第34話:時間停止!? 女神の暴走

 時の流れは川のよう。

 されど神の一息で、凍りつくこともある。


 星祭りから一夜明けた朝は、不思議な余韻に包まれていた。キャンプの空気には祭りの名残が漂い、生徒たちの表情には満足感と疲労が混ざっている。


 神代遼は早朝から起き出し、湖のほとりで腕輪を見つめていた。アフロネアとの再会以来、腕輪の青い光は以前より明るく、温かく感じられる。女神との関係が、何かしら変わったことの証だろうか。


「おはよう、アフロネア」


『ええ、おはよう』


 女神の声には、いつもの高飛車さの下に、微かな親密さが混じっていた。


「昨夜は……ありがとう」


『何の話? 星の光? それとも、私が直接現れたこと?』


「全部だよ。皆も喜んでた」


『ふん、たかが人間の願い事程度、叶えるのは簡単よ』


 強がりながらも、その声には満足感が滲んでいた。


「でも、不思議だな」


『何が?』


「星祭りの夜に、神様が姿を現す伝説があったなんて。まるで予定調和みたいだ」


 アフロネアは少し間を置いて答えた。


『それは……偶然よ。星の移り変わりと神域の共鳴が、たまたま一致しただけ』


 だが彼女の言葉には、何か隠されたものがあるように感じられた。


「本当かな?」


『疑うの? 神の言葉を?』


「神も嘘をつくことがあるんだよね」


『失礼ね!』


 その言い合いには、以前にはなかった親しみが漂っていた。アフロネアの声も、より人間らしく表情豊かに感じられる。


「神代さん、おはようございます」


 振り返ると、フローラが朝露を踏みながら近づいてきていた。彼女の手には、朝摘みの果実が盛られたかごがあった。


「おはよう、フローラ」


「昨夜は素敵な星祭りでしたね」


 彼女の笑顔には、充実感が溢れていた。


『ハンッ、彼女も早起きね』


 アフロネアの声には、微かな不満が混じっていた。遼は思わず苦笑する。


「朝食の準備を手伝おうか?」


「ありがとうございます。実は、祭りの余韻を楽しむイベントを考えていて」


「イベント?」


「はい。昼過ぎに、湖畔でお茶会を開こうと思っています」


 フローラの提案には、星祭りの余韻を少しでも長く味わいたいという気持ちが表れていた。


「いいね。皆も喜ぶだろう」


 彼女の頬が嬉しそうに赤くなる。


「特に神代さんに、私の故郷の伝統茶をご用意したいと思って」


 その言葉には、特別な想いが込められていた。


『ちっ、またデートの誘いね』


「何か言った?」


『何も』


 アフロネアの声には、明らかな嫉妬が混じっていた。


 ***


 昼過ぎ、湖畔は穏やかな賑わいに包まれていた。フローラの提案したお茶会が始まり、生徒たちは思い思いに集まっている。木漏れ日の中、草の上に敷かれた布の上には、彼女が用意した様々な茶葉と軽食が並べられていた。


「森の民の伝統茶は、五感で楽しむものなんです」


 フローラは丁寧に茶葉を湯に浸し、その動作一つ一つが儀式のように美しかった。


「香りを感じて、色を愛で、温かさを手で感じ、そして最後に味わう」


 彼女の説明に、集まった生徒たちは興味深そうに耳を傾けている。


 遼はフローラから差し出された茶碗を受け取った。淡い緑色の液体から立ち上る香りは、森の深奥を思わせる清々しさがあった。


「飲んでみてください」


 彼女の目が期待に輝いている。遼は茶碗を口に運び、一口含んだ。


「!」


 予想外の味わいに、彼は目を見開いた。最初の苦みは瞬く間に甘さへと変わり、口の中に森の記憶が広がるようだった。


「どうですか?」


「驚くほど美味しい。まるで……ひとつの森の物語を飲んでいるような」


 その感想に、フローラは満面の笑みを浮かべた。


『過剰反応よ』


 アフロネアの声には、不満が込められていた。


 湖畔のお茶会は、穏やかな時間の中で進んでいく。レオンとラティアもカップルとして参加し、他の生徒たちも思い思いの場所で寛いでいた。


「神代さん、もう少し歩きませんか?」


 お茶を楽しんだ後、フローラが遼を誘った。


「湖の向こう側に、特別な花が咲いているんです。お茶に入れると、不思議な香りがするんですよ」


 彼女の誘いに、遼は素直に頷いた。


「行こう」


『また二人きり? 昨日もあんなに一緒にいたのに』


 アフロネアの不満は強まるばかりだった。


 ***


 湖畔を歩く二人の姿は、静かな絵画のようだった。水面に映る木々の影と、風に揺れる草の香り。自然の調和が、二人の間にも静かな親密さを育んでいる。


「昨日は、アフロネア様に会えましたね」


 フローラが静かに言った。


「ああ。神様の休暇とやらも、終わりになったみたいだ」


「彼女は……あなたにとって、特別な存在なんですね」


 その洞察には鋭さがあった。遼は少し考えてから答えた。


「そうだね。最初は命令に従うだけだったけど、今は……もっと複雑な関係になってる」


「彼女も、あなたを特別に思っているような気がします」


 フローラの言葉は、驚くほど的確だった。


「どうしてそう思うの?」


「だって、神様が小動物に姿を変えてまで見張るなんて」


 彼女の純粋な分析に、遼は思わず笑みを漏らした。


「それに、私たちが近づくと、嫉妬されてましたよね」


「君は、それを不思議に思わないの?」


「いいえ。誰にでも好きな人がいるのは自然なこと。神様だって」


 フローラの答えには、深い理解と優しさがあった。


「でも、私も負けるつもりはありません」


 その言葉に、遼の胸が高鳴った。


「フローラ……」


 二人の足が止まる。湖畔の柳の下、風が二人の間を優しく吹き抜けていった。


「神代さん、私は……」


 彼女が何かを言おうとした瞬間、世界が凍りついた。


 文字通り、全てが静止したのだ。


 風の音が消え、葉の揺れが止まり、湖面の波紋が固まる。フローラの姿も、言葉を紡ごうとした口元のまま、完全に動きを失っていた。


「なっ……何が?」


 遼は驚きに声を上げた。彼だけが動ける状態で、周囲は完全に時間が停止したようだった。


『ごめんなさい』


 アフロネアの声が、空気の中から響いた。


「アフロネア! これは君の仕業か?」


『そうよ』


 彼女の声には、珍しく後悔の色が混じっていた。


「時間を止めたのか? なぜだ?」


『わからないわ』


 その言葉と共に、彼女の姿が光の粒子となって現れ始めた。白銀の髪、琥珀色の瞳、女神の威厳ある姿。だが今日のアフロネアの表情には、迷いが浮かんでいた。


「どういうことだ? 休暇は終わったと言ったのに、また干渉するなんて」


「私にもわからないの!」


 アフロネアの声は少し高くなり、感情の動揺が伝わってきた。


「あなたたちが……近づいていくのを見ていて、ただ……止めたかった」


「嫉妬?」


「違うわ! 女神が人間に嫉妬なんてしないわ」


 だがその否定は、かえって彼女の感情を露わにした。


「じゃあ何なんだ? 説明してくれ」


 遼の声には、困惑と共に温かさもあった。アフロネアは空を見上げ、言葉を選ぶように間を置いた。


「これが嫉妬なら……神は嫉妬していいのかしら」


 その言葉には、深い葛藤があった。


「アフロネア……」


「私は恋愛の女神よ。人々の恋を見守り、時に導き、時に別れさせる。でも、自分自身が……」


 彼女は言葉を切った。周囲の時間は依然として停止したままで、二人だけの空間が広がっている。


「自分で恋をするなんて、想像したこともなかったの」


「恋?」


 遼の問いかけに、アフロネアは顔を背けた。


「忘れて。神の戯言よ」


 しかし彼女の声には、確かな感情が滲んでいた。


「アフロネア、正直に話してくれ。なぜ時間を止めたんだ?」


 彼女は深く息を吸い、決意を固めたように言った。


「あなたとフローラが近づくのが、耐えられなかったの」


 その告白は、風のない空気の中に強く響いた。


「あの子は優しくて純粋で……私とは正反対。あなたにはきっと、彼女の方が……」


「それは」


「でも!」


 アフロネアは遼の言葉を遮った。


「同時に気づいたの。ただフラグを折る、邪魔をするだけでは……私自身も幸せになれないって」


 彼女の言葉には、神としての成長が込められていた。


「アフロネア……」


「今まで、人間の恋愛を否定してきた。でも、その根底には私自身の恐れがあったのかもしれない」


 女神の告白は、自らの内面への深い洞察を含んでいた。


「恐れ?」


「ええ。恋をすれば傷つく。私は神でありながら、その痛みを恐れていたのかも」


 時間が止まった湖畔で、神と人間の対話が続く。


「だから、傷つく前に恋を止めようとしてきた?」


「そうかもしれないわね」


 アフロネアは柳の幹に触れた。その接点から、微かな波紋が広がったが、すぐに凍りついたように停止する。


「でも、あなたと出会って、少しずつ変わってきたの」


「どう変わったの?」


「焦りを感じるようになった。神なのに、時間の流れに焦りを感じるなんて可笑しいでしょう?」


 彼女の笑みには、自嘲と共に柔らかさがあった。


「アフロネア、時間を戻そう」


 遼の言葉に、彼女は驚いたように目を見開いた。


「戻すの?」


「ああ。こうして時間を止めても、何も解決しないだろう?」


「でも、あなたとフローラは……」


「大丈夫だよ。まだ、何も決まってない」


 遼の言葉には、確かな信頼があった。


「もっと、君自身を信じてみたら?」


 その問いかけに、アフロネアは静かに微笑んだ。


「ええ、そうするわ」


 彼女の指が一度弾かれ、周囲の空気が震えた。まるでガラスの張りが割れるように、時間が流れ始める。


「……私は」


 フローラの言葉が続き、彼女は一瞬戸惑ったように周囲を見回した。わずかな違和感を覚えたのだろう。


「どうかしましたか?」


「いや……何でもない」


 遼は彼女に微笑みかけた。その表情には、複雑な感情が混ざっていた。


「続けてくれ」


 フローラは少し首を傾げたが、すぐに元の話題に戻った。


「私は、神代さんの答えを待っています」


「僕の答え?」


「はい。でも、急かしません。神代さんには、きっといろいろ考えることがあるでしょうから」


 彼女の理解に、遼は感謝の気持ちを抱いた。


「ありがとう、フローラ」


 二人は再び歩き始め、湖畔の道を進んでいく。


 しかし遼の心の中では、アフロネアとの対話が鮮明に残っていた。神の告白、その迷い、そして成長——。世界が一時停止した間に、彼の心にも新たな理解が芽生えていた。


 女神との絆は、単なる命令と服従の関係を超え、互いを認め合う対等な感情へと変わりつつあった。


『遼』


 アフロネアの声が、心の中で囁く。


『私、頑張るわ』


 その言葉には、人間らしい誓いが込められていた。


「僕も、頑張るよ」


 彼の返事は、心の中で女神に届いた。


 湖面には風が戻り、波紋が広がっていた。時間は再び流れ始め、二人の物語も、新たな一ページを迎えようとしていた。

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