第2話 ヴォイド襲来 - 深淵の侵蝕、覚醒の光芒 -
鉛色の空が、重苦しい沈黙と共に砦の上に垂れ込めていた。その静寂を破るように、遠くの地平線が黒く蠢き始める。それは、無数の黒い金属の塊だった。地を這うように、否、大地そのものを揺るがしながら、ヴォイドの大群が押し寄せてくる。
砦の最前線に立つ見習い神官エリスは、その小さな体躯に似合わぬ強い意志を瞳に宿していた。彼女の細い指先から放たれる青白い光線は、まるで夜空を切り裂く彗星のように、次々とヴォイドを撃ち抜いていく。一体、また一体と、黒い塊が爆ぜ、消滅していく。しかし、その数はあまりにも多かった。押し寄せる波濤のように、終わりなき悪夢が具現化したかのようだ。
「エリス! 無理をするな!」
屈強な体躯の隊長レオナルドの声が、戦場の騒音の中に辛うじて響いた。彼の顔には深い憂慮の色が刻まれている。エリスの白い額には汗が滲み、その小さな肩は激しい魔力放出に悲鳴を上げているようだった。それでも彼女は、一歩も退かず、震える指先から光線を放ち続ける。その姿は、数刻前まで、どこか頼りなく、不安げな表情を浮かべていた見習い神官とはまるで別人だった。彼女の奥底に眠る、守りたいという強い決意が、その小さな体を支えているのだ。
(皆を守らなきゃ……私が、皆の盾になるんだ……!)
エリスの心臓は、押し寄せるヴォイドの威圧感に締め付けられそうだった。それでも、彼女は目を逸らさない。見習いとして、まだ十分に力を制御できない未熟さを痛感しながらも、彼女は今、この砦にいる全ての人々の希望の光になろうとしていた。
一方、東洋から来た青年、一郎は、腰に佩いたばかりの剣を抜き、迫りくるヴォイドの一体に斬りかかった。しかし、その感触は、まるで硬い鉄板を鈍器で叩いているかのようだった。刃はほとんど通らず、甲高い金属音だけが空しく響く。ヴォイドの鋭利な爪が、一郎の粗末な防寒着を切り裂き、肌に生々しい痛みが走った。
「くそっ、硬すぎる!」
前世で、一日中キーボードを叩き、モニターとにらめっこする生活を送ってきた一郎にとって、剣術など全くの素人だった。時代劇で見たような見よう見まねのぎこちない剣捌きが、今の彼の精一杯だった。
(やっぱり、ゲームみたいにはいかないよな……)
迫りくる黒い影の異質な質感、鼻をつく金属の臭い、そして何よりも、その圧倒的な質量感。それは、モニターの向こう側の仮想現実とは全く異なる、生々しい脅威だった。恐怖と焦燥が、一郎の全身を冷たい汗で濡らす。
その時、一郎の脳裏に、先ほど一瞬だけ感じた、まるで洪水のような情報の奔流が再び押し寄せてきた。今度は、より鮮明なイメージとして。黒い金属の構造が、まるで精密な設計図のように彼の目に映る。内部を蠢く、黒く粘りつくようなエネルギーの流れ。そして、その規則的なエネルギーの流れの中に、ほんのわずかながら、まるでノイズのような、エネルギーの流れを阻害する「歪み」のようなものが、鮮やかな光を放ちながら視覚化されたのだ。
(なんだ、これは……まるで、ネットワークのパケット構造が見えているみたいだ……!)
信じられない感覚に、一郎は激しく戸惑った。それは、プログラマーとして長年培ってきた彼の知識が、この異世界の異質な存在に対して、奇妙な形で適応を始めた証だった。彼は、その「歪み」に意識を集中した。それは、まるで複雑なプログラムのコードの中に潜む、たった一つのバグのように、注意深く観察しなければ見過ごしてしまうような、微細なイレギュラーな点だった。
次の瞬間、一郎は無意識のうちに剣をその「歪み」に向けて突き出した。彼の体は、まるで長年の経験を持つ剣士のように、迷いなく、最短距離で目標を捉えていた。手応えは、先ほどとは全く違った。鈍い、しかし確かな音と共に、ヴォイドの動きがピタリと止まる。そして、黒い金属の外殻に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、内部の黒いエネルギーが、まるで制御を失った配線から漏れ出す電流のように、霧のように消散していく。ヴォイドは、まるで生命活動を停止した機械のように、音もなく崩れ落ちた。
「な、なんだ……!?」
隣で、必死に剣を振るっていた屈強な戦士リオンが、目を丸くして一郎を見つめた。今の一郎の動きは、先ほどまでの怯えた様子からは想像もできないほど的確で、一撃でヴォイドを沈黙させたのだ。彼の顔には、驚愕と困惑の色が入り混じっていた。
「佐藤さん、一体何を……?」
リオンの問いに答える余裕は、一郎にはなかった。彼の頭の中では、情報の奔流がさらに加速していた。次々と現れるヴォイドの構造、複雑に絡み合うエネルギーの流れ、そして、まるで星屑のように無数に存在する「歪み」。それらが、まるで目の前のモニターにリアルタイムで表示されたシステムログのように、鮮明に認識できるのだ。
(こいつらにも、弱点があるのか……まるで、セキュリティホールみたいに!)
一郎は、次々と迫りくるヴォイドの中に、その微細な「弱点」を見つけては、まるで精密な手術を行うように、剣を突き刺していく。剣術の経験はない。しかし、前世で培った論理的思考力、複雑なシステムを解析する能力、そして、バグを見つけ出すための異常なまでの集中力が、今、この異世界で思わぬ力を発揮していた。彼の脳は、目の前の異質な敵を、まるで解析すべきプログラムコードのように捉え、その脆弱性を瞬時に見抜いていたのだ。
まるで、長年戦場を生き抜いてきた熟練の剣士のように、無駄のない、洗練された動きでヴォイドを屠っていく一郎の姿に、周囲の兵士たちは目を疑った。先ほどまで、隅の方でおどおどしていた東洋人の男が、今や黒い鉄の化け物を、まるで熟れた果実を摘むかのように次々と倒していくのだ。
「す、すげえ……あの佐藤ってやつ、一体何者だ!?」
「剣術の訓練なんて受けてなかったはずなのに……!」
驚愕と困惑の声が、兵士たちの間から上がる。彼らの目に映る一郎は、もはやただの異邦人ではなかった。何か、常識を超えた力を秘めた存在のように見えた。そんな騒然とした状況の中、一郎はただひたすら、彼の目にだけ見える「歪み」を狙って剣を振るい続けた。それは、まるでシステムのエラーログを解析し、原因となったコードを特定し、修正していく、彼にとって馴染み深い作業に酷似していた。
その間にも、エリスの放つ青白い光線は、ヴォイドの数を着実に減らしていく。彼女の必死の抵抗が、砦の防衛線を支えていた。しかし、激しい魔力消費のためか、その勢いは徐々に衰え始め、光線の威力も目に見えて弱まっているのが分かった。彼女の小さな体は、限界に近づいていた。
「エリス! もう無理をするな!」
隊長レオナルドが、再び切羽詰まった声で叫んだ。しかし、エリスは顔を蒼白にしながらも、固く首を横に振った。彼女の瞳には、強い決意の色が宿っていた。
「まだ……まだ、やれます……! 皆さんを守らないと……! 私が、この砦の最後の砦なんです!」
その時、一体の巨大なヴォイドが、他のものとは明らかに異なる、禍々しいオーラを放ちながら、悠然と姿を現した。それは、まるで漆黒の王のように、他のヴォイドを従えるように、一段高い場所に屹立している。その巨体から発せられる威圧感は、周囲の空気を震わせるほどだった。
「あれは……!」
隊長レオナルドの顔が、一瞬にして絶望の色に染まった。彼の目は、信じられないものを見るように大きく見開かれている。
「上位個体だ! まさか、こんなところにまで……!」
巨大なヴォイドは、その巨大な腕をゆっくりと振り上げた。その掌には、黒い、まるで底なしの闇のようなエネルギーの塊が、徐々に形成されていく。それは、砦の堅牢な壁を容易に破壊するほどの、圧倒的な破壊力を秘めている。
「危ない!」
一郎は、その異様な光景に本能的な危険を感じ、咄嗟にエリスを庇い、その場に倒れ込んだ。轟音と共に、信じられない衝撃が全身を揺さぶる。間一髪で直撃は免れたものの、巨大なエネルギーの爆風は、二人の体を軽々と吹き飛ばし、地面に叩きつけた。
「ぐっ……!」
体中に激痛が走る。肺の中の空気が押し出され、息をするのも苦しい。立ち上がろうとするが、全身の関節が悲鳴を上げ、うまく力が入らない。
巨大なヴォイドは、なおも黒いエネルギーを溜め込み、次の、より強力な攻撃を仕掛けようとしていた。その禍々しいオーラは、周囲の空気をねじ曲げているようだ。庇われたエリスは、恐怖に顔を歪ませ、地面にへたり込んだまま、動くことができない。彼女の瞳には、絶望の色が深く沈んでいた。
(くそっ……ここで終わるのか……!)
絶望的な状況の中、一郎の脳裏に、再びあの情報の奔流が押し寄せてきた。今度は、巨大なヴォイドの内部構造が、まるでレントゲン写真のように、鮮明に透けて見える。中心には、脈打つように蠢く、強大なエネルギーの核が存在し、そこから無数の、まるで血管のようなエネルギーラインが、複雑に全身へと張り巡らされているのが見えた。
そして、そのエネルギーラインの中にも、他のヴォイドと同様に、わずかな「歪み」が存在しているのが分かった。しかし、その数は極めて少なく、まるで隠されたエラーコードのように、非常に見つけにくい、奥まった場所に点在していた。
(あんな場所に……! どうすれば……!)
巨大なヴォイドが、再び巨大な腕を振り上げた。その掌には、先ほどの比ではない、巨大な、黒い太陽のようなエネルギーの塊が形成されつつある。今度の一撃は、砦はおろか、周囲の地形さえも変えてしまうかもしれない。
その時、一郎の目に、爆風で吹き飛ばされ、地面に落ちている一本の折れた槍が映った。それは、先ほどの戦闘で、勇敢な兵士が使っていたものだろう。
(あれを使うしかない……!)
一郎は、全身を走る激痛に耐えながら、無理やり体を動かし、折れた槍を掴んだ。狙うは、巨大なヴォイドの中心部から伸びる、最も奥まった場所にある、微細な「歪み」。それは、通常の剣では到底届かない、危険な場所にあった。
一郎は、全身の力を最後のひと絞りのように込めて地面を蹴り上げ、巨大なヴォイドに向かって跳躍した。まるで、放たれた弾丸のように、一直線に飛び出す。彼の目は、目標とする「歪み」一点を、寸分も狂わず捉えていた。
「佐藤! 危ない!」
背後から、リオンの悲痛な叫びが聞こえる。巨大なヴォイドは、一郎の決死の突進に気づき、迎撃しようと漆黒のエネルギーを放つ。それは、触れたものを全て消滅させるような、恐ろしい奔流だった。
しかし、一郎は、まるで風のように、そのエネルギーを紙一重でかわし、折れた槍を、全身の力を込めて突き出した。狙いは、寸分も狂わない。彼の意識は、もはや過去の記憶や恐怖に囚われてはいなかった。ただ、目の前の「歪み」を打ち抜くことだけに集中していた。
折れた槍の先端は、巨大なヴォイドの硬い外殻を僅かに貫き、奥深くに存在する、微小な「歪み」を、確かに捉えた。
次の瞬間、巨大なヴォイドの動きが、まるで時間が止まったかのように、ピタリと止まった。そして、信じられない光景が広がった。
黒い金属の外殻が、内側から眩い光を放ち始めたのだ。それは、まるで制御不能になった原子炉のように、ヴォイドの体内で、今まで抑え込まれていた強大なエネルギーが暴走し始める兆候だった。
「な、なんだ……!?」
巨大なヴォイドは、苦悶の叫びのような、耳をつんざく異音を発し、その巨体が激しく痙攣する。そして、次の瞬間、轟音と共に大爆発を起こし、無数の黒い破片となって四散した。その爆発は、周囲のヴォイドをも巻き込み、まるでドミノ倒しのように、次々と消滅させていく。まるで、巨大な親玉を倒されたことで、複雑なネットワークシステム全体がダウンしたかのようだ。
砦を覆っていた異様な圧力が嘘のように消え、信じられないほどの静寂が、重く立ち込めていた。兵士たちは、目の前で起こった奇跡のような光景を前に、言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていた。
その爆心地の中心には、全身傷だらけで、ボロボロになりながらも、折れた槍を手に、息を切らせて立ち尽くす一郎の姿があった。彼の体は、あちこちから出血し、満身創痍だったが、その瞳には、先ほどの死闘を乗り越えた、確かな光が宿っていた。
エリスは、信じられないものを見るような、呆然とした表情で一郎を見つめ、小さく、震える声で呟いた。
「あ、あなたは……一体……?」
一郎は、痛む体を庇いながら、自嘲気味に、しかしどこか誇らしげに笑った。
「ただの……社畜ですよ」
しかし、その瞳の奥には、前世で培った、決して諦めないという強い意志と、この異世界で生き抜くための、新たな決意が宿っていた。会社のシステムを守るために、夜通しエラーコードと格闘してきた男が、今、この異世界の国境を守るために、その知識と経験を、全く予期せぬ形で活かし始めたのだ。
鉛色の空はいつの間にか晴れ渡り、西の空は、燃えるような夕焼けが、砦の灰色の壁を赤く染めていた。ヴォイドの残骸が散らばる中、兵士たちの間には、静かな興奮と、一人の見慣れない東洋人の男に対する、深い畏敬の念が広がっていた。彼らの目は、もはやただの異邦人ではなく、この危機を救った英雄を見るような、尊敬の光を帯び始めていた。
まさか、この冴えない、どこにでもいるような社畜が、この異世界で、誰も想像しなかったような「無双」劇を演じるとは、彼自身も、そしてこの砦の誰もが、想像すらしていなかっただろう。しかし、この信じられない戦いは、まだ始まったばかりだった――。
(第二話 完)
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