第10話 真実の奥深く
「先輩、なんで美術室に……」
嫌な汗が、全身から一気にあふれ出してきた。
先輩はしばらくつむっていた目を開くと、教室をがらりと開けた。
美術室には、いつもの席に、明莉先輩がいた。
キャンバスの後ろからかすかに、黒いパーカーを着た肩が覗いてる。
見慣れた風景、顔を見るまでもなく、その人は明莉先輩。
扉を閉めた音にびくりと肩を震わせ、キャンバスの影からひょっこりと、そばかすを乗せた丸い顔を覗かせた。
「あ、晴海ちゃん」
明莉先輩の視線は、ゆっくりとわたしのとなりにいる朔夜先輩へ注がれる。
「えっ……お姉ちゃん?」
どくんと心臓が脈打つ。
その言葉は、わたしの心を強く乱した。
今、なんて……。
「晴海。これが、わたしがあなたに黙っていたこと」
先輩はどこかあきらめたような冷ややかな目で、わたしを見た。
「夏川明莉はわたしの血の繋がった妹。そして、この春に死んだ二年五組の生徒」
「うそ」
がたんと椅子を鳴らして立ち上がった明莉先輩が、吐息に笑いを含んで言った。
「お姉ちゃん、なに言ってるの?」
ひきつった笑みで、その顔はひどく青ざめている。
朔夜先輩はその冷たい手でわたしの腕を掴むと、ずかずかと明莉先輩に近づいていき、キャンバスの表に回った。
わたしはそれを見て息をのんだ。
キャンバスは、真っ白だった。なんの色も塗られていない、新品同様のキャンバス……。
明莉先輩の持つ筆にも、パレットにも、絵の具はのっていなかった。
ポケットをまさぐると、そこに入れていたはずの、明莉先輩から借りたハンカチがない。
「明莉の未練は、完成することが叶わなかった一枚の絵。明莉はずっと、幻を見ている。ありもしないものを、まるでそこにあるかのようにふるまっている。それは、死んだことを覚えていないから」
「違う!」
明莉先輩が今まで聞いたことない、悲鳴にも似た声を出した。
「お姉ちゃん、急になに言うのよ。違うよ、そんなの違う!変なこと言わないで‼︎」
「違わない」
朔夜先輩は静かに言った。
「違わないのよ……」
明莉先輩はうなり声をあげ、地面にうずくまった。
「ごめんね、明莉。全部、わたしのせいなの」
「聞きたくない!」
「聞いて」
先輩は明莉先輩の前に屈み込む。そして、両耳をふさごうとした明莉先輩の手を掴んだ。
「明莉。あなたが、放課後のこの時間だけ美術室に現れて、まるで生きてるみたいに絵を描くのを見た。だからわたしは、ショックを与えるだけなら、せめて好きなようにさせてあげようと思っていたの。わたしが黙っていれば、あなたは死んだことを思い出さなくて済む。だけど……」
朔夜先輩は悲しげに眉を寄せ、わたしを振り返る。
わたしは先輩を見下ろしていた。
「そんな日々を送っていたら、明莉とあなたが、仲良く話してるのを見た。楽しそうな明莉を見て、このままの方がいいと判断したわ」
――わたし、今すぐ学校へ帰らなきゃ。悪いけど、家まで送ってあげられないわ。
――大丈夫ですよ。なにか用事ですか?
――そんなところ。
これは、そう。花野原公園の帰り際、先輩との会話。
そうか……朔夜先輩は、明莉先輩を見に来ていたんだ。
「いつか違和感が出てきて、晴海が真実を知り、ショックを受けたとしても、明莉が知らずに笑えていればいいと思った。わたしはあなたより、明莉の心を優先したの」
わたしは黙って先輩を見つめる。
「……最低でしょ、いくらでも罵ってくれていい。わたしは、晴海も、明莉も、傷つけた」
「罵りませんよ」
わたしは屈んで、朔夜先輩と目線を合わせると、ほほ笑んだ。
「ほんとのことを、話してくれたじゃないですか」
そう、真実を、自分の口から。言いづらかっただろうに、しっかりと伝えてくれたでしょ?
「もう、受け入れる覚悟はできていたんです。だから、大丈夫なんです」
わたしは三人分の椅子を引っ張り出してきた。
先輩は明莉先輩を支えて立ち上がらせると、椅子に座らせ、自分もとなりの席に座る。
よどんだ空気が漂っていた。みんな、黙って自分の膝小僧を眺めていた。
それでも、わたしはなにも余計なことは言わなくていい。
朔夜先輩は深呼吸をくり返すと、ゆっくりとかみしめるように、語りだした。
「わたしたちがまだ小学校低学年のとき、両親が離婚した。わたしは母に、明莉は父に引き取られた。小学生にしては離れた場所へ引き離されたけど、同じ小学校だったし、なにより、わたしたちは放課後になるとよく会っていたの」
そこで先輩は深く息を吸って、スカートをぐしゃりと握りしめた。
「わたしと明莉は、容姿のことでよく比較されていた。明莉はそれがきっかけで、からかわれて、いじめのターゲットにされたわ。わたしのいないときをねらってね。本当に、陰湿だった」
先輩は眉をひそめ、吐き捨てるように言った。
「わたしが中学三年に上がって、明莉が一年で入学してきた。みんな、小学校から変わらないメンバーだったからね、いじめは終わらなかった。その上、小学校のときより小さな学校だから、わたしたちの容姿の違いについてのうわさは、すぐに学校内に広まって、明莉をからかうのは上級生にも及んだ。そして、その上級生の中には過激な集団もいて、制服を切られたり、持ち物を隠されたり……いじめはヒートアップしていった。彼らは、自分たちにとって退屈をしのぐ、小さなきっかけが欲しかったのよ」
小さなきっかけ……それが、明莉先輩の容姿。
自然と息が止まっていたのに気づき、ゆっくりと深呼吸をくり返す。
「あるときね」
そのとき、明莉先輩が口を開いた。
「いつもみたいに、上級生がわたしをからかいにきたとき、お姉ちゃんが教室に来て、その生徒の頬を叩いたの。それから他学年の接触は禁止になった。お姉ちゃんは先生にも、学校へ迎えに来たお母さんにもこっぴどく叱られてた。お姉ちゃんは、わたしを守ってくれただけ。なのに……お姉ちゃんまで嫌味の対象になった。お姉ちゃんの評判を地に落としたのはわたしのせい、なにも言い返せなかった、わたしの弱さのせいだ」
明莉先輩はうつむいていた顔を、よりうつむかせた。
「お姉ちゃんはわたしと関わっちゃダメなんだよ。だから、思ってもないことをお姉ちゃんにぶつけて、わたしは逃げ出した。道路に飛び出したそのとき、わたしにトラックが迫ってきていた。最後は、わたしをかばって、お姉ちゃんは……」
明莉先輩はふるふると首を振ると、両手で顔を覆った。
それが朔夜先輩の死んだ理由、明莉先輩の悲痛な胸の内。
わたしは涙が出そうになるのを必死にこらえながら、平静を努めている。
教室の前を通っていく部活終わりの生徒たちの、わいわいとした話し声が、どこか遠くに聞こえていた。
「明莉は自分のことを責めた」
朔夜先輩が言葉を受け継ぐ。
「そばで見てたから、知ってる」
先輩は、明莉先輩の肩をやさしく抱き寄せた。
「ストレスでいっぱいいっぱいだった明莉は、そのタイミングで持病が悪化した。入退院をくり返して、二年生に上がったけど、結局死んでしまった」
死んだ。
その言葉はどしんと、胸の中に重く響く。
すると、先輩は立ち上がり、教室の隅、布のかぶせられたキャンバスに近づき、その布を取り払った。
そのキャンバスを抱え、いまだ椅子の上で顔を覆っている明莉先輩に差し出す。
「これが、あなたの描いた絵よ」
その絵は、太陽の下を二人の少女が手を繋いでいる絵だった。
しかし、全体が薄く、まだ描きかけなのがわたしにもわかった。
それは明莉先輩が幻を見ていた、真っ白なキャンバスじゃなく、本物のキャンバス。
キャンバスは二つあったんだ。
「明莉が描いた絵はずっと、ここに残してあったの。いつか渡したいと思ってた。ごめんなさい、渡すのが遅くなって」
明莉先輩はその描きかけのキャンバスを抱え、声を押し殺して泣いていた。
わたしは見ていられなくなって、目をそらした。
朔夜先輩も椅子に座りなおすと、ただただうつむいていた。
しばらくの間、すすり泣きが冷たい教室に悲しく響いていた。そして……明莉先輩が、真っ赤に泣きはらした目を窓の外に向けた。
つられてわたしも窓に目を向ける。
空はもう暗くなり始めていた。
「ダメだなぁ、わたし」
空を見つめながら、先輩はほほ笑んだ。その笑顔はいつもわたしが見ていた、おだやかな顔だった。
「晴海ちゃんに言ったもんね、受け入れる覚悟が必要だって。情けないよ。先輩のわたしができなきゃ、ダメだよね」
そしてわたしを見ると、やさしげに笑う。ただ――……明莉先輩の頬を伝う、一筋の涙が悲しかった。
「わたしはずっと、お姉ちゃんのやさしさの上で生きて、ここまで来たんだね。今までずっと、ずっと……。それが知れただけで、十分だよ」
「明莉先輩……」
「一つ……先輩からのお願い、頼まれてくれる?晴海ちゃん」
明莉先輩は立ち上がると、キャンバスを持ってわたしの前に歩んだ。わたしも立ち上がる。
「この絵は、晴海ちゃんが持っていて」
先輩は、わたしにそのキャンバスを差し出した。
太陽の下を歩く、長い髪の女の子と、ショートボブの女の子。まだ描きかけでも、その絵は鮮やかで、温かかった。
「安心してください、ちゃんと、大事に持っておきます」
わたしは先輩の目をしっかりと見つめながら、そのキャンバスを受け取った。
「ありがとう」
先輩ははにかんで、フゥッと息を吐いた。
「わたし、顔のことで比較されるようになってから、お姉ちゃんのとなりにいるのが嫌だった。関係ないのに、お姉ちゃんのこと、恨んでたところあったよ」
でも、と明莉先輩は体を朔夜先輩に向けた。
「ほんとは、お姉ちゃんと肩を並べて、堂々と歩きたかった。それができていたかはわからないけど、こうしてまた会いに来てくれて、うれしかった!」
「明莉……」
「実はね、記憶も、ずっと曖昧だったの。昔のことが、特に思い出せなくて。でも、向き合う覚悟をしたからかな、全部思い出せた。ありがとう、お姉ちゃん、晴海ちゃん」
明莉先輩は、わたしと朔夜先輩を抱き寄せた。
抱き返すと、その体は暖かく、まるで生きているようで。
朔夜先輩は、明莉先輩とわたしの体を抱きながら、震えた声で言った。
「……明莉は、わたしにとって唯一無二なの。そばにいてくれるだけで、真っ黒だったわたしの世界は明かりが灯ったように温かかった。わたしのそばを、歩いてくれて、ありがとう」
「……よかった……」
明莉先輩は最後に、にっこりと無邪気に笑う。
「晴海ちゃん」
「はい」
「颯太くんと遊んでくれて、ありがとうね」
「えっ」
どうして――。
そうたずねる間もなく、明莉先輩の体は薄くなり、消えていった。
……あれ?
「成仏したのね」
先輩はそう言ったけど、違う、とわたしの心は否定する。
「おかしい」
「え?」
おかしいよ、だって……。
心臓の鼓動が、速くなるのを感じた。
颯太くんたち家族と、成仏の仕方が違う。
颯太くんたちは、光の粒となってゆっくりと消えていった。でも、明莉先輩は、ただ薄くなって消えた。
この違いに意味はあるのか。わからない。
ただ、引っかかる。
「晴海、どうしたの?」
先輩がわたしの肩に触れて、顔を覗き込んだ。
その手の冷たさに、はっとなった。
わたしは何度も、明莉先輩に触れられてる。頭を撫でられて、さっきだって、抱きしめられた。なのに。
冷たくなかった。
鈍器で頭を殴られたような衝撃が、体を駆け巡った。
そうだ、ゆうれいのはずなのに、冷たくないんだ。
「朔夜先輩……先輩は、明莉先輩が死ぬ瞬間を見ましたか」
先輩は質問の意図がわからない、というようにきょとんとした顔で、何度も瞬きする。
「えっ、いや……見てないわ。どうしてそんなことを?」
やっぱり……。
「先輩……わたしたち、大きな勘違いをしていたかもしれません」
言うなり、わたしは駆け出した。
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