【社畜情シス、国境警備で無双す】~前世は雑魚モブ? いいえ、ただの社畜です!〜

小乃 夜

第1話 転生

西暦2030年4月11日、金曜日。時刻は午後一時過ぎ。東京、新宿の高層オフィスビルが林立する一角にそびえ立つ、株式会社グローバルテックの本社27階。そこでシステム運用部のエースとして、佐藤一郎は今日もまた、複雑なネットワーク図が描かれた複数のモニターを睨んでいた。

「くそっ、また基幹システムのレスポンスが遅延している……」

低い舌打ちと共に、一郎は仮想サーバーの負荷状況を示すグラフを険しい表情で確認する。グローバルテックは、国内外に拠点を置く中堅IT企業。そこで、あらゆるシステムの安定稼働を一手に担うのが、二十八歳の佐藤一郎の肩に掛かる重責だった。

朝九時の始業前から、トラブル対応のため早朝出社することも珍しくない。国内外の拠点からの問い合わせ、頻繁なシステムアップデート、そして常に付きまとうセキュリティの脅威。まるで、幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣の中で、一人奮闘しているような毎日だった。

「せめて、監視ツールくらい最新のものを導入してくれれば……」

何度そう進言したことか。しかし、経営陣のコスト意識は高く、旧態依然としたシステムを騙し騙し使うのが常だった。一郎は、今日もまたブラックコーヒーを片手に、アラートが頻発する監視画面とにらめっこを続ける。

昼食は、忙しさにかまけてデスクで簡単に済ませることがほとんど。午後も、ひたすらコマンドラインと格闘する。集中力が限界に近づくと、窓から見えるコンクリートジャングルを見下ろし、束の間の休息を取る。

その日の午後も、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。午前中に発生したデータベースの不具合は、ようやく原因を特定し、復旧作業に取り掛かったばかり。その最中にも、別の部署から新たな問い合わせが次々と舞い込んでくる。

「今日も終電コース確定か……」

一郎は、重い体を椅子から引きずり上げ、給湯室へと向かった。濃いコーヒーを淹れ、最後の気力を振り絞る。その時だった。

突然、オフィス全体がけたたましい警告音に包まれた。

「緊急地震速報!? なんだ……!?」

一郎は慌てて机の下に身を潜めたが、揺れは予報されていたものとは明らかに異質だった。まるで、巨大な磁石に引き寄せられるように、周囲の物体が浮き上がり始める。

「うわあああ……!」

視界が激しく歪み、体全体が強烈な力で引っ張られるような感覚に襲われる。最後に見たのは、天井の蛍光灯がスパークし、無数の光の粒子となって消えていく光景だった。

次に一郎が意識を取り戻したのは、冷たい石畳の上だった。見慣れない高い天井、荘厳な装飾が施された壁、そして鼻を突く古木の匂い。

「ここは……一体どこだ?」

体を起こすと、周囲には同じように混乱した表情の男女が数人、倒れている。皆、現代的な服装ではなく、中世ヨーロッパのような質素な衣類を身につけていた。

混乱する頭の中で、断片的な記憶が蘇る。緊急地震速報、浮き上がるオフィス機器、そして意識を失う直前に感じた、強烈な吸引力。

「マジかよ……異世界転生なんて、ありえないだろ……」

一郎は、現実離れした状況に、思わず声に出して呟いた。まさか自分が、ネットニュースでたまに見かけるような都市伝説じみた現象に巻き込まれるとは。しかし、目の前の光景は、どう見ても現実世界のそれではなかった。

しばらくして、周囲の状況が少しずつ飲み込めてきた。彼らは皆、東京や大阪といった大都市で、それぞれ異なる状況下で意識を失い、ここに現れたらしい。言葉は通じるものの、通貨や文化、そして何よりも「常識」が全く異なる。

そして、彼らがいる場所は、どうやら「エデンシア」という、剣と魔法が存在する世界の、国境付近に位置する古い砦の一室らしいということだった。なぜ自分たちがこのような場所に連れてこられたのか、その理由は誰にも分からない。

混乱の中、砦の兵士たちが現れ、彼らを保護した。一郎は、前世のITエンジニアとしての知識など、この世界では何の役にも立たないことを悟りながら、成り行きで国境警備隊の一員として働くことになる。記憶はまだ曖昧で、転生の詳しい経緯は思い出せない。ただ、生き延びるためには、この状況に適応するしかなかった。

支給された、いかにも切れ味の悪そうな剣を腰に差し、埃っぽい砦の中を歩きながら、一郎は毎日、見慣れない鎧を身につけた兵士たちと共に、国境の警備任務に就いていた。

「前世で、秋葉原の電気街くらいしか冒険したことのない俺が、まさかこんなところで剣を持つ羽目になるとはな……」

一郎は、冷たい風が吹き抜ける見張り台の上で、今日もまた自嘲気味に呟いていた。まさか、このどこにでもいる冴えない社畜が、この異世界で想像もつかないような事態に巻き込まれていくことになるとは、この時の彼はまだ微塵も予想していなかった――。

鉛色の空が、重苦しく国境の砦を覆っていた。冷たい風が吹き抜け、粗末な木造の壁を軋ませる。そんな中、佐藤一郎は、支給された防寒着に身を包み、ため息をついていた。

「ああ、今日も一日、国境警備か……」

齢二十八歳。前世は日本のIT企業、株式会社グローバルテックでシステム運用部の一員として、文字通り激務の日々を送っていた。サーバーダウン、ネットワーク障害、セキュリティインシデント。東京のコンクリートジャングルの一角で、常に何かしらのトラブルに追われていた男が、なぜかこんな剣と魔法の世界に転生してしまった。しかも、よりによって最前線の国境警備兵だ。

「前世で、せいぜい深夜の秋葉原でパーツを探し回るくらいしか冒険してない俺だ、そんな勘違いはしない」

一郎は心の中で呟く。オンラインゲームも嗜む程度で、最前線で剣を振るうような経験はない。前世で鍛えられたのは、複雑なシステム障害の原因を特定する分析力と、納期厳守のための異常なまでの集中力くらいだろう。

「佐藤さん、どうかしましたか? いつも難しい顔をされていますね」

隣に立つ、同じ小隊の若い兵士、リオンが心配そうな眼差しを向けてきた。まだあどけなさの残る顔立ちだが、腰にはしっかりと剣を佩いている。

「ああ、すまん。ちょっと、この砦の構造が気になってな」

一郎は、砦の簡素な造りを眺めながら答えた。セキュリティの甘さ、冗長性の低さ、そして何よりも情報伝達の遅さ。ITエンジニアの目から見ると、この砦のシステムは脆弱性だらけに見えた。

「構造ですか? 先祖代々、この地を守ってきた堅牢な砦ですよ?」

リオンは、誇らしげに胸を張った。彼の純粋な瞳には、この砦に対する絶対的な信頼が宿っている。

「いや、そうじゃなくて……例えば、敵の侵入経路を予測するためのデータ分析とか、緊急時の連絡網の構築とか……もっと効率的に運用できるんじゃないかなって」

前世の職業病だろうか。どうしてもシステムの最適化という視点から、この世界を見てしまう。狼煙による情報伝達、口頭での指示伝達。全てがアナログで、リアルタイム性に欠けているように思えてならない。

「うーん、難しいことは分かりませんが……隊長やベテランの兵士たちが、長年の経験に基づいて指揮を執っていますから、きっとそれが最善の方法なのでしょう」

リオンの言葉はもっともだ。異世界に転生してまだ数週間足らずの自分が、この世界の常識に口を挟むのは無粋だろう。一郎は苦笑いを浮かべ、言葉を飲み込んだ。

その時、砦の中央に位置する小さな神殿の方から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。

「いやああああ!」

悲痛な叫び声に、周囲の兵士たちが一斉に振り返る。一郎も嫌な予感がして、声の聞こえた方へと駆け出した。

神殿の入り口には、微かに青白い光の粒子が漂っていた。中を覗くと、一人の少女が床にへたり込み、顔を両手で覆って震えている。少女は、純白の神官服を身につけていた。恐らく、この砦に併設された神殿に仕える見習いだろう。

そして、その少女が見つめる先には――一匹の小さな白い子猫が、祭壇の隅で怯えたように丸まっていた。どうやら、高い花瓶に興味本位で登ったものの、降りられなくなってしまったらしい。

「わ、私……また何か、やってしまったんでしょうか……?」

少女、エリスは、大きな瞳に涙を浮かべ、不安げに一郎を見上げた。その顔は青ざめ、今にも泣き出しそうだ。

「一体、何があったんですか?」

一郎が優しく声をかけると、エリスは震える声で答えた。

「その……あの子が、あんなところにいるのが見えて……助けたくて、つい……」

「つい、何を?」

一郎が問い返すと、エリスは混乱したように首を傾げた。

「分かりません……気が付いたら、体が熱くなって、光が……」

彼女の言葉通り、祭壇の周囲には、微かに魔法陣のような模様が光っていた痕跡があった。しかし、それは不安定で、魔力も微弱なものに見える。

「もしかして、無意識に魔法を使ったんですか?」

一郎の問いに、エリスは目を丸くした。

「魔法……? わ、私、神殿の中でも一番の落ちこぼれなんです! 祈りは全然届かないし、聖具はよく壊してしまうし……師匠にも、本当に神に仕える資格があるのかと、しょっちゅう叱られてばかりで……」

神官でありながら魔法が使えないとは、一体どういうことだろうか。一郎は、前世のIT業界でいうところの「設定ミス」のようなものを感じた。

その時、子猫が「ミャーオ」と弱々しく鳴いた。エリスは、ますます焦った表情になる。

「どうしましょう……あの子、あんな高いところに……」

一郎は、祭壇までの距離と高さを冷静に分析した。飛び移れない距離ではないが、万が一失敗すれば、子猫は怪我をするかもしれない。ここは、確実な方法を取るべきだろう。

「少し待ってください」

一郎はそう言うと、周囲を見回した。神殿の隅に、祭具などを収納するための木製の台がいくつか重ねて置かれている。

「あれを使えば、何とか……」

一郎は、積み重ねられた台を慎重に運び始めた。前世で、サーバーラックの移動を手伝った際の腰の痛みが蘇る。バランスを考えながら台を積み上げ、即席の階段を作る。

「危ないですから、下がっていてください」

エリスにそう声をかけ、一郎はゆっくりと木製の階段を登り始めた。子猫は、一郎の姿を見ると、不安そうに体を小さく丸めた。

「大丈夫だよ、怖くないよ」

一郎は優しい声で子猫に語りかけながら、そっと手を伸ばした。小さな体は震えていたが、大人しく一郎の手に収まった。

「よしよし」

子猫を抱き上げ、一郎は慎重に木製の階段を降りた。エリスは、安堵の表情で駆け寄り、子猫を受け取った。

「ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」

エリスは、子猫を胸に抱きしめ、何度も深々と頭を下げた。その大きな瞳には、溢れんばかりの感謝の涙が浮かんでいる。

「気にしないでください。困っている人がいたら、助けるのは当然ですから」

一郎はそう答えたが、内心では「まさか、こんなことで感謝されるとは……」と思っていた。前世では、システムトラブルの復旧は当たり前。感謝されることなど、ほとんどなかったからだ。むしろ、「遅い!」と怒鳴られることの方が多かった。

その時だった。

ゴゴゴゴゴ……

地鳴りのような重低音が、砦全体を揺るがせた。空気は張り詰め、遠くからおぞましい咆哮が聞こえてくる。それは、機械的なノイズが混じった、耳障りな音だった。

「ヴォイドだ! また来たぞ!」

砦の見張り台から、兵士の焦燥した叫び声が響き渡った。

ヴォイド――この世界を侵食する異質な存在。黒い金属のような外殻を持ち、内部には蠢く黒いエネルギーが満ちているという、謎多き敵だ。その侵攻は、最近特に激しさを増していた。

砦の兵士たちは、瞬く間に臨戦態勢に入った。磨き上げられた剣や槍を手に取り、それぞれの持ち場へと駆け出していく。

「佐藤! お前も持ち場につけ!」

小隊長の荒々しい声が、一郎の背中に突き刺さる。一郎も、支給されたばかりの、まだ扱いに慣れない剣を腰に差し、砦の壁へと向かった。

壁の上からは、地平線を覆い尽くすほどの黒い影が見えた。それはまるで、巨大な鉄の塊が地を這いながら迫ってくるかのようだった。その異質な姿は、この世界の生物とは明らかに異なる、無機質な印象を与えた。

「くそっ、こんな大群で押し寄せてくるとは!」

隊長の焦燥した声が響く。ヴォイドの侵攻は、ここ最近頻度を増していたが、これほどの規模は初めてだった。

一郎は、迫りくる異様な光景に、全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。前世では、せいぜいディスプレイの向こう側の仮想的な敵と戦うだけだった。生身の、しかもまるで機械のような敵を前にするのは、生まれて初めての経験だ。

足がすくみそうになるのを、必死に堪えた。ここで逃げ出すわけにはいかない。自分を助けてくれたエリスや、何かと気にかけてくれるリオン、そしてこの砦を守る全ての人々を守らなければ。

「この街の、みんなを守りたい……」

一郎は、心の中で強く願った。それは、具体的な作戦でも、ましてや自分が英雄になろうという野心でもなかった。ただ、目の前の脅威から、この世界の人々を守りたいという、純粋な願いだった。

その時、一郎の意識は、一瞬だけ遠のいたような気がした。まるで、頭の中に無数のデータが流れ込んでくるような、奇妙な感覚。ネットワークのパケットを解析している時のような、情報が洪水のように押し寄せる感覚だった。

次の瞬間、一郎の目の前に広がったのは、信じられない光景だった。

黒い金属の群れに向かって、無数の青白い光線が放たれていたのだ。それは、先ほどエリスが子猫を助けようとした時に放った、不安定で微弱な光とは全く異なる、精密で破壊的なエネルギーの奔流だった。

光線がヴォイドの群れに触れると、金属の外殻は溶解し、内部の黒いエネルギーは霧散していく。まるで、高出力のレーザー兵器で焼き払われたかのように。

一体、何が起こったのか?

一郎が呆然と立ち尽くしていると、隣にいたリオンが目を丸くして叫んだ。

「す、すげえ! あれは一体……!?」

視線の先には、信じられない光景が広がっていた。神殿の方角から、さらに強烈な光線が雨のように降り注ぎ、ヴォイドの群れを次々と粉砕しているのだ。

光の中心には、先ほどまで震えていたエリスが立っていた。彼女の小さな体から、信じられないほどの魔力が制御された光線となって放出され、周囲のヴォイドを正確に射抜いている。その表情は、先ほどの怯えた少女とはまるで別人だった。瞳には、強い光が宿っている。

「こ、これは……一体……」

一郎は、言葉を失った。まさか、あのドジで魔法が使えないはずの少女が、これほどの精密な破壊力を持つ魔法を行使しているとは。

エリス自身も、自分の身に起こっていることが理解できていないようだった。彼女は、ただ茫然と、自分の手から放たれる光線を見つめている。その動きは、まるで長年訓練された魔法使いのように洗練されていた。

「私は……師匠にも見放された、神殿の役立たずなのに……」

エリスの呟きは、風に乗って一郎の耳に届いた。その声には、信じられないほどの驚愕と、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。

一郎は、目の前の信じられない光景をただ見つめることしかできなかった。子猫一匹を助けようとした、無意識の魔法。それが、まさかこれほどの力を秘め、しかも精密な制御まで可能にするとは。

そして、先ほど自分自身に起こった、意識が遠のくような感覚。頭の中に流れ込んできた、膨大な情報。もしかしたら、自分も何か……?

しかし、そんな疑問は、新たなヴォイドの群れが放つ、機械的な咆哮にかき消された。エリスの放つ光線は強力だが、その射程とエネルギーには限界がある。砦全体を守るには、まだ数が多すぎる。

「くそっ、一体どうなってんだ!」

隊長の怒号が響く中、一郎は腰の剣を強く握りしめた。自分に何ができるかは分からない。前世のIT知識が、この機械のような敵に通用するのかも不明だ。

それでも、この状況を打破しなければならない。あの少女が無意識に奇跡を起こしたように、自分にも何かできるはずだ。

東京のオフィスで、数々のシステムトラブルを乗り越えてきた、社畜の底力。それが、今の一郎の唯一の頼りだった。

「やるしかない……!」

一郎は、迫りくる黒い金属の群れに向かって、一歩踏み出した。彼の瞳には、前世のオフィスで深夜までコードを書き続けた男の、静かで強い光が宿っていた。それは、論理と分析、そして何よりも諦めないという、不屈の精神の輝きだったのかもしれない。


(第一話完)





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る