうには、キャンプの広場が見えた。


「行くぞ!」


 遼が先頭に立ち、エリオットたちを促す。三人は恐る恐る光の門をくぐり、現実世界へと戻っていった。


「あなたも、セリア」


「はい。でもその前に——」


 彼女は一度立ち止まり、遼をまっすぐ見つめた。


「神代さん、綻びの中で何を見ましたか?」


「え?」


「未来の可能性を。多くの選択肢を」


 セリアの問いには、意図があるようだった。


「ああ。無数の分岐点を見た」


「そうですか。それは……重要な意味を持ちます」


「どういう意味だ?」


 セリアは微笑んだ。


「それは、やがて明らかになるでしょう。今は、そのことを心に留めておいてください」


 彼女の謎めいた言葉に、遼は首を傾げた。だが今は、それを深く考える余裕はない。


「行こう」


 二人は光の門をくぐり、現実世界へと戻った。


 ***


 キャンプの広場に足を踏み入れた瞬間、歓声が上がった。


 「戻ってきた!」

 「無事だ!」

 「神代、よくやった!」


 レオンが駆け寄り、遼の肩を叩いた。


「心配したぞ。皆を連れ戻すなんて、一体どうやった?」


「説明が難しいんだ」


 遼の言葉に、レオンは深く追求せず頷いた。彼は常に友の秘密を尊重する男だった。


「神代さん!」


 フローラが駆け寄り、思わず彼の腕を掴んだ。


「無事で、本当に良かった……」


 彼女の瞳には、安堵の涙が光っていた。


「約束通りだろう?」


 遼が微笑むと、彼女も嬉しそうに頷いた。


 セリアは少し離れた場所から、その様子を穏やかに見守っていた。彼女の周りには、まだかすかな虹色の光が漂っている。


「それより、あの亀裂は?」


 遼が振り返ると、先ほどまであった空間の綻びは小さくなり、ついには完全に閉じていた。


『塞がったわね』


 アフロネアの声が、彼の心に響いた。


「君のおかげか?」


『私とユーノス、そしてセリアの力よ。神域の均衡は、とりあえず回復したわ』


 その言葉には疲労が混じっていたが、同時に達成感もあった。


「疲れてるんだろう? 少し休んだら?」


『そうするわ。少しの間、連絡が取れなくなるかもしれないけど、心配しないで』


「ああ、ゆっくり休んで」


 アフロネアの気配が遠のいていくのを感じた。神域の修復には、相当なエネルギーを使ったのだろう。


 夜が更け、キャンプは再び静けさを取り戻しつつあった。異空間への扉という前代未聞の出来事は、説明のつかない不思議な現象として、生徒たちの間で語られるようになった。


 全員が食堂に集まり、今日の出来事について、それぞれの体験を語り合っていた。エリオットは「不思議な夢の世界」について熱く語り、女子生徒たちは「怖かったけど、美しかった」と振り返る。


 遼は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。彼の心には、綻びの中で見た無数の未来が鮮明に焼き付いていた。


「神代さん」


 セリアが静かに近づいてきた。彼女の表情は、いつもより穏やかに見える。


「セリア、ありがとう。君がいなかったら、全員を助け出せなかった」


「いいえ、あなたこそ勇敢でした」


 彼女は空を見上げた。


「神域の力は、思いのほか複雑です。特に、時間に関わる力は」


「アフロネアが時間を止めたことが、原因だったんだよね?」


「はい。でも、彼女を責めるつもりはありません」


 セリアの声には、理解があった。


「神も時に、感情に揺れることがあります。それが人間に近づく瞬間かもしれません」


 その洞察に、遼は静かに頷いた。


「綻びの中で見た未来について——」


「今は考えすぎないことです」


 セリアは優しく微笑んだ。


「選択の時は、必ず訪れます。その時まで、ただ日々を大切に」


 彼女の言葉には、深い知恵が込められていた。


「ありがとう」


 セリアはそれ以上何も言わず、静かに立ち去った。彼女の後ろ姿には、神の使いとしての威厳と、一人の少女としての儚さが共存していた。


 遼は満天の星空を見上げた。今夜の星々は、昨夜の祭りの時よりも遠く感じられる。神域との距離が、再び正常に戻ったからかもしれない。


 だが、彼の心の中には確かな変化があった。綻びの中で見た無数の可能性、選択の瞬間。そして何より、神と人の境界がいかに曖昧なものかという気づき。


 アフロネアは今、神域で休息を取っているのだろう。彼女の感情の揺れが引き起こした異変は、皮肉にも彼に多くの真実を見せてくれた。


「おやすみ」


 星空に向かって呟いた言葉は、きっと彼女にも届くだろう。


 明日もまた、新しい一日が始まる。神々の領域と人間の世界の境界がゆらぐ中で、彼の物語は続いていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る