第9話 朔夜先輩
思えばわたしは、朔夜先輩のこと、なにも知らない。
十日以上を、先輩と過ごした。
ミサンガの作り方を調べて……お昼は屋上、先輩のとなりで何気ない話をしながらお弁当を食べ、花野原公園でゆうれいを成仏させ、神経衰弱だってして。
わたしは、もうとっくに、信頼関係を築けていると思っていた。
だって、こんなにも一緒にいた人ははじめてだもの。何気ないことに、たくさん笑いあった人は、はじめてだもの……。
なのに、一番はじめから、大事なことが抜けていた。
――昼間、二年五組のクラスにいなくても、ここで遊んでればいいじゃないですか。
昨日、屋上で先輩に言ったわたしの言葉。
二年五組の生徒じゃなかったのなら……先輩、どうしてあのとき、わたしの言葉を否定しなかったんですか?
わたしは、屋上に続く扉の前に立っていた。
わからないことばかりだった。
わたしの頭はぼんやりとしていて、なんでどうしてという無限の問いがなくならない。
何度目かの深呼吸で、わたしは頬に笑顔を張り付けると、勢いよく扉を開いた。
「朔夜先輩、こんにちは!」
先輩は、柵に持たれて外を眺めていた目をわたしに向け、にっこりほほ笑んだ。
「こんにちは、涼風さん」
少し冷たい風が、先輩の長くつややかな黒い髪をたなびかせている。
高嶺の花みたいな、一花朔夜先輩。
そんな美しい先輩の本心を、わたしは知らない。けど。
わたしは、先輩を信頼してるから。互いにそうだと信じてるから。
だから……先輩の口から聞かせてよ。
「朔夜先輩、わたしは……話下手ですし、聞き上手でもないです。話し相手には向かないかもしれません。でも、なんでも話してくれたら、不器用なりにこたえます。大丈夫なんですよ」
安心させるための笑いがうまくできずに、結果、自分を守るためのへらへらとした笑いに変わる。
内心ずっと、落ち着かなかったんだ。
先輩はそんなわたしの様子から、なにか感じ取ったかもしれない。でも、先輩はわたしから顔をそむけると、小さくつぶやいた。
「……言うことは、なにもないわ。わたしも大丈夫」
その一言で、十分だった。
ぷつんとなにかが切れた音がした。
「先輩、春に死んだ生徒じゃないですよね?」
先輩はゆっくりとわたしを見た。
「二年五組の、花瓶の置かれた席の前に立ってたでしょ?だから、わたしは先輩がその席の持ち主だと思ったんです。でも、違うんですか?」
先輩はなにもこたえない。
わたしは震える声を絞り出した。
「あなた、だれなの……?」
「涼風さ……」
「先輩はわたしのこと、信頼してなかったんですか?」
「違う!わたしは……」
先輩が甲高く叫んだ。
その冷たい手が、わたしの手を握ろうとしたのを……わたしは払いのけた。
途端、頭の中が真っ白になる。
「あ……違うんです、わたし、今ちょっとおかしくて……ごめんなさい」
ほとんど逃げるようにして、わたしは校舎の中へ入っていった……。
*
昨日、今日と、わたしの右手首には緑色のミサンガがあった。
わたしがこの二日、屋上に行ってないからなのか、ミサンガの効果なのか、朔夜先輩のことは見ていない。
学校には長くいたくなくて、放課後は美術室にも寄らずに帰っていた。
――このままで、ほんとにいいの?
わたしの心は言う。
いいわけない。そんなこと、頭ではずっとわかってる。
ぼーっとしていたらあっという間に六時間目の授業は終わり、わたしは別棟から教室へ戻ってきた。
机の上に教科書を置いたそのとき、机の端に、鉛筆でなにか文字が書かれていることに気づいた。
『ごめんなさい。許してほしいなんて思わない。だけど、もう一度だけ、話をする機会をください。わたしを、見てください』
その簡潔な文章は、わたしの胸にひどく突き刺さった。
……わたしは、どれだけ子どもなんだ。
わたしは唇をかみしめると、ミサンガを手から外した。
「こんなの……わたしは……」
このままでいいわけない。
それでも、ほんとのことを知るのが怖い。たった一歩が、踏み出せない……。
わたしは机の縁に手をかけたまま、うずくまった。
転校初日、あんなに痛いほど視線は突き刺さっていたのに……今はもう、わたしが苦しんでいることに、だれも気づかない。
*
放課後、わたしは美術室の扉の前にきた。
ゆっくりと扉を開けると、明莉先輩は今日も窓際の後ろの席にいる。キャンバスから、黒いパーカーを着た肩が覗いているから。
扉を閉めると、キャンバスからひょっこりと顔を出し、にっこりとほほ笑んだ。
「晴海ちゃん!」
先輩の笑った顔、あったかい笑顔……。
瞬間、視界がじわりとにじみ、いびつに歪んだ。
かすんだ視界はもうなにも見えなくなり、嗚咽を漏らしながら、わたしは情けない気持ちで涙をぬぐった。
「どうしたの?晴海ちゃん……」
駆け寄ってきてくれたのだろう、そばで先輩の声がする。
とりあえず座って、と椅子をすすめられ、わたしはそこに座った。
先輩も椅子を引いてきて、わたしの横に座る。
「友だちの手を、振り払ってしまったんです……」
わたしはぽつりとこぼした。
「その子のこと、知ったような気になってた。でも、ほんとはなにも知らなかった」
得体の知れない朔夜先輩のことが急に怖くなって、頭がいっぱいいっぱいになった。
「それで……逃げてしまったんです。でも……」
でも、そうだ。朔夜先輩はわたしの手を握ろうとして……。
「なにか話そうとしていたんだ……」
今になってやっと気づいた。なのにわたしは、手を払いのけた。そのとき、一瞬だけ見えた、朔夜先輩の顔。
その顔は、ショックを受けたように引きつっていた。
思い出して、また涙があふれ出す。
「でも、怖いです……わたし。ほんとを知るのが、怖い」
先輩が黙っていたほんとのこと。
そもそもわたしのことを、友だちだって思ってないのか。
使って、と先輩は白いハンカチを差し出してくれた。
「わたしだって、晴海ちゃんのこと、まだ全然知らないよ。だって、まだこれからだもん。話を重ねるうちにその人のことを知る。そりゃ、知れば知るほど、聞きたくなかったことも増えるかもしれない。仲良くなるとは限らない。でも……」
先輩はじっとわたしの目を見た。
「まずは話をしっかり聞かなくちゃ、どっちにも進めないよ」
わたしはハンカチを握りしめた。
「逃げているときが、一番苦しいんだ。それは、今、晴海ちゃんがよくわかってるはず。その人は話そうとしてくれたんでしょ?なら晴海ちゃんには、どんなことも受け入れる覚悟が必要だと思うな」
受け入れる覚悟……。
先輩はやさしく、わたしの頭をなでた。
「大丈夫だよ、晴海ちゃん」
涙はもう、とっくに止まっていた。
「わたし、行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
わたしは席を立つと、振り返ることなく、勢いよく美術室を飛び出していった。
*
屋上の柵に身を寄せながら、一昨日に起きた出来事を、もう何十回も頭の中でくり返していた。
涼風さんは、明らかにわたしに対して不信感を募らせていた。
当り前だ、大事なことを、ずっと黙っていたんだから……。
わたしには、真実を告げる覚悟がなかった。
時間がたてばたつほど、言えなくなるのはわかりきっていた。
なのに、わたしにはできなかった。
いつか、涼風さんも知る日が来ると、わかっていたはずなのに。わたしが甘かったんだ、わたしがいけなかったんだ……。
あのときの涼風さんの、泣きそうに震えた姿を見て思った。
もう、隠し事はしたくない。あの子に、あんな顔をさせたくない……。
――約束してくれるのかい?
ええ、約束するわ……おじいさん。
涼風さんの顔に、重なったもう一人の人。橙色のニット帽をかぶった、おじいさん。
わたしはつい数か月前の、けれどもひどく遠く、儚かった出来事に思いを馳せた――……。
これはそう、一月も半ばの日……。
おじいさんは、憎しみに染まり切ったゆうれいの背中に手を当て、『もう大丈夫』と言って成仏させていた。
その様子をじっと見ていたわたしに、おじいさんは話しかけてきた。
――きみもゆうれいだね。
――あなたは生者よね。なのに今、ゆうれいを消せた。わたしは消されるわけにはいかないわ。
おじいさんは朗らかに笑った。
――そのようだね。きみにはどうやら、やらなければいけないことがあるようだ。
――消さないの?
――しないさ。それに、これは消してるんじゃなくて、成仏させたんだよ。
――ふぅん……。
わたしはおじいさんのやさしげな顔を見つめ、そして言った。
――……ねぇ、おじいさん。わたし、ゆうれいのことなんにも知らないの。あなたの方が詳しそう。……わたしに教えてくれませんか?
それからおじいさんとは、よく会うようになった。
――孫がね、わたしと同じで、霊感が強いんだよ。ちょうどきみと同じくらいの年だ。
――お孫さん?
おじいさんは一枚の写真を見せ、うれしそうに話してくれた。
――晴海というのだが、この子も成仏させられる力を持っているだろうな。
――どうしてわかるんですか?
――おじいちゃんのカン。
そのときの温かい笑顔を、今でも鮮明に覚えている。
おじいさんは、霊感のある涼風さんのことを、ずっと心配していた。もう守ってあげられないと。おじいさんは、自分の死がすぐ近くにあることを自覚していた。心臓が悪いんだって、悲しい顔で話していたんだ。
――きみがもし、晴海と会うときが来たら……わたしときみが知り合いだということ、あの子には言わないでくれるかい?
――なんで……。
こんなに、その子のことを心配してるのに。そのことを話しちゃいけないの?
――だって、病院を抜け出してここにいたことが、バレてしまうじゃないか。どうしようもないじいさんだと、晴海には思われたくないんだよ。
おじいさんはそう言って、はにかんだ。
――本当に、そのときがきたら……どうか、わたしの代わりに、あの子を守ってくれないか――。
――約束するわ。必ず。
そう、守ってみせる。
……あの約束、すっぽかすところだったわ。ごめんなさい、おじいさん……。
「――本当のことを話そう」
改めてそう決意したとき、運動場の隅に薄暗い影のようなものがのっそりと姿を現した。
わたしは思わず身を乗り出す。
まちがいない、ここ最近ずっとタイミングが合わなくて、成仏させられなかったゆうれいだ。
ゆうれいは、体育倉庫で片づけをしている女子生徒に向かっている。
まずい、接触したら呪われてしまう!
わたしは校舎の中に戻ると、階段を駆け下りていった。
朔夜先輩、屋上にもいなかった……。
わたしは二階の廊下を早足に進みながら、先輩を探していた。
学校にはいないのだろうか?
明日は土曜日、来週まで待てない。今すぐに話したい。
もう少し学校内を探してみようと、きびすを返しかけたそのとき。
「行っちゃダメよ!」
先輩の叫び声が聞こえた。
運動場側からだ!
わたしは窓に飛びつくと、その下にある運動場を覗き込んだ。
朔夜先輩が、三メートルはある真っ黒なゆうれいを前に立ちふさがっていた。
ゆうれいの向かおうとしている先は……体育倉庫。
その中にいる数人の女子生徒が目に入る。
生徒はこちらに背を向けていた。
ゆうれいはちょうどこの真下。
一階まで下りているひまはない!
わたしは迷うことなく、窓枠に足をかけた。
「先輩、受け止めてくださいね‼︎」
「えぇっ⁉︎」
先輩が目を見開いてわたしを見たのがわかったけど、そのときにはもう、わたしは宙を舞っていた。
ゆうれいの大きな背中に飛びつくと、わたしはその背中に手を当てた。
「もう、大丈夫よ」
途端、あたりは白い光に包み込まれ、わたしは背の低いおばあさんの背中に手を当てていた。
温かい空間の中、おばあさんは振り返ると、にこりと笑って……。
「涼風さん!」
はっとすると、わたしは運動場の地面に倒れていた。
先輩が心配そうに眉を寄せ、わたしの顔を覗き込んでいる。
上体を起こしたわたしに、屈み込んだ先輩が言った。
「そんな……度胸があるとは知らなかったわ」
「ほら」
わたしは笑って、先輩を指さす。
「朔夜先輩、わたしのこと全然知らないでしょ。わたしも知らないのよ、先輩のこと、なんにも」
そして、先輩の冷たい制服にしがみついた。
「だからっ……だから、教えてよ」
先輩は大きく息を吸い込むと、そうね、とつぶやいた。
「あなたの言った通り、わたしはこの春に死んだ、二年五組の生徒じゃない。この学校にはね、死んだ生徒が二人、いたのよ」
先輩はわたしの腕を掴んで立ち上がらせると、悲しそうに笑った。
「晴海。話すわ、全部。わたしについてきて」
そう言って、先輩はわたしの腕を引っ張りながら、ある場所に向かった。
「え?」
たどり着いた教室、その扉の前で、わたしの口からは思わず声が漏れた。
そこは、別棟一階、美術室だった。
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