第28話:女神様の本音
夜明けの森は、秘密を優しく包み込む。
神代遼は早めに目を覚まし、キャンプの外れに佇んでいた。今日という日が特別な意味を持つことを、彼は予感していた。
「アフロネア、起きてる?」
『ええ、いつでも』
女神の声には、どこか落ち着かない響きがあった。昨日の洞窟での出来事が、彼女にも影響を与えているようだった。
「昨日の心の映像のことだけど……」
『忘れましょう、些細なことよ』
アフロネアの声は普段より高く、慌てたように聞こえた。
「些細じゃないと思うんだ。あの映像は本当に僕の心を映していたのか?」
『当然よ。洞窟の魔法は嘘をつかないわ』
「じゃあ、なぜ君の姿もあそこに?」
その質問に、アフロネアは沈黙した。風がそよぎ、木々が囁くような音を立てる。
『私にはわからないわ』
珍しくも素直な答えに、遼は驚いた。
「君にもわからない?」
『神にもわからないことはあるの。特に……感情に関しては』
女神の言葉には、意外な脆さがあった。全知全能ではなく、迷いを持つ一つの存在としての素直さが。
「アフロネア、君は——」
言葉を続けようとした瞬間、背後から元気な声が飛んできた。
「神代さん、おはようございます!」
振り返ると、フローラが朝の光を浴びて立っていた。彼女の笑顔は清々しく、昨日告げた「決意」を感じさせるものだった。
「おはよう、フローラ」
「朝食の準備ができましたよ。皆さん待ってます」
彼女の明るい声に、遼は頷いた。
「ああ、今行くよ」
『ちょうど良いタイミングね』
アフロネアの声には、安堵のような調子があった。
キャンプに戻る途中、フローラは少し緊張した様子で言った。
「あの、朝食の後、少しお時間いただけますか?」
「もちろん」
遼の答えに、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
***
朝食は昨日見つかった食料と、新たに採れた果実で豊かなものとなった。キャンプの雰囲気も明るく、皆の表情には安堵が見られた。
「神代さん」
食事を終えたところで、セリアが近づいてきた。彼女の周りには微かな虹色の光が漂っているように見える。
「君も何か感じているんだろう?」
セリアの声は小さく、周囲に聞こえないよう配慮されていた。
「何をだい?」
「神域に変化が起きています。昨夜から、私の感覚が……鋭くなっているんです」
遼も同じことを感じていた。腕輪の光が少し強くなり、感覚が研ぎ澄まされたような感覚がある。
「ああ、僕も何か違いを感じている」
「特に……神々の気配が強くなっています」
セリアの洞察は鋭かった。彼女はユーノスの使いとして、神の力に敏感だった。
「何か起きるのかな?」
「わかりません。でも、警戒すべきでしょう」
彼女の忠告には、経験に基づく知恵が感じられた。
「ありがとう、気をつけるよ」
セリアは小さく頷き、立ち去った。その背中からは、彼女自身も何かを感じ取っているような緊張感が伝わってきた。
しばらくして、フローラが遼に近づいてきた。彼女は小さなバスケットを持ち、少し緊張した様子だった。
「行きましょうか?」
「ああ、どこへ?」
「私の特別な場所へ」
彼女の言葉には、秘密を共有する親密さがあった。
二人はキャンプを離れ、森の中へと足を踏み入れた。フローラは慣れた足取りで道なき道を進み、遼はそれに続く。
『デートね。青春ねえ』
アフロネアの声には、茶化すような調子があったが、どこか無理をしているようにも聞こえた。
やがて、木々が開けた小さな空き地に到着した。そこは小さな湖畔で、湿った大気に包まれた静かな場所だった。水面は鏡のように周囲の風景を映し、水辺には色とりどりの花が咲いていた。
「ここが私の隠れ家です」
フローラの声には誇りが込められていた。
「綺麗だな……こんな場所があったなんて」
「はい。この森に来てすぐに見つけたんです。ここでなら植物と話せるような気がして」
彼女はバスケットを広げ、中から食べ物と飲み物を取り出した。
「あの、朝食後だけど……一緒にいかがですか?」
「ありがとう」
二人は湖畔に腰を下ろし、穏やかな風景を前に軽食を楽しんだ。静かな時間が流れる中、フローラは決意を固めたように口を開いた。
「神代さん、昨日、森が私に囁いたことを覚えていますか?」
「ああ、"心の声を聞け"だっけ」
「はい。一晩中考えたんです。私の心は何を言っているのかって」
彼女の表情には、真剣さと共に、穏やかな覚悟のようなものが見えた。
「そして、わかったんです。私の心は……ずっとあなたに伝えたかったんだということを」
フローラの瞳は、澄んだ緑色に輝いていた。
「神代さん、私……あなたのことが好きです」
その言葉は、風に乗って静かに広がっていった。直球の告白に、遼は一瞬言葉を失った。
『来たわね、決断の時よ』
アフロネアの声には、意外にも緊張感があった。
「フローラ……」
「いいえ、まだ続きがあります」
彼女は遼の言葉を優しく遮った。
「私は、自分の気持ちが何度も妙な形で中断されていることに気づいていました。まるで……誰かに邪魔されているかのように」
その洞察に、遼は驚いた。彼女もまた、何かを感じ取っていたのだ。
「そして、昨日の森の囁きで理解したんです。私の気持ちは純粋なもので、中断されても消えはしないということを」
フローラの言葉には、不思議な強さがあった。
「だから今日は、どんな邪魔が入っても、最後まで伝えたいと思いました」
彼女はまっすぐに遼の目を見つめた。
「神代さん、あなたにとって私がどういう存在なのか、ぜひ教えてください」
その質問には、彼女の全てが込められていた。遼は深く息を吸い、答えを探した。
『どうするの?』
アフロネアの声には、珍しく迷いが混じっていた。
「フローラ、君は僕にとって大切な人だ」
遼は誠実に言った。
「君の優しさ、純粋さ、そして何より強さに、僕はいつも感銘を受けている」
彼の言葉に、フローラの頬が赤く染まった。
「ただ……」
風が強まり、湖面が波立ち始める。遼は言葉を続けた。
「正直に言うと、僕の状況は複雑なんだ。君も感じていたように、僕には……使命のようなものがある」
「使命?」
「ああ。それを説明するのは難しいけど、僕は"フラグを折る"役目を任されているんだ」
その告白に、フローラの瞳が大きく開かれた。
「フラグを……折る?」
「人々の恋愛感情が高まった時、それを静めるというか……」
説明を続けようとしたとき、突然空から大粒の雨が降り始めた。
「また雨!?」
遼の驚きの声に、アフロネアが答えた。
『私じゃないわよ! 今度は本当に自然現象!』
彼女の声には、本物の驚きがあった。
「神代さん、あそこに洞窟があります!」
フローラが指さす方向に、小さな岩陰が見えた。二人は急いでそこへ走り、雨宿りをすることにした。
岩陰は思ったより広く、二人が座るには十分なスペースがあった。外では激しい雨が降り続けている。
「まさか雨が降るなんて……」
フローラの残念そうな表情に、遼は慰めるように言った。
「大丈夫、話は続けられる」
「はい……」
彼女は少し間を置いて、再び口を開いた。
「フラグを折るというのは……私の気持ちも?」
その直球の質問に、遼は目を伏せた。
「そうなんだ」
「だから、あの日の雨も、焚き火の火の粉も……」
「ああ、すまない」
遼の謝罪に、フローラは優しく微笑んだ。
「いいえ、むしろ嬉しいです」
「え?」
「だって、私の気持ちがちゃんとあなたに届いていたという証拠ですから」
彼女の前向きさに、遼は驚きを隠せなかった。
「フローラ……」
「でも、神代さん。誰があなたにそんな役目を?」
その質問には、彼女の洞察力と知性が表れていた。
遼は腕輪を見せ、覚悟を決めた。
「アフロネアという女神がいるんだ。彼女が僕に依頼したんだ、フラグを折るように」
その告白に、フローラの目が見開かれた。
「女神……」
『自己紹介されちゃったわね』
アフロネアの声には、諦めの色が混じっていた。
「そして、彼女は今も僕の声が聞こえている」
「まさか……」
フローラの驚きは大きかったが、彼女の目には恐怖よりも好奇心が宿っていた。
「私の気持ちも、彼女に言われて折ったんですか?」
「そうだ」
その答えに、フローラは静かに考え込んだ。
「なぜ、女神様は恋愛を妨げようとするんですか?」
それは本質的な問いだった。遼自身も何度も考えたことがある。
『答えてあげて』
アフロネアの声には、いつもの高飛車さはなく、どこか諦めたような、同時に期待するような複雑な調子があった。
「彼女は恋愛を司る女神なんだ。でも、皮肉なことに彼女自身が……」
「彼女自身が?」
「恋を知らなかった。一万年以上も孤独で、人々の恋愛成就の祈りだけを聞いてきた」
雨の音が強まる中、遼は続けた。
「彼女は言ったんだ。"縁切りも恋愛のうち"だと。でも実際は、自分が知らない恋を見ることが、辛かったのかもしれない」
『……そこまで見透かされているとは』
アフロネアの声には、驚きと恥じらいが混じっていた。
「それは……悲しいですね」
フローラの言葉には、純粋な同情があった。怒りではなく、理解しようとする優しさに満ちていた。
「でも、神代さん。あなた自身はどう思っているんですか?」
「ん?」
「あなたは女神様の命令に従っているだけ? それとも……」
「それとも?」
「あなた自身の気持ちは?」
フローラの問いは核心を突いていた。遼は深く考え、誠実に答えようとした。
「最初は命令に従っていただけだった。でも今は……」
彼は言葉を選びながら続けた。
「今は自分でも分からない部分がある。昨日の洞窟で見た心の映像のように、僕の中には相反する感情が混在しているんだ」
「心の映像?」
遼は昨日の洞窟での出来事を、フローラに説明した。彼の心に映し出された二つの姿——彼女自身とアフロネアの姿について。
説明を聞いて、フローラは静かに微笑んだ。
「そうだったんですね……」
彼女の声には、悲しみよりも理解があった。
「だから神代さん、私はもう無理に答えを求めません」
「フローラ……」
「でも、一つだけお願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「私の気持ちを、完全に折らないでください」
フローラの瞳には、強い意志が宿っていた。
「折れても、また生えてくるかもしれないけれど……それは私自身の選択として、尊重してほしいんです」
その言葉に、遼は深く感動した。彼女の勇気と優しさに。
「約束するよ、フローラ」
彼の答えに、彼女は安堵したように微笑んだ。
『感動的ね』
アフロネアの声には、皮肉ではなく、素直な感嘆が込められていた。
雨はいつしか小降りになり、外では虹が架かり始めていた。二人は洞窟から出て、その美しい光景を眺めた。
「綺麗……」
フローラの声には、純粋な感動があった。
「ああ、本当に」
静かな瞬間の中で、遼は思い切って聞いてみた。
「アフロネア、君もこの虹が見えるのか?」
その問いかけに、女神は少し間を置いてから答えた。
『ええ、見えるわ。美しいものね』
彼女の声には、珍しく素直な感情があった。
「女神様……聞こえますか?」
突然のフローラの声に、遼もアフロネアも驚いた。
『え? 私に話しかけてる?』
「彼女に聞こえるの?」
「いいえ、でも……伝えてほしいんです」
フローラの願いに、遼は頷いた。
「何を伝えればいい?」
「女神様、ありがとうございます」
「ありがとう?」
「はい。あなたのおかげで、神代さんに出会えましたから」
その言葉に、アフロネアの気配が震えた。
『なんて純粋な……』
彼女の声には、感動と共に複雑な感情が混じっていた。
「彼女は言ってる、なんて純粋な子なんだって」
遼の伝言に、フローラは微笑んだ。
「それと、もう一つ」
「なに?」
「神代さんのことを、大切にしてあげてください」
その言葉に、遼は言葉を失った。フローラは他者を思いやる心を持った、本当に特別な存在だった。
『……伝えて。私も彼女に感謝していると』
アフロネアの声には、素直な感情があふれていた。
「アフロネアも君に感謝してるって」
その言葉を聞いて、フローラは満足そうに微笑んだ。
「キャンプに戻りましょうか」
「ああ」
二人が歩き始めると、虹はさらに鮮やかに空を彩っていた。それはまるで、新しい絆の始まりを祝福しているかのようだった。
***
キャンプに戻ると、皆が雨宿りから出てきたところだった。辺りは湿っているが、太陽が再び顔を出し、森全体が生き生きとしていた。
「無事だったか」
レオンが二人を見つけ、安堵の表情を浮かべた。
「ああ、洞窟で雨宿りしてた」
「そうか、良かった」
遼とフローラの間に何かあったことを察したのか、レオンはそれ以上詮索せず、他の作業に戻っていった。
フローラもまた、自分の仕事に戻っていった。去り際、彼女は遼に小さく微笑みかけた。その笑顔には、秘密を共有する親密さがあった。
キャンプの端で、遼は一人水を汲みながら考え込んでいた。今日の出来事は、彼の心に大きな変化をもたらしていた。
「神代さん」
振り返ると、セリアが立っていた。彼女の瞳には、何かを見透かすような鋭さがあった。
「何か変化がありましたね」
彼女の直感は鋭かった。
「ああ、フローラと話したんだ。そして、アフロネアのことも」
「そうですか」
セリアは深く頷いた。
「神々の世界に波紋が広がっています。ユーノス様も……落ち着かない様子です」
「何か起きるのか?」
「わかりません。でも、これまでとは違う何かが始まっているのは確かです」
彼女の言葉には、神の使いとしての鋭い洞察があった。
「気をつけます」
セリアは静かに頷き、立ち去った。彼女の虹色の輪郭が、夕陽の中で一層鮮やかに見えた。
夕食の準備が始まり、キャンプは再び活気づいた。遼は薪を集めながら、アフロネアに問いかけた。
「今日のこと、どう思った?」
長い沈黙の後、彼女は答えた。
『彼女は素晴らしい人間ね。純粋で、優しくて、そして強い』
「ああ、そうだね」
『そして……私は混乱しているわ』
アフロネアの素直な告白に、遼は驚いた。
「混乱?」
『ええ。私はあなたに"フラグを折れ"と命じた。それは単なる気まぐれや実験だと思っていた』
「でも?」
『でも今は……あなたの選択が気になるの。フローラを選ぶのか、それとも……』
彼女の言葉が途切れる。
「それとも?」
『忘れて。神の戯言よ』
彼女の声色は普段に戻ったが、何か隠された感情が感じられた。
「アフロネア、洞窟で見た映像は本当だったんだろう?」
『ええ』
「なら、君も僕も……そろそろ向き合うべきなんじゃないか?」
その問いかけに、女神は再び沈黙した。
『……時が来れば』
短い返事には、多くの感情が込められていた。
夕食後、焚き火を囲んだ仲間たちは、今日の冒険や発見について語り合っていた。遼は少し離れた場所で星空を見上げていた。
今日という日は、多くの真実と新たな疑問をもたらした。フローラの純粋な告白、彼女の強さと優しさ。そしてアフロネアの素直な混乱。全てが複雑に絡み合い、新たな物語の始まりを予感させていた。
星々は静かに瞬き、明日への道を照らしているようだった。神々の世界では何かが変わりつつあるという予感。そして彼自身の心の中でも、何かが確かに動き始めていた。
遼は腕輪を見つめた。その琥珀色の光は、以前よりも温かく、親しみのあるものに感じられた。それは単なる契約の証ではなく、特別な絆の象徴へと変わりつつあったのかもしれない。
「アフロネア」
『なに?』
「僕はこれから、自分自身の選択をしていく」
『ええ、それがあなたの権利よ』
「でも、君との約束も大切にしたい」
その言葉に、アフロネアの気配が温かくなった。
『ありがとう』
女神の声には、珍しく素直な感謝が込められていた。
遼は星空の下で微笑んだ。これからの道は複雑で、多くの選択に満ちているだろう。だが、彼はもうひとりではない。彼の周りには、彼を支え、彼が支える人々がいる。そして、空の向こうには、彼を見守る特別な存在がいた。
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