第7話:モテない努力は報われる?

 朝霧の立ち込める島の空気を切り裂いて、鳥のさえずりが響く。

 神代遼は自分でも信じられないような充実感を抱きながら、簡易テントから身を起こした。


 孤島生活も十日目を迎え、キャンプはすっかり整備されていた。レオンとの共同作業で設計した水路は効率的に水を供給し、フローラの教えてくれた薬草知識を活かした医療テントも機能していた。


 腕輪のディスプレイを確認する。「29」というポイント表示が、遼の心を安堵で満たした。


「ずいぶん貯まったな……」


 過去数日間で折ったフラグの数々が思い浮かぶ。ラティア、フローラ、そして数多くの女子生徒たちの微かな感情の芽を摘んできた結果だ。特にレオンの周囲には常にフラグが立ち続け、それを丁寧に折ることで効率的にポイントを稼いできた。


『おはよう、せっせと働く私の使い魔さん』


 アフロネアの甘い声が頭の中で響く。


「おはようございます、女神様」


 遼の皮肉めいた挨拶に、アフロネアは小さく笑った。


『随分と余裕が出てきたわね。ポイントもかなり貯まったし』


「ああ、おかげで少しは生活が安定したよ」


 遼は立ち上がり、テントから出た。朝日に照らされるキャンプは、最初の混乱から驚くほど秩序立っていた。生徒たちは協力して朝の準備をし、教師たちも各自の役割を担っている。


『ギフトを使ってみない? 何か欲しいものは?』


 アフロネアの提案に、遼は考え込んだ。これまでに使ったギフトは、食料と温泉、そして簡易シェルターの材料だった。どれも生存に必要なものばかりだ。


「そうだな……少し贅沢なものが欲しいかも」


『例えば?』


「個人の小屋とか。共同テントじゃなく、ちょっとしたプライベート空間が欲しい」


『なるほど。それなら「簡易ログハウス」はどう? 一人用の小さな木造住居よ。20ポイント消費するけど』


 遼は迷わず頷いた。


「頼む」


 腕輪が光り、ポイントは「9」に減少した。代わりに、キャンプから少し離れた木立の中に、小さなログハウスが出現した。丸太を組み合わせた壁、小さな窓、そして茅葺き風の屋根——どこか童話に出てくるような愛らしい佇まいだ。


「これは……すごい」


 遼は感嘆の声を上げた。中を確認すると、簡素ながらも寝台や机、椅子が備わっていた。火を焚く小さな暖炉もある。


『気に入った?』


「ああ、最高だよ」


 本心からの感謝を口にしながらも、遼の心に微かな罪悪感が広がった。自分だけこんな特別な空間を持つことへの後ろめたさ。


 しかし、女神はそんな遼の心を見透かしたように囁いた。


『心配しないで。あなたがポイントを稼いだご褒美よ。それに、リーダーシップを発揮している君には、考える静かな空間も必要でしょう?』


 遼はそれを聞いて少し心が軽くなった。確かに、ここ数日は皆の相談に乗ることも多かった。レオンとの共同作業でキャンプの改善を主導したことで、自然と周囲からの信頼も得ていた。


「そうだな。でも、レオンにも教えよう」


『いいわよ。友情を大切にするのは素敵なことね』


 アフロネアの言葉には、どこか意味深な響きがあった。


 その日の午後、遼はレオンを新居に招いた。


「これは驚いたな。どうやって建てたんだ?」


 レオンは小屋の内外を見回しながら感心した様子を見せた。


「まあ、森の木材を使って少しずつね」


 真実は言えないが、嘘をつくのも心苦しい。遼はぼんやりとした説明を繕った。


「すごい腕前だ。僕も手伝えればよかったのに」


「君は他のことで十分貢献してるよ」


 二人は小屋の前に腰を下ろし、しばらく静かに森の景色を眺めていた。風が葉を揺らす音、遠くから聞こえる波の音——孤島での生活にも、こんな穏やかな時間があることに遼は少し驚いていた。


「神代、君と出会えて良かった」


 突然、レオンがそう言った。


「どうして?」


「この状況になって、皆が不安に駆られている中、君は冷静に対処してきた。そのおかげで僕も頑張れたんだ」


 レオンの真摯な言葉に、遼は複雑な気持ちになった。自分は「女神の使い」という特別な立場で、状況を把握していただけだ。それを称賛されるのは、どこか申し訳なく感じた。


「そんなことないよ。君こそ皆のリーダーだ」


 レオンは首を振った。


「いや、僕は表面的な役割を果たしているだけさ。でも君は、本当の意味で皆を支えている」


 その言葉に、遼は何も答えられなかった。


 その夕方、キャンプに戻ると、ラティアとフローラが水場で話しているのが見えた。二人とも遼のフラグを折られた相手だ。彼女たちが遼に気づき、ちらりと視線を送ってきた。


 ラティアはすぐに目を逸らし、高飛車な態度で友人との会話に戻った。一方フローラは小さく会釈をした後、優しく微笑んだ。


 腕輪が震えた。「フラグ検知:微弱」という表示が出る。


『あら、また立ちかけてるわね』


 アフロネアの声が頭の中で囁いた。


「折ったはずなのに……」


『当然よ。一度フラグを折っても、また新しく立つこともあるわ。特に、あなたがキャンプで頼りにされるようになった今は』


 遼は溜息をついた。二人に近づくべきか迷ったが、距離を保つことにした。今はポイントが安定している。わざわざフラグを立てに行く必要はない。


 翌朝、遼は自分の小屋で目を覚ました。共同テントよりもずっと快適な空間で、ゆっくりと朝の準備をする贅沢。


 小屋の外に出ると、朝露に濡れた草花が太陽の光を受けて輝いていた。遼はその光景に見とれながら、ふと気づいた。自分は今、この状況を楽しんでいるのではないか。恋愛フラグを折る「逆・ハーレム」生活は理不尽だったが、それによって得られた平和な日々には確かな価値があった。


 キャンプに戻る道すがら、遼はラティアと鉢合わせた。彼女は一人で薬草を集めているようだった。


「お、おはよう」


 遼が思わず声をかけると、ラティアは少し驚いたように顔を上げた。


「あら、神代じゃない。おはよう」


 以前のような冷たさはなく、どこか自然な対応だった。


「薬草集め?」


「ええ。フローラに教わったの。役に立ちたくて」


 遼が会話を続けようとした瞬間、腕輪が震えた。「フラグ検知」の表示。


『またよ。彼女のフラグはしつこいわね』


 アフロネアの声に、遼は内心で苦笑した。


「そうか。頑張ってね」


 遼は会話を短く切り上げ、その場を離れた。フラグが立つのを避けるため、意識的にラティアとの距離を取る選択だ。


 キャンプでは朝の作業が始まっていた。遼も食料分配の手伝いに加わり、皆と協力して過ごした。


 昼食後、遼は自分の小屋に戻り、腕輪のポイントを確認した。「9」のまま。昨日からフラグを折っていないので増えていない。


『退屈になってきたわね』


 突然、アフロネアの声が響いた。


「退屈?」


『そう。あなたも安定した生活を手に入れてしまったし、私が観察する「恋愛混乱劇」もなくなってきたわ』


 女神の声には明らかな物足りなさが含まれていた。


「それはいいことじゃないのか? 皆が落ち着いて暮らせるなら」


『でもねえ……』


 アフロネアの声が甘く変化する。


『神は時に波乱を求めるものなのよ』


 その言葉に、遼は背筋が冷えるような不安を感じた。


「何を考えてるんだ?」


『何も。ただ、もう少し面白い展開があってもいいかなって』


 女神の声には明らかな退屈さが滲んでいた。


 その日の夕方、遼はキャンプの様子を見回っていた。どこか落ち着いた雰囲気の中、生徒たちは思い思いの時間を過ごしていた。


 フローラが集めた薬草を整理している姿が見える。彼女の周りには小さな動物たちが集まり、まるでおとぎ話のワンシーンのよう。少し離れた場所では、ラティアが友人たちと談笑していた。彼女の笑顔は、最初に会った時よりも柔らかく感じられる。


 そして、レオンは男子生徒たちと共に薪を集めて戻ってきたところだった。彼の姿を見た女子生徒たちの視線が自然と集まる。しかし、以前ほど露骨なアプローチはなくなっていた。


 静かな調和——それが今のキャンプの姿だった。


 遼は焚き火のそばに座り、温かい紅茶を飲みながら、この平和な光景を眺めていた。不思議な感覚だった。恋愛フラグを折ることで生きる「逆・ハーレム」の立場にありながら、今は穏やかな日常を享受している。


 レオンが遼の隣に腰を下ろした。


「良い夕暮れだな」


「ああ、本当に」


 二人の間に快適な沈黙が流れる。


「神代、もし救助が来ないとしても、俺たちはここで生きていけると思うか?」


 レオンの問いかけに、遼は少し考えてから答えた。


「なんとかなるんじゃないかな。皆が協力すれば」


 その言葉に、レオンは満足げに頷いた。


「俺もそう思う。最初は不安だったけど、今は……なんだか新しい冒険を始めたような気分だ」


 その言葉には希望が込められていた。


 しばらくして、フローラが二人に近づいてきた。


「お二人とも、お茶のおかわりはいかがですか?」


 彼女の微笑みは純粋で、誰にでも分け隔てなく優しさを振りまいていた。


「ありがとう、フローラ」


 レオンが茶碗を差し出すと、フローラは丁寧にお茶を注いだ。遼も同様に受け取った。


「神代さんのお陰で、みんな前向きになれましたね」


 フローラの言葉に、遼は戸惑いを感じた。


「俺のおかげなんかじゃないよ。皆が協力してるからだ」


 フローラは優しく微笑んだ。


「でも、神代さんがいなかったら、こんなに早く落ち着けなかったと思います」


 その純粋な言葉に、腕輪が震えた。「フラグ検知」の表示。しかし、遼はあえて無視した。今はこの平和な時間を大切にしたかった。


 フローラが去った後、ラティアが近づいてきた。


「二人とも、こんな所にいたのね」


 彼女の声は以前ほど高飛車ではなく、少し柔らかさを帯びていた。


「どうしたんだ、ラティア?」


 レオンの問いかけに、彼女は少し恥ずかしそうに答えた。


「その、明日の作業分担について相談があって……」


 彼女はチラリと遼の方も見た。その瞬間、腕輪が震え、「フラグ検知」の表示。


 遼は内心で溜息をついた。安定した生活を続けるなら、こうしたフラグを折るべきだろう。しかし、今はそれをする気にもならなかった。


「どんな相談だい?」


 レオンが穏やかに問いかけ、三人で明日の作業について話し合った。遼も積極的に意見を出し、和やかな雰囲気の中で会話が進む。


 星が輝き始めた頃、遼は自分の小屋へと戻っていった。静かな夜の森を歩きながら、今日一日のことを振り返る。


 小屋に着くと、遼は腕輪を見つめた。「フラグ検知」のままで、ポイントは増えていない。


『結局、フラグを折らなかったのね』


 アフロネアの声が響いた。


「ああ。折る必要性を感じなかったんだ」


『このままじゃポイントは増えないわよ?』


「今あるポイントで十分だ。必要な時に使えばいい」


 アフロネアは小さく笑った。


『随分と余裕ができたのね。でも……』


 女神の声が突然冷たく変わった。


『あまりに平和すぎて、退屈なのよね』


 その言葉に、遼は不安を感じた。アフロネアがどんな「波乱」を望んでいるのか、想像したくもなかった。


「お願いだ。今のままでいさせてくれないか」


『それは無理ね。神の気まぐれは止められないもの』


 アフロネアの声には、どこか楽しげな響きがあった。


「何をするつもりだ?」


『さあ? それはこれからのお楽しみよ』


 女神の声が消え、遼は一人取り残された。窓から見える夜空には無数の星が輝いていたが、その美しさを素直に楽しむ心の余裕はなかった。


 アフロネアの気まぐれが、この平和な日々を崩すとしたら——


 遼は眉間に皺を寄せながら、寝台に横になった。明日は、何が起こるのだろうか。そんな不安を抱きながら、彼は静かに目を閉じた。

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