第8話:女神の気まぐれギフト地獄

 夜明け前の霧が島を包み込む頃、神代遼は不吉な予感に目を覚ました。

 それは夢の残滓か、それとも女神の囁きか——判然としない不安が胸の内を掻き乱す。窓の外には灰色の世界が広がり、まだ眠りの中にあるキャンプの静寂が、嵐の前の穏やかさのように感じられた。


 遼は起き上がり、腕輪のディスプレイを確認した。「9」ポイントのままだ。昨日、アフロネアが「退屈」を口にしてから、その言葉が頭から離れなかった。


『おはよう、私の使い魔さん』


 甘い声が頭の中に響く。いつもとは少し違う、どこか危うい甘さを帯びていた。


「……おはよう」


 遼の返事は警戒心に満ちたものだった。アフロネアは小さく笑った。


『今日はとっても特別な一日になるわよ』


「何を企んでる?」


『企むなんて、失礼ね。ただ、もう少し島の生活を面白くしたいだけよ』


 その言葉に含まれる予兆に、遼は眉間にしわを寄せた。


「頼むから、皆を巻き込まないでくれ」


『心配しないで。誰も傷つかないわ。ただ、少し……波乱が起きるだけ』


 アフロネアの声が消えると同時に、遼の腕輪が輝き始めた。


「え?」


 画面には「女神の気まぐれギフト:自動発動」という文字が浮かび上がる。ポイントの表示が「9」から「5」に減少した。


「勝手にポイントを使うな!」


 抗議の声も空しく、小屋の床が突然揺れ始めた。いや、揺れているのではない——浮いているのだ。


 木造の小さな小屋全体が、ゆっくりと地面から持ち上がっていく。


「な、何が起きてる!?」


『最初のギフトは「空飛ぶ家」よ! 童話みたいで素敵でしょ?』


 アフロネアの声が弾むように響く中、遼の住まいは着実に高度を上げていった。窓から外を覗くと、すでに木々の梢を超え、キャンプ全体が見渡せるほどの高さに達していた。


「これじゃ降りられないじゃないか!」


『そのうち降りるわよ。でも、その前に一周遊覧飛行はどう?』


 小屋はまるで意志を持つかのように、ゆっくりとキャンプ上空を周回し始めた。朝日が昇り、生徒たちが次々とテントから顔を出す様子が見える。そして、空飛ぶ小屋に気づいた者たちから驚きの声が上がり始めた。


「あれは何だ?」

「空飛んでる!?」

「誰かが中にいる!」


 混乱の声が遠くから聞こえてくる。


『ほら、朝から賑やかになってきたわね』


 アフロネアの声には明らかな楽しさが含まれていた。


 小屋が再びキャンプ上空に差し掛かった時、遼は窓から顔を出し、叫んだ。


「大丈夫だ! 心配するな!」


 その声に、下にいた生徒たちは一層混乱した様子だった。レオンが前に出て、手を振っている。


「神代!? どうなってるんだ?」


 説明のしようがなかった。遼は苦笑いを浮かべながら手を振り返す。


 すると突然、小屋が急降下し始めた。


「うわっ!」


 遼は壁にしがみついた。床が傾き、家具が滑り始める。


『着陸準備よ!』


 アフロネアの声が楽しげに響く中、小屋はキャンプの中央部分——皆が集まる広場めがけて降下していった。


 ドスンという衝撃と共に、小屋は地面に着地した。木材のきしむ音が響き、埃が舞い上がる。しかし、驚くべきことに建物自体に大きな損傷はなかった。


 よろよろと外に出る遼を、呆然とした表情の生徒たちと教師たちが取り囲んだ。


「神代、一体これは……?」


 教師の一人が戸惑いながら尋ねた。


「それが……説明が難しいんだ」


 遼が言葉を探している間に、人々の視線がさらに驚きに変わった。彼らは遼の頭上を見上げていた。


 振り返ると、小屋は再び浮かび上がり、キャンプの外れに向かって飛んでいった。


『別の場所に再配置しておいたわ。邪魔になるでしょ?』


 アフロネアの声が楽しげに響く。


「神代、何が起きてるんだ?」


 レオンが近づいてきた。その表情には純粋な困惑が浮かんでいた。


「それが……」


 説明の言葉を探していると、今度は別の騒ぎが起きた。


「きゃあっ!」


 女子生徒たちの悲鳴が響く。振り返ると、彼女たちの服装が次々と変化していた。普段の制服からまるで舞踏会のようなドレスやコスチュームに、一瞬で着替えられてしまったのだ。


『次のギフトは「夢のドレスアップ」よ! 可愛いでしょ?』


 アフロネアの声が弾む。遼は絶望的な気分で溜息をついた。


 ラティアは豪華な青いドレスに身を包み、フローラは森の妖精のような緑のコスチュームに変わっていた。彼女たちは混乱し、恥ずかしさに顔を赤らめている。


 そして男子生徒たちも例外ではなかった。騎士風の正装や王子様のような衣装に変わっている者もいれば、奇妙な動物の着ぐるみに変わってしまった者もいた。


 レオンは完璧な白馬の騎士の衣装に身を包み、その姿は本物の王子のようだった。


「なぜこんなことに……」


 レオンは困惑しながらも、不思議と衣装に似合っていた。女子生徒たちの視線が集まり、小さな悲鳴と共に歓声が上がる。


 遼自身の服も変わっていた。見下ろすと、黒と赤の異様な衣装——まるで悪役の魔法使いのようなコスチュームだった。


『あなたは「恋の破壊者」だから、それがお似合いよ』


 アフロネアの声が楽しげに響く。


「もう勘弁してくれ……」


 しかし、混乱はまだ始まったばかりだった。


 空から何かが降ってくる光景に、皆が顔を上げた。それは様々な物体だった。巨大なぬいぐるみ、カラフルな風船の束、花束、そして——


「あれは……像?」


 レオンの言葉通り、空から巨大な像が降りてきた。地面に着地すると、それは少女が両手を広げたポーズの像だと分かった。


 その台座には「永遠の愛を」という文字が刻まれている。


『「愛の告白像」よ! 素敵でしょ?』


 アフロネアの声が弾んだ。


 キャンプはまさに混乱の渦に包まれていた。空から降ってくる奇妙な物体、勝手に変わる衣装、そして説明できない現象の数々。生徒たちは驚き、戸惑い、中には恐怖に震える者もいた。


 教師たちは必死に秩序を取り戻そうとするが、次々と起こる不可解な出来事に手も足も出ない状態だった。


「皆さん、落ち着いてください!」


 教師の一人が叫んだ瞬間、彼の服も魔法使いのローブに変化し、手には大きな杖が現れた。彼自身が一番驚いていた。


 その光景に、生徒たちからは笑い声が漏れ始めた。恐怖と混乱の中にも、状況のあまりの突飛さに、緊張が笑いに変わり始めていた。


 遼はこの混乱を収拾すべく、レオンと共に動き始めた。


「とにかく皆を集めよう。一か所にまとめた方が安全だ」


 レオンは頷き、二人は生徒たちを誘導し始めた。しかし、その作業も簡単ではなかった。次々と起こる「ギフト」の影響で、予測不能な事態が続いた。


『次は「ダンスタイム」よ!』


 アフロネアの声と共に、空から見えない音楽が流れ始めた。華やかなワルツのメロディだ。それと同時に、生徒たちの体が勝手に動き始める。


「え? 体が……」


 ラティアが驚いた声を上げた。彼女の体は優雅なダンスのステップを踏み始めていた。他の生徒たちも同様だ。まるで操り人形のように、全員が音楽に合わせて踊り始めた。


 遼も例外ではなかった。体が勝手に動き、レオンに向かって深々と一礼し、手を差し伸べた。


「何が起きて……」


 レオンの言葉も途切れ、彼もまた遼に向かって礼をし、手を取った。二人は完璧な組み合わせでワルツを踊り始めた。


 周囲では他の生徒たちもペアになって踊っていた。ラティアはフローラとペアになり、他の生徒たちも男女関係なく組み合わされていた。


『踊りなさい、踊りなさい! 恋の舞踏会よ!』


 アフロネアの声が弾む。遼は内心で呻いたが、体は彼の意思とは関係なく動き続けた。


 レオンと踊りながら、遼はこの状況の滑稽さに苦笑せざるを得なかった。レオンも同様だったようで、二人の目が合うと、思わず吹き出した。


「君の仕業か?」


 レオンが小声で尋ねた。


「まさか。俺だって被害者だよ」


 遼の誠実な返事に、レオンは少し安心したように笑った。


「でも、悪くない気分だな。こんな非現実的な状況も、たまには良いかもしれない」


 その言葉に、遼は驚いた。そして、周囲を見回すと、確かに恐怖や混乱だけではなく、笑い声や歓声も聞こえてきた。生徒たちの中には、この突拍子もない状況を楽しみ始めている者もいたのだ。


 音楽が止み、ダンスの魔法が解けた後も、その雰囲気は続いた。生徒たちは次第に恐怖よりも好奇心に駆られ、奇妙な現象を受け入れ始めていた。


『ほらね、皆、楽しそうじゃない?』


 アフロネアの声が満足げに響いた。


「それでも、行き過ぎだよ」


 遼は小声で返した。


『まだまだよ! 次は「料理祭り」!』


 空から様々な食べ物が降ってきた。豪華なケーキ、フルーツの盛り合わせ、おいしそうな料理の数々が次々と出現する。


 ポイントが「3」まで減少していた。


「勝手にポイントを使わないでくれ!」


『気にしない気にしない。こうやって使うのも楽しいのよ』


 アフロネアの声は楽しげに響くが、遼には歯がゆさしかなかった。しかし、食料に困っていた生徒たちにとって、突然の「料理祭り」は天の恵みだった。


 不思議な現象の原因は分からないまま、生徒たちは降ってきた食事を楽しみ始めた。フローラは花の冠をつけたまま、ケーキを切り分け、ラティアは豪華なドレス姿で紅茶を注いでいた。彼女たちの表情には、混乱の中にも確かな喜びが浮かんでいた。


 レオンは遼の隣に座り、焼き立てのパンを手に取った。


「なんだか、お祭りみたいだな」


「そうだね」


 遼も渋々ながら、状況を受け入れ始めていた。


 しかし、食事が一段落すると、新たな混乱が訪れた。


『次は「告白タイム」!』


 アフロネアの声と共に、生徒たちの中から数人が突然立ち上がり、目の前の相手に熱烈な愛の告白を始めた。本人たちも驚いた表情で、自分の口から出る言葉を制御できないようだった。


「わ、私、あなたのことをずっと……」

「君は太陽のような存在で、僕の心を照らしてくれる……」


 様々な告白の言葉が飛び交う中、キャンプはさらなる混乱に包まれた。


 その中でも特に目を引いたのは、ラティアだった。彼女は突然、レオンの前に立ち、強い口調で告白を始めた。


「レオン先輩! 私、あなたのことを尊敬しています! いえ、それ以上の気持ちです!」


 ラティア自身が一番驚いたようで、顔を真っ赤にしながらも、言葉は止まらない。


『フラグの嵐ね!』


 アフロネアの声が弾んだ。


 遼の腕輪は激しく震え、「フラグ検知:多数」という表示が点滅していた。


「いい加減にしてくれ!」


 遼は小声で抗議したが、アフロネアは気にする様子もなかった。


『さあ、あなたの番よ!』


「え?」


 突然、遼の体が勝手に動き始めた。彼は立ち上がり、皆の前に進み出ると、大きな声で話し始めた。


「皆さん、実は私には秘密があります!」


 遼は必死に口を閉じようとしたが、言葉は勝手に続いた。


「私は実は——」


 その瞬間、遼の意志の力が勝ったのか、言葉は途切れた。アフロネアも困惑したように声を上げる。


『あら? 抵抗できるなんて……』


 遼は歯を食いしばり、何とか自分の意志を取り戻した。


「もう、やめにしてくれ」


 強い意志を込めた言葉に、アフロネアは少し驚いたように沈黙した。


 そして突然、全ての奇妙な現象が止まった。衣装は元に戻り、空から降ってくるものもなくなった。


 キャンプには不思議な静けさが戻った。生徒たちは互いを見つめ、何が起きたのか理解しようとしていた。


『ふーん、つまらないわね』


 アフロネアの声には、少し拗ねたような響きがあった。


「皆を巻き込むのはやめてくれ」


『でも、皆楽しそうだったじゃない?』


 確かに、最初の混乱と恐怖の後、生徒たちは次第にこの奇妙な状況を楽しみ始めていた。告白を聞いた相手たちも、困惑しながらも悪い気はしていない様子だった。


 レオンはラティアの告白に対して、紳士的に応えていた。


「ありがとう、ラティア。君の気持ちは嬉しいよ。でも、今はこの状況を乗り越えることが先決だ。落ち着いたら、ちゃんと話そう」


 その言葉にラティアは頷き、少し安心したように微笑んだ。


 フローラは花の冠を手に取り、不思議そうに見つめていた。


「なんだか夢みたいでした……」


 彼女の言葉に、周囲の生徒たちも同意の声を上げた。


 遼は静かに溜息をついた。混乱は収まったものの、この出来事が皆の心に残した影響は大きいだろう。そして何より、アフロネアの「気まぐれ」がいつでも再発する可能性があることが不安だった。


 夕方、キャンプは徐々に平常を取り戻していた。生徒たちは今日の奇妙な出来事を「島の神秘」として受け入れ始めていた。


 遼は小屋に戻った。元の場所に戻っていた小屋は、外見こそ通常に戻っていたが、中には午前中の「飛行」の名残が残っていた。家具は倒れ、物は散乱していた。


 片付けながら、遼はアフロネアに問いかけた。


「今日の出来事、皆の記憶に残るの?」


『もちろんよ。私が操作したのは物理現象だけであって、記憶じゃないわ』


「これで満足したかい?」


『うーん、まあまあかしら。でも、もっと波乱が必要だと思うわ』


 その言葉に、遼は眉をひそめた。


「もう十分だろう?」


『まだまだよ。これは序章に過ぎないわ』


 アフロネアの声には、どこか危険な響きがあった。


「何を計画してるんだ?」


『計画なんてしてないわ。ただ、神の気まぐれに身を任せてみたらいいじゃない?』


 遼は諦めたように溜息をついた。腕輪を見ると、ポイントは「3」まで減少していた。今日の「ギフト地獄」で大量のポイントが消費されたのだ。


 窓の外を見ると、キャンプの焚き火の周りに生徒たちが集まっていた。彼らは今日の不思議な出来事について語り合い、笑い声も聞こえてくる。


 確かに、アフロネアの「気まぐれ」は恐ろしいものだった。しかし、それが皆に一瞬の非日常を与え、逆に団結のきっかけになったようにも見える。


『ねえ、神代』


 アフロネアの声が再び響いた。


「なんだ?」


『明日はもっと楽しいことを考えておくわね』


 その言葉に、遼は思わず天井を見上げた。


 神の気まぐれに翻弄される日々——それが自分の運命なのだろうか。遼は静かに夜空を見上げ、明日への不安と、奇妙な期待を胸に抱きながら目を閉じた。


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