第9話:成就未遂、そして女神の気まぐれ地獄
夜が明け、新しい朝の光が島を照らし始めた頃、神代遼は静かに目を開けた。昨日の「ギフト地獄」の余韻が肌にまとわりつくような感覚で、どこか恐る恐る新しい一日を迎える心持ちだった。
小屋の窓から差し込む光は穏やかで、暴風雨の後の静けさが辺りを包んでいた。遼は腕輪を確認した。「3」ポイント。前日のアフロネアの気まぐれで大幅に減少したままだ。
「今日は大人しくしてくれるといいんだけど……」
呟きながら着替える遼の耳に、女神の声は響かなかった。いつもならすぐに応答するアフロネアの沈黙が、逆に不安を呼び起こす。まるで嵐の前の静けさのように。
キャンプに向かう道すがら、遼は昨日の混乱について考えていた。あれほどの奇妙な現象が起きたにもかかわらず、生徒たちは驚くほど順応していた。それは絶望的な状況下での人間の適応力なのか、それとも女神の力が影響しているのか——。
キャンプに到着すると、すでに多くの生徒たちが朝の作業に取り掛かっていた。昨日の混乱が嘘のように、皆が普段通りの任務をこなしている。
「神代、おはよう」
レオンが笑顔で近づいてきた。彼の表情には疲れが見えるが、それでも爽やかさを失っていなかった。
「おはよう、レオン。昨日はなんだったんだろうな」
軽く話題に触れると、レオンは少し笑った。
「島の神秘か何かだろうね。皆、案外楽しんでいたよ」
その言葉に、遼は複雑な気持ちになった。アフロネアの気まぐれが、皆に非日常の楽しさを与えていたのは確かだ。しかし、それは女神の独りよがりな「遊び」に過ぎない。
「今日の作業分担を確認しておこう」
レオンと共に今日の予定を確認していると、ラティアが近づいてきた。
「おはよう、レオン先輩……そして神代」
彼女の声には、いつもの高飛車さが薄れていた。昨日の「告白タイム」の影響だろうか、レオンを見る目には明らかな憧れが浮かんでいる。
「ラティア、おはよう。今日の医療テント担当だったね」
レオンの自然な対応に、ラティアは少し安心したように頷いた。
「ええ、フローラと一緒に薬草の整理をするわ」
その名前を聞いた瞬間、遼はハッとした。フローラ——昨日の混乱で彼女とはほとんど関わっていなかった。彼女は昨日の出来事をどう受け止めているのだろうか。
作業の打ち合わせを終え、レオンとラティアが去った後、遼は静かに溜息をついた。腕輪のポイントが少ないこと、アフロネアの沈黙、そして昨日の混乱の後始末——思案すべきことは多かった。
朝の光が強くなる中、遼は水場に向かった。そこには数人の生徒たちが水を汲んでいた。その中に、フローラの姿も見える。彼女は大きなバケツに水を満たし、丁寧に運ぼうとしていた。
「手伝おうか?」
遼が声をかけると、フローラはハッとして振り返った。彼女の緑の瞳が一瞬輝き、その後やわらかな微笑みに変わる。
「あ、神代さん。おはようございます」
彼女の明るい声には、昨日の混乱を感じさせない清々しさがあった。
「おはよう、フローラ。重そうだから手伝うよ」
遼がバケツを受け取ると、フローラは感謝の微笑みを返した。二人並んでキャンプに向かう間、腕輪が微かに震える。「フラグ検知」の表示が浮かび上がる。
『おはよう、眠れたかしら?』
突然、アフロネアの声が頭の中に響いた。遼は内心で呻いたが、表情に出さないように努めた。
「――それで、昨日のことはみんな不思議がってるけど、私はとても楽しかったです」
フローラは昨日の出来事について語っていた。彼女の純粋な眼差しには、驚きと喜びが混ざり合っている。
「楽しかったのか?」
「はい! 魔法のようでした。あのドレスも、お花の冠も……まるで夢の中みたいで」
フローラの無邪気な笑顔に、遼は思わず見とれてしまった。彼女のような存在が、この孤島に希望の光をもたらしているのは確かだった。
『フラグが強化されてるわね。彼女の好意は折っても折っても芽生えるのね』
アフロネアの声が甘く響く。
「神代さんは……昨日のこと、どう思いましたか?」
フローラの質問に、遼は少し考えてから答えた。
「不思議だったよ。でも、皆が楽しそうだったのはいいことだと思う」
その言葉に、フローラは嬉しそうに頷いた。
「神代さんはいつも皆のことを考えてますね。それが、素敵です……」
彼女の言葉の最後は小さくなり、頬が赤く染まった。腕輪が再び震え、「フラグ強化」の表示。
『あらあら、これは明確な好意の表明ね』
アフロネアの声には、どこか期待と興奮が混じっていた。
キャンプに戻り、水を配った後、フローラは少し躊躇するように遼の袖を引いた。
「あの、神代さん……今日の午後、少し時間ありますか?」
その問いかけに、遼の心臓が早鐘を打つ。明らかな「デートの誘い」だった。
「え、ああ……特に予定はないけど」
「よかった。もし良ければ、島の北側で見つけた素敵な場所があるんです。そこをお見せしたくて……」
フローラの目には純粋な期待が輝いていた。それを断る理由は見当たらない——もし普通の状況なら。
『これは明確なフラグね。どうする? 折る? それとも受け入れる?』
アフロネアの声が遼の選択を急かした。
「わかった。午後、一緒に行こう」
遼の返事に、フローラの表情が一層明るくなった。
「約束ですよ。では、医療テントで作業がありますので!」
彼女は小さく手を振り、駆けていった。その後ろ姿を見送りながら、遼は複雑な思いに浸った。
『受け入れたのね。ポイントが減るわよ?』
アフロネアの声には不思議な調子が混じっていた。期待なのか、失望なのか、判然としない感情だ。
「今は折るべきタイミングじゃないと思った」
『そう。まあ、あなたの判断ね』
その後、遼は一日の作業をこなしながらも、午後の「デート」について考え続けた。フローラの好意は明らかだ。彼女の純粋さを考えれば、きっと告白に発展するだろう。
そして、その時に選択を迫られる——受け入れるか、それとも折るか。
ポイントは「3」しかない。これ以上減れば、ギフトはほとんど使えなくなる。かといって、フローラのような純粋な気持ちを傷つけることに、遼の心は抵抗を覚えた。
昼食時、レオンは遼の様子に気づいたようだった。
「何か悩んでることがあるのか?」
その問いかけに、遼は首を振った。
「いや、ちょっと考え事で」
「フローラと午後に会うんだって?」
レオンの言葉に、遼は驚いて顔を上げた。
「どうして知ってるんだ?」
「彼女が嬉しそうに話してたよ。楽しみにしているみたいだ」
レオンの口調には、からかいも非難もなく、純粋な友としての関心だけがあった。
「ああ、北側に何か見せたいものがあるらしい」
「そうか。彼女は皆から愛されてるよな。その優しさと純粋さで」
レオンの言葉に、遼は黙って頷いた。確かに、フローラのような存在は、この過酷な環境の中で貴重だった。
『彼の言う通りよ。フローラは特別な存在。だからこそ、彼女のフラグは価値がある』
アフロネアの声が静かに響いた。
午後になり、遼はキャンプの外れでフローラを待っていた。彼女は約束通り現れ、手に小さな花籠を持っていた。
「お待たせしました! 行きましょう」
フローラの明るい声に、遼も自然と笑顔になった。二人は並んで森の中へと入っていった。
北へ向かう小道は、樹々の間を縫うように続いていた。フローラは時折立ち止まっては、珍しい花や植物を指差し、その特徴や用途を説明してくれる。彼女の博識ぶりと熱意は、まるで自然と一体化したような印象だった。
「島での生活、辛くないですか?」
不意にフローラが尋ねた。遼は少し考えてから答えた。
「確かに最初は不安だったよ。でも、皆が協力し合っているから、なんとかやれてる」
「神代さんがいてくれて、みんな心強いみたいです。特にレオン先輩は、神代さんのことを本当に信頼してますよ」
その言葉に、遼は複雑な気持ちになった。彼の存在が皆の支えになっているという事実が、嬉しくもあり、重荷にも感じられた。
しばらく歩いていると、木々が開け、小さな丘の上に出た。そこからは島の北側全体が見渡せ、青い海が地平線まで広がっていた。
「ここです! 見つけたんです、この場所」
フローラの声には誇らしさが滲んでいた。確かに、その景色は息を呑むほど美しかった。
二人は丘の上に腰を下ろし、しばらく景色を眺めていた。遠くには鳥が飛び、波の音が微かに聞こえてくる。
「神代さん……」
フローラが静かに遼の名前を呼んだ。その声には、いつもとは違う真剣さがあった。
「なに?」
遼が振り向くと、フローラの緑の瞳がまっすぐに彼を見つめていた。
「私……神代さんのことが、好きです」
素直な告白の言葉が、丘の上の空気を震わせた。
腕輪が大きく震え、「フラグ確立」の表示が明滅する。
『さあ、どうする?』
アフロネアの声が囁く。
フローラの頬は赤く染まっていたが、目は真っ直ぐに遼を見つめていた。彼女の勇気と純粋さは、まさに称賛に値するものだった。
「フローラ、俺は……」
言葉に詰まる遼。このまま受け入れれば、彼女を幸せにできるだろうか。そして、女神の使命は?
遼の心の中で葛藤が激しく渦巻いていた。
『選択の時よ』
アフロネアの声に、遼は決断した。
「ごめん、俺は……」
謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、腕輪が強く震えた。遼は咄嗟に腕輪を見た。ディスプレイには「ギフト選択」のオプションが表示されている。
「弱いわね。自分で折れないの?」
アフロネアの声には、わずかな失望が混じっていた。
遼は腕輪を見つめ、選択肢を確認した。「場の雰囲気破壊:3ポイント」。ちょうど残りポイントに匹敵する。
遼は一瞬迷った後、ギフトを選択した。腕輪のポイントが「0」になると同時に、突如として周囲の空気が変わった。
まず、空からピンク色の泡が降り始めた。小さな、石鹸のような泡が二人の周りに舞い落ちる。
「え? これは……」
フローラが困惑した表情で空を見上げた。その泡は触れると「ポン」と小さな音を立てて弾ける。弾けた泡からは、なぜか様々な動物の鳴き声が流れ出た。
「にゃー」「わんわん」「ぶひぶひ」
二人の周りで、架空の動物たちの声が響き渡る。
そして次に、丘の下から奇妙な音楽が聞こえ始めた。それは不協和音に満ちた、どこか滑稽な行進曲。木々の間から現れたのは、なんと動物たちの幻影の行進だった。カラフルなサルやキリン、ゾウ、さらには架空の生き物たちまでが、一列になって丘の周りを行進している。
「な、何が起きてるの?」
フローラは驚きのあまり、告白の続きを忘れたようだった。彼女の目は動物たちの奇妙な行進に釘付けになっている。
それだけでは終わらなかった。突然、丘の真ん中から巨大なケーキの幻影が湧き上がった。それは何層にも重なる虹色のケーキで、上には「おめでとう!」という文字が踊っている。
「これは……誕生日?」
フローラは混乱しきった表情で遼を見た。ケーキの上では、小さな妖精のような生き物たちが踊り狂っている。
「さあ、パーティーの始まりだー!」
妖精たちの声が、甲高く響き渡る。
この突拍子もない状況に、告白の雰囲気は完全に崩壊していた。フローラは混乱しながらも、次第に笑い始めた。
「神代さん、これはあなたの仕業?」
「いや、俺も……」
遼が答えようとした瞬間、空から巨大な紙吹雪が降り始めた。それは普通の紙ではなく、触れると「バシャっ」と水に変わる奇妙な紙吹雪。二人はみるみる内に濡れていく。
「きゃっ! 冷たい!」
フローラが身を縮めながらも、くすくすと笑い始めた。
『これで十分でしょ?』
アフロネアの声が、満足気に響く。確かに、告白の雰囲気はすっかり壊れてしまっていた。
「フローラ、キャンプに戻ろう。濡れたままじゃ風邪をひく」
遼はそう言って立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。フローラは頷き、その手を取った。
二人は濡れネズミになりながらも、奇妙な出来事に笑いながらキャンプへと戻っていった。泡や紙吹雪、そして動物の行進は、キャンプが見えなくなるまで彼らを追いかけてきた。
キャンプに到着すると、二人の姿——ずぶ濡れで色とりどりの泡や紙吹雪がついた姿——に、皆が驚いた顔を向けた。
「また何か起きたのか?」
レオンが駆け寄ってくる。
「北の丘で……奇妙な現象が」
遼の説明に、レオンは不思議そうに首を傾げたが、すぐに笑い出した。
「この島は本当に神秘的だな。毎日何かが起きる」
フローラも小さく笑いながら、医療テントへと向かった。遼は自分の小屋へと戻る道すがら、腕輪を見つめた。「0」ポイント——これでギフトは使えなくなった。
『ポイントを使い切ったわね』
アフロネアの声が静かに響く。
「他に選択肢がなかった」
『あったわよ。自分の言葉で彼女を拒絶する勇気』
アフロネアの言葉は鋭く突き刺さった。確かに遼は逃げたのだ。自分の言葉でフラグを折る責任から。
「そうだね……俺は弱かった」
『まあいいわ。でも、ポイントがなくなったことで、あなたの生活もこれからは苦しくなるわね』
アフロネアの声には、どこか期待するような響きがあった。
「これからどうなるんだ?」
『さあ? 私もちょっと考え中なの』
その返答には、何か企んでいるような調子が感じられた。
夕方、キャンプで皆が集まる頃、遼は静かに考え事をしていた。フローラとの出来事、ポイントの枯渇、そしてこれからの生活——多くの不安が頭を巡る。
フローラは普段通り振る舞っているようだった。告白の結果より、不思議な現象に心を奪われていたようだ。それは幸いだったが、遼の胸には後悔が残っていた。
その夜、遼は深い眠りにつけなかった。星空を見上げながら、今後の行動を模索していた。ポイントがなければギフトはない。生活が厳しくなるのは間違いない。
そして何より、フローラの真摯な気持ちに正面から向き合えなかった自分の弱さが胸に重くのしかかっていた。
「ねえ、アフロネア」
遼は静かに呼びかけた。
『なあに?』
「フラグを折る仕事……本当に正しいことなのかな」
その問いかけに、アフロネアは少し沈黙した後、答えた。
『それはあなた自身が見つけるべき答えよ。私は神として見守るだけ……あ、違った。私は神だから、あなたをからかって楽しむだけよ!』
最後の言葉には、子供のような無邪気さが込められていた。
不意に、小屋の天井から何かが落ちてきた。それは小さな光の粒子で、集まってハート型になると、ポンと弾けて遼の顔に何かが降りかかった。
「な、なにこれ?」
手に取ってみると、それは小さなキャンディだった。「補給ポイント」と書かれている。
『明日からの楽しみのために、少しだけプレゼントしておくわ。明日は新しいゲームを考えておくからね』
アフロネアの声には、どこか危険な期待感が滲んでいた。キャンディを見つめる遼の表情には、安堵と恐怖が入り混じっていた。
この女神の「気まぐれ」は、まだまだ続くようだ——。
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