第10話:普通じゃない朝
朝日が穏やかに昇り、海風がさざ波を立てる中、神代遼はゆっくりと目を開けた。ところが、視界に飛び込んできたのは見慣れた小屋の天井ではなく、無機質な岩の表面だった。
「どうしてここで……」
ぼんやりと呟きながら体を起こすと、彼の背中は一晩中外で過ごした痕跡を残す痛みで抗議した。思い出す。そうだ、昨日のアフロネアの気まぐれによる暴走で、いつもの寝床は浜辺の彼方へと流されてしまったのだ。
遼は左腕の《フラグブレイク・ギフト》を確認した。数字の「3」がディスプレイに青く浮かぶ。昨日、ポイントを使い切った後、女神が「補給」としてくれた僅かなポイントだ。
「ああ、頭が痛い……」
遼は溜息をつき、岩場から降りた。朝露に濡れた砂を踏みながら、キャンプへの道を歩き始める。昨日の出来事——フローラの告白と、それを阻止するためにアフロネアのギフトを使った騒動——の記憶が鮮明に蘇ってきた。
『おはよ、良く眠れた?』
女神の声が突然頭の中に響き、遼は思わず足を止めた。
「あんな騒ぎのあとで、眠れるわけないだろう」
『あら、そう? 私はとっても良く眠れたわよ。久しぶりに楽しかったから』
アフロネアの声は子供のような無邪気さで満ちていた。しかし、それが遼にとっては最大の恐怖だった。女神の「楽しい」は、常に誰かの犠牲の上に成り立っている。
キャンプに近づくと、いつもとは違う活気が感じられた。レオンの指示で、生徒たちが何かの準備を進めている様子。炊事担当のグループは大きな鍋を囲み、調理班は野菜や魚を切り分け、何人かは木の枝や葉を集めて飾りを作っているようだ。
「何をしてるんだ?」
遼がレオンに尋ねると、彼は少し驚いた表情を見せた。
「ああ、神代。知らないのか? 明日は『恋の実り祭り』だ」
「何だそれは?」
「この島で見つけた果実を使った季節の祭りさ。ラティアが提案したんだ」
遼は思わず目を見開いた。昨日の女神の暴走の記憶が、生徒たちの間で「祭り」という形に置き換わっているようだった。アフロネアの記憶操作か、それとも彼らの心が現実を受け入れやすい形に変換したのか。
『うふふ、面白いでしょう? みんなの記憶を少し調整しておいたの。あの混乱は忘れて、これから始まる楽しい祭りの準備をしてもらってるわ』
女神の声に、遼は内心で呻いた。
「神代、どうした?」
レオンの声に我に返り、遼は首を振った。
「ああ、何でもない。それで、どんな祭りになるんだ?」
「果実を使った料理や飲み物を作って、皆で楽しむんだ。それから、伝統的な踊りや歌もあるらしい」
「伝統的?」
「そう、ラティアによれば島の古い言い伝えで——」
遼は唖然とした。明らかにアフロネアが創り出した「伝統」を、レオンは疑問なく受け入れている。それだけではない。キャンプを見渡せば、誰もが自然な表情で祭りの準備に勤しんでいた。
『フラグの嵐になりそうね!』
アフロネアの声が弾んだ。確かに祭りという状況は、恋愛フラグが立ちやすい。音楽、踊り、特別な料理——非日常的な環境が心を開放させるのだ。
遼がため息をついていると、近くでラティアとフローラが料理の打ち合わせをしているのが見えた。二人とも真剣な表情で会話している。
「神代さん、おはようございます」
フローラの声に振り返ると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。昨日の告白の痕跡は、その表情からは読み取れない。
「おはよう、フローラ。祭りの準備か?」
「はい。私は島で見つけた薬草を使った特別なお茶を担当することになりました」
その言葉に、遼の腕輪が微かに震えた。「フラグ検知」の信号だ。
『あら、まだフラグが残ってるじゃない』
アフロネアの声が、からかうように響く。
「神代、あなたも手伝いなさい」
ラティアの命令口調に、遼は苦笑した。彼女はいつもの高飛車な態度に戻っていた。
「わかった。何をすればいい?」
「飾り付けのグループに加わって」
指差された方向を見ると、数人の生徒たちが木の枝や葉、貝殻などを使って飾りを作っている。遼は頷き、そちらへと向かった。
「神代さん、特別なお茶を作ったら、ぜひ飲んでください」
背後からフローラの声が聞こえ、遼の腕輪が再び震えた。これはまずい。祭りでさらにフラグが強化される恐れがある。
一日中、キャンプは祭りの準備で活気づいていた。遼も飾り付けを手伝い、木の枝を編んでアーチを作ったり、場所の配置を決めたりした。しかし彼の心は常に、明日訪れるであろう「フラグの嵐」への不安で一杯だった。
昼食時、レオンが遼の隣に座った。
「神代、昨日はどうしたんだ? 夜になっても戻ってこなかったが」
その質問に、遼は一瞬固まった。レオンの記憶も操作されているはずだが、それでも何か感じているのだろうか。
「ああ、浜辺で少し考え事をしていたら、気づいたら寝てしまってた」
「そうか。気をつけろよ、外で寝ると体調を崩すぞ」
遼はレオンの優しさに心の中で謝罪した。彼にも、そして他の生徒たちにも、真実は話せない。アフロネアの存在と、自分が「使い」であることは、彼らの日常を脅かすだけだ。
午後になると、フローラとラティアは試作の飲み物を持ってきた。
「神代さん、これを試してみてください」
フローラが差し出した緑色の液体には、爽やかな香りが漂っていた。
「ラティアさんと一緒に作ったんです。島で見つけた特別な果実と薬草のブレンドです」
遼は少し躊躇ったが、断る理由もなく受け取った。一口飲むと、予想外の美味しさに驚く。爽やかな甘さと、どこか心が落ち着くような香りが絶妙だった。
「美味しい」
素直な感想を言うと、フローラの表情が明るくなった。腕輪が震えるが、遼はそれを無視した。
「良かった。明日はもっと大量に作るつもりです」
フローラが去った後、レオンもラティアから別の飲み物を勧められていた。オレンジ色の液体を飲み干したレオンの頬が少し赤くなる。
「これは……なんだか体が温かくなるな」
「特別な果実のエキスを入れたんです。明日の祭りの主役になる飲み物よ」
ラティアの説明に、レオンは興味深そうに頷いていた。二人の間にも何かフラグが立ち始めているようだ。
祭りの準備が続く中、遼はふと視線を感じて振り返った。キャンプの端、海を見渡せる小さな丘の上に、見慣れない光の粒子が漂っているように見えた。しかし、目を凝らしても何も確認できない。
夕方になり、遼は一人浜辺に立っていた。夕日が海面を赤く染め、波の音だけが静かに続く。
「明日、どうなるんだろう……」
心配を口にした瞬間、遼の背後で砂を踏む音がした。振り返ると、カルナ先生が立っていた。黒髪のロングヘア、知的な雰囲気を漂わせる眼鏡、そして穏やかな微笑み——教師としての威厳と優しさを兼ね備えた彼女の存在は、常に生徒たちに安心感を与えていた。
「神代君、何を考えてるの?」
「先生……明日の祭りのことです」
カルナ先生は静かに遼の隣に立ち、同じく夕日を見つめた。
「祭りは楽しいものよ。でも、あなたは何か心配事があるようね」
その洞察力に、遼は沈黙した。カルナ先生は島に来てから、常に生徒たちの心の支えになってきた。しかし、彼女にさえ、アフロネアとの関係は話せない。
「私には話せないこともあるでしょう。でも覚えておいて、神代君。あなたは一人じゃない」
その言葉に、遼は少し驚いた。カルナ先生は何か感じているのだろうか。
「ありがとうございます」
二人は静かに夕日が沈むのを見つめた。やがて、カルナ先生は優しく微笑んで去っていった。
遼は再び一人、暗くなりつつある浜辺に立った。明日の祭りに向けて、彼の心は不安と緊張で満ちていた。
遠くのキャンプからは笑い声や準備の音が聞こえる。今夜も、小屋の修理ができていないため、遼は岩場で眠ることになるだろう。
彼が浜辺を歩き始めたその時、海岸線の向こうに、再び奇妙な光の粒子が漂っているように見えた。今度は前より多く、青く輝いている。
「あれは……」
『あら、気づいたの? まあ、気にしないで。明日の準備よ』
アフロネアの声が軽く響いたが、それ以上の説明はなかった。
遼は不安を胸に、夜の浜辺を歩き続けた。明日の「恋の実り祭り」——それは単なる女神の気まぐれか、それとも何か別の意図があるのか。答えは明日、明らかになるのだろう。
海の向こうに沈んだ太陽が残した最後の光が消える頃、青い光の粒子も静かに消えていった。しかし、それが何かの前触れであることを、遼は薄々感じていた。
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