第3話 魂の共鳴、予期せぬ邂逅

砦の朝は、昨夜の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。谷間に吹き込んだ夜風が、ヴォイドの残骸から立ち上る微かな焦げ臭さを運び去り、代わりに清々しい草の香りが漂っている。朝日が、無数の黒い破片が散らばる荒れた地面を、まるで慈しむようにゆっくりと金色に染め上げていった。

エリスは、早朝の冷たい石畳に膝をつき、神殿の祭壇に向かって深く祈りを捧げていた。昨日の激戦で酷使した小さな体は、まだ鉛のように重く、指先には痺れが残っている。それでも、一郎が神殿長を癒した、あの奇跡のような光景が、彼女の瞳の奥で温かく輝いていた。

(佐藤さんの力……本当に、まるで夢みたいだった。師匠の苦しそうな顔が、あんなにも穏やかになるなんて……あの時、佐藤さんの手から溢れた、優しい青白い光。それは、荒れた私の心に、そっと染み渡る清水のようだった……)

彼女は、祭壇の傍らに供えられた、朝露に濡れた白い花にそっと触れた。昨日は、あんなにも絶望的な状況だったのに、こうして静かに、新しい一日を迎えることができる。それは、あの東洋から来た、風変わりな男性のおかげだ。普段はどこか頼りなく、所在なさげにしているけれど、いざという時には、信じられないほどの勇気と、不思議な力を発揮する人。

ふと、神殿の薄暗い入り口に、一筋の光が差し込んだ。そこに現れたのは、見慣れない、目を奪われるほど鮮やかな青色のローブを身につけた女性だった。絹のような光沢を放つ長い黒髪は、一筋の乱れもなく丁寧に梳き上げられ、吸い込まれるように深い黒曜石の瞳が、祭壇に佇むエリスを静かに見つめている。その涼やかな眼差しには、飾り気のない知性と、隠しきれない高貴な気品が漂っていた。

「おはようございます……」エリスは、思わず背筋を伸ばし、少し緊張した声で挨拶をした。「どちら様でしょうか?」(こんな時間に、一体どなたが……? このような美しい方に見覚えはないわ……)

女性は、その美貌をさらに引き立てるような、優雅で柔らかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいてきた。「わたくしは、遠い王都より参りました、ルナと申します。あなた様が、この国境の砦の見習い神官、エリス様でいらっしゃいますね?」その声は、静かな調べのように、神殿の空気に溶け込んだ。

「は、はい。私がエリスです」エリスは、その落ち着いた物腰に、わずかに気圧されながらも答えた。(王都から……こんな辺境の砦に、一体何のご用かしら……?)

ルナと呼ばれた女性は、祭壇に横たわる、穏やかな寝息を立てる神殿長に、慈悲深く、そしてどこか憂いを帯びた眼差しを向けた。「神殿長様のご容態はいかがでしょうか? わたくし、昨日の戦の顛末を、わずかながら耳にしまして……いてもたってもいられず、こうして馳せ参じた次第です」

エリスは、その優しい言葉に、張り詰めていた心が少し緩んだ。「おかげさまで、だいぶ良くなられました。昨夜、この砦に滞在している、佐藤一郎という方が……本当に、信じられないような不思議な力で、師匠を癒してくださったのです」彼女の声には、昨日の驚きと、感謝の念が入り混じっていた。

「佐藤、と仰いましたか」ルナの涼やかな瞳が、その名を聞いた瞬間、微かに、しかし明らかに興味深そうに輝いた。「その方は、一体どのようなお力をお持ちなのでしょうか?」彼女の問いかけには、単なる好奇心以上の、何かを探るような意図が感じられた。

エリスは、その鋭い視線に少し戸惑いながらも、昨夜の一郎の様子を、出来る限り丁寧に説明した。「その……手を、ただそっと重ねただけなんです。すると、師匠の苦しそうな表情が和らいでいって……まるで、体の中から悪いものが消えていくみたいに。そして、佐藤さんの体から、淡い青白い、とても穏やかな光が出ていたんです。それは、まるで……春の陽だまりのような、優しい光でした」話しながら、彼女は、あの不思議な光の温かさを、再び思い出していた。

ルナは、エリスの拙い説明を、一言一句逃すまいとするように静かに聞き終えると、深く、思慮深げに頷いた。「なるほど……それは、実に興味深いお力ですね」彼女は、エリスに視線を戻し、先ほどよりも幾分か柔らかな声で言った。「エリス様、もし差し支えなければ、その佐藤という方にお会いすることはできますでしょうか? わたくし、直接お礼を申し上げたいのです」その言葉の裏には、感謝の気持ちだけでなく、その力を持つ人物を確かめたいという、強い意図が隠されているようだった。

その頃、一郎は、砦の一番高い見張り台の隅に腰掛け、ぼんやりと東の空が白んでいく様子を眺めていた。昨日の、まるで悪夢のような戦いの後、全身にまとわりついていたような痛みは、ようやく和らいできた。しかし、彼の心は、まだ深い霧の中にいるようだった。自分が、あの巨大な、異質な存在を倒したという事実が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。

(本当に、あれは俺が……? あの時、俺の目に映った、黒いエネルギーの流れの中に浮かび上がった、まるでノイズのような『歪み』……あれはいったい何だったんだ? ただの極度の緊張による幻覚だったのか? それとも……本当に、俺にだけ見える、何かの弱点だったのか……)

彼の頭の中では、ヴォイドの硬質な外殻、蠢く黒いエネルギー、そして、一瞬だけ見えた、鮮やかな光を放つ歪みのイメージが、まるで壊れた映写機のように、何度も繰り返されていた。前世で、徹夜続きでエラーログを追いかけていた時の、あの異様な集中力が、まさかこんな形で役に立つなんて、想像もしていなかった。

「佐藤さん、こんなところで何をされているんですか?」

背後から、いつもの明るく、屈託のないリオンの声が響いた。彼は、朝日に照らされて、より一層あどけなく見える笑顔で、見張り台の階段を駆け上がってきた。「隊長が、朝の訓練に顔を出すようにと言っていましたよ。新しい剣も、昨日褒美にもらえたじゃないですか!」

「ああ、そうか……」一郎は、慌てて立ち上がった。支給された、まだ自分の手に馴染まない真新しい剣の感触を確かめながら、彼は苦笑した。(訓練か……見よう見まねの剣術じゃ、まだまだ足手まといにしかならないんだけどな……)この異世界に来てから、生き残るために必死で剣を振るってきたものの、その腕前は、熟練の兵士たちとは比べ物にならないほど未熟だった。

その時、砦の入り口の方から、息を切らせた兵士が、慌てた様子で駆け寄ってきた。「リオン! 佐藤さん! 大変です! 神殿に、王都からお客様がお見えです!」その声には、ただならぬ興奮と、僅かな畏怖の色が混じっていた。

「王都から?」リオンは、目を丸くした。「一体、どんな方が?」彼の好奇心旺盛な瞳が、期待に輝いた。

兵士は、興奮した面持ちで答えた。「それが……見たこともないほど美しい、まるで貴族のような、高貴な雰囲気の女性で……神殿長様と、なにやら静かに話しておられます」

一郎は、その言葉を聞いた瞬間、胸に小さな波紋が広がった。王都から、わざわざこんな辺境の砦に、美しい貴族のような女性がやってくるなんて、一体何があったのだろうか。昨日の戦いの報告だろうか? それにしては、あまりにも個人的な訪問のように感じる。

神殿に戻ると、朝の静けさとは打って変わって、僅かな緊張感が漂っていた。エリスは、先ほどの美しい女性と、神殿長の傍らで、何か真剣な面持ちで話していた。女性の纏う、深く鮮やかな青色のローブは、質素な石造りの神殿の中で、まるで一輪の青い炎のように、ひときわ異彩を放っていた。

「ああ、佐藤さん、こちらへ」エリスが、一郎の姿を認めると、安堵と喜びが入り混じったような表情で手招きした。「この方は、遠い王都からいらっしゃったルナ様です。昨日の、あの恐ろしい戦いのことをお聞きになり、わざわざお礼を言いに来てくださったそうです」

一郎は、ルナと呼ばれた女性に近づき、昨日の粗野な振る舞いを詫びるように、ぎこちなく頭を下げた。「初めまして、佐藤一郎と申します」(こんな美しい人に、あんな泥まみれの姿を見られたとは……)

ルナは、優雅で、人を安心させるような微笑みを浮かべ、一郎の目をじっと見つめた。「あなたが、昨日の、あの信じられないような戦いで、恐ろしい上位個体を、たった一撃で沈められたと伺いました。そして、神殿長様のことも……不思議な、温かい光で癒されたと」彼女の声は、静かで落ち着いていたが、その奥には、彼の力を見極めようとする、鋭い観察眼が光っていた。

一郎は、その吸い込まれるような瞳に、一瞬たじろぎながらも、出来る限り謙遜した態度で答えた。「ええ……まあ、あれは本当に、ぎりぎりのところで、偶然のようなものです」

ルナは、その言葉を否定も肯定もせず、さらに深く一郎の瞳を見つめた。まるで、奥底に隠された真実を探るように。「あなたの瞳には、不思議な力が宿っていますね。まるで、長年磨き上げられた宝石のように、静かで、そして深く……世界の真理を、ほんの少しだけ覗き見ているかのような……」

その瞬間、一郎は、彼女の言葉に、まるで心臓を鷲掴みにされたような、言いようのない衝撃を受けた。まるで、自分の心の奥底に隠された、誰にも話したことのない秘密を、やすやすと見透かされているような、不思議で、そして少し恐ろしい感覚だった。(な、なんだこの人は……? どうして、そんなことが分かるんだ……?)

「わたくしは、あなたのその力に、大変興味があります」ルナは、先ほどの柔らかな表情から一転、真剣な眼差しで一郎を見つめた。「もしよろしければ、あなたのその力について、もう少し詳しくお聞かせ願えませんか? どのようにして、あのような奇跡を起こされたのか……わたくし、どうしても知りたいのです」彼女の言葉には、強い探求心と、使命感のようなものが感じられた。

一郎は、その真剣な問いかけに、ますます戸惑いを深めた。「俺の力、ですか……? ただの、その場の勢いというか……本当に、よく分からないんです」彼は、自分の内なる、あの奇妙な感覚を、うまく言葉にすることができなかった。

しかし、ルナは、その曖昧な言葉を信じなかった。彼女の黒曜石の瞳は、まるで夜空に輝く星のように、強い光を放っていた。「いいえ、わたくしには分かります。あなたには、特別な力がある。そして、それは、この先の、この世界にとって、かけがえのない、とても重要な力になるはずです」彼女の言葉には、確信と、未来を見据えるような強い意志が宿っていた。

その時、神殿の奥の、薄暗い祭壇の傍らから、神殿長の穏やかで、しかしどこか重みのある声が響いた。「ルナ様のおっしゃる通りじゃ、一郎よ。そなたの力は、決して偶然などではない。それは、古の時代から、この地に脈々と受け継がれてきた、魂の輝きそのものなのじゃ」

神殿長の、静かで力強い言葉に、一郎は息を呑んだ。魂の輝き……それは、昨夜、彼女が語った「魂の調律」と、深く結びついているのだろうか。彼の心の中に、新たな疑問と、微かな期待の光が灯り始めた。

ルナは、神殿長に深く敬意を払い、優しく微笑みかけた後、再び一郎に向き直った。「佐藤様、わたくしは、あなたのその、稀有な力を、この世界のために、最大限に役立てたいと心から願っています。つきましては、近いうちに、あなたをわたくしの故郷、王都にお連れしたいのですが、いかがでしょうか?」彼女の申し出は、一方的な命令というよりも、未来への希望を託すような、真摯なものだった。

王都への誘い――それは、一郎にとって、全くの予想外の出来事だった。異世界に転生してからというもの、ただ一日一日を生き延びることに精一杯だった彼にとって、遥か遠くに聳え立つ王都は、まるで絵空事のような存在だった。

「王都、ですか……?」一郎は、驚きと困惑の色を隠せない。「俺のような、ただの……その日暮らしの男が、王都で一体何ができるというんですか?」彼の心の中には、不安と、未知の世界への戸惑いが渦巻いていた。

「あなたは、決して『ただの』者ではありません」ルナは、力強く、そして温かい眼差しで断言した。「あなたは、この先の、未曾有のヴォイドの災厄に立ち向かい、この世界を再び均衡へと導くための、希望の光となるかもしれない。わたくしは、そう、強く確信しています」

彼女の言葉は、重く、そして温かく、一郎の胸の奥深くに響いた。戸惑いながらも、彼は、その強い、まるで吸い込まれるような眼差しから、どうしても目を逸らすことができなかった。彼女の瞳の奥には、確固たる信念と、未来への強い希望が宿っているように見えた。

その日の午後、王都から、ルナの使者である、精強な護衛の騎士たちが到着し、静かだった砦は、再び慌ただしい喧騒に包まれた。ルナは、一郎に丁寧に、そして穏やかに、王都での彼の役割について説明した。それは、ヴォイドに対抗するための、新たな力の研究、そして、その力を制御し、活用するための方法を探るというものだった。

一郎は、言葉少ない別れを告げ、エリスの、潤んだ大きな瞳に見送られながら、リオンの、寂しそうな笑顔に手を振り、砦の仲間たちの、複雑な表情を背に、ルナと共に、王都へと続く、見慣れない石畳の道を馬車でゆっくりと進み始めた。遠ざかっていく、自分が辛うじて生き延びてきた砦の景色を眺めながら、彼の心には、これまで感じたことのない、大きな期待と、それに伴う、拭いきれない不安が入り混じっていた。

(王都……一体どんな場所なんだろう? そして、俺のような、何の取り柄もない男に、一体何ができるっていうんだ……?)

しかし、隣に座る、高貴な美しさを持つルナの、静かで強い横顔を盗み見るうちに、彼の瞳には、これまでのような迷いや戸惑いは、少しずつ薄れていっていた。神殿長の温かい言葉、ルナの真剣な眼差し、そして、自分の奥底に確かに存在する、あの不思議な力。それらが、彼の心の中に、小さな、しかし確かな、新たな決意の炎を静かに灯し始めていた。

異世界に転生した、ただの疲弊した社畜だった男は、今、予期せぬ、しかし必然だったのかもしれない邂逅をきっかけに、運命の新たな舞台へと、一歩踏み出そうとしていた。彼の、まだ自覚のない魂の共鳴が、この世界に、どのような希望と、そして試練をもたらすのか――それは、まだ誰にも、そして彼自身にも、想像すらできないことだった。


(第三話完)

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