第8話 幸せな家族

 日曜日。

 わたしは颯太くんの家に、自分が飲むだけの水筒と、かるたなどのいろんなカードゲームを持っていった。

 それを見ると、颯太くんは目を輝かせて喜んだ。

 無邪気で、色鮮やかな時間が過ぎた。

 明日は学校だったけど、「また明日も来て」とねだられ、結局遊ぶ約束をした。


 月曜日。

 別棟屋上で、朔夜先輩とゆうれいについての作戦会議をした。

 朔夜先輩いわく、成仏させたいと思っているゆうれいは、現れる時間が深夜だったり夕方だったりする上、現れる場所もあいまいで、特定できないという。

「そのゆうれいが、夕方に現れたら連絡するわ」

 と、先輩の提案で、互いの連絡先を交換した。

 まさか、はじめて電話帳に登録した家族以外の人が、ゆうれいだなんて……。

 ちょっと複雑な気持ちもあったけど、しばらくの間、『朔夜先輩』と書かれた電話帳の画面を眺めていた。

 ちなみにわたしはあいかわらず、お昼ご飯は別棟屋上、先輩のとなりで食べている。

 他愛もない話をぽつぽつとしたり、颯太くんの影響で、学校にカードゲームを持ってきて、先輩と遊んだり。

「先輩、神経衰弱よっわいですね!あはは」

「そんなに笑わなくていいじゃない、ひどいわ」

 先輩は頬をふくらまし、わたしをにらみつけた。

「じゃあこれ、貸しておくんで、神経衰弱、練習しといてください」

「え?」

「昼間、二年五組のクラスにいなくても、ここで遊んでればいいじゃないですか。わたしは相手できないけど」

「……」

 はじめて先輩をはっきりと見たのは、二年五組のクラスでだった。それも、先輩はひどく悲しい顔で自分の机に生けられた花瓶を見つめていた。

 クラスにいるのがつらいなら、ここにいる理由を作ればいい。

 あんな顔はしないで、今みたいに笑っていてほしいから。

「ね。自分の机じゃ、トランプ広げられないでしょ?」

 先輩はアーモンド型の目をより丸くして、しばらくわたしを見ていたけど……そうね、と一言、か細い声でつぶやいた。

 

 放課後は颯太くんの家に行って遊んだんだけど、明日も来てって駄々こねる颯太くんを必死になだめた。

「明日は用事があるから、明後日ね」と。


 火曜日。

 放課後、わたしは明莉先輩のいる美術室へ。

 教室に入ってきたわたしを、先輩はにこりと笑って迎えてくれた。

 丸椅子を引っ張り出してきて、先輩の前に置く。

 これで、キャンバスを挟むようにしてわたしたちは座っていることになる。もちろん、キャンバスの裏側がわたしの席。

 先輩の絵は、完成したら見る約束だから。

「先輩、絵の進み具合はどうですか?」

「うーん、まぁまぁかな」

「楽しみだなぁ、見るの」

「そんなに期待しないでね」

 先輩は照れくさそうに、はにかみながら言った。

「それよりも晴海ちゃん、なんだかやつれてない?大丈夫?」

 言われて、頬に触れる。

「そんなにひどいですか?」

「少しだけだよ。勉強大変なんじゃない?」

「いえ、そんなことないです。それに最近は楽しいことがいっぱいだから……」

「へぇ、いいことじゃん。なに?楽しいことって。彼氏でもできた?」

 先輩が目を細めてからかった。

「違いますよ、そうじゃなくって……」

 そして、わたしは颯太くんのことを話した。

「わたし一人っ子だから、颯太くんと香織ちゃんが、弟と妹みたいで……ほんとに、うれしいんです」

「颯太くん、かぁ……」

 先輩は、なにか考え込むように宙を仰ぐ。

「どうかしたんですか?」

「ううん、なんでもない。話してる晴海ちゃん見てたら、ほんとに楽しいんだっていうのが伝わってきたよ」

 さっきの真面目な表情とは打って変わって、今度は明るい調子で言った。

「だから昨日、ここに来なかったんだ?わたし来るかなーって思ってたのに」

「あ、ごめんなさい。ねだられたから……」

「あぁ、違う違う、別に責めてないよ。その子らを優先してあげてよ。わたしはずっと、ここにいるんだからさ」

 そう言って、先輩はぐしゃぐしゃとわたしの頭をなでると、にこやかに笑った。

    *

 朔夜先輩が気にかけているゆうれいは、まだ夕方に現れないらしい。

 わたしは、昼は朔夜先輩と屋上で。放課後は、颯太くんか明莉先輩のところへ、という日々を過ごすようになった。

 そして一週間がたった。

 今日は雨が降っているから、屋上に続く扉の前に二人座って、わたしはお弁当を食べていた。

 なぜか最近、食欲がなくなってきてる。どうしてだろ、わたし、こんなに元気なのに。

 箸でつまんだトマトが、ポトリと地面に落ちた。でも、拾う気力もない……。

「……さん、涼風さん!」

 ぱん、と冷たい手がわたしの頬を、両手で包み込むようにして軽くたたかれた。

「しっかりしなさい」

「はい?」

「昨日より顔色がよくない。なにかあったの?」

 先輩の凄みのある声が、どこかかすれてうっすらと聞こえた。

「別になにも……」

「少し前から不安そうな顔をしてた。それとなにか関係ある?」

 先輩がかぶせて言った。

 わたしは頬を掴まれながら、もごもごとしゃべる。

「あぁ違います。あれは……そう、不思議な夢を見ただけですよ」

「どんな夢?」

 わたしの顔に、先輩はぐいっと自分の顔を近づけた。

 うろたえるわたしに、その先輩の鋭く刺すような視線は痛くて。

 わたしはゆっくりと、夢の内容を話した。

「……日に日に、その子との距離が近くなっているのね」

「でも、もう夢は見てないんです」

「いつから?」

「花野原公園に行った、その日からです。わたし、たしかめようとして、帰りにその公園へ行ったんです。そしたら、夢と同じように男の子がいて、迷子だって言うから、家まで送ってあげました。たぶん、わたしはどこかで颯太くんを見たことがあったんです。それをあの公園と混ぜてしまって、あんな夢を見たんですよ。だから大丈夫ですって」

「もう一人では、その家に行ってないでしょうね?」

 先輩はわたしの言葉を無視して言った。

「いえ、二日に一回くらい遊びに来てって誘われてるので、行きました。今日も遊びに行く予定ですけど……」

 すると、朔夜先輩は再びわたしの頬を掴み、鼻と鼻がくっつきそうなくらいに引き寄せ、じっとわたしの目を覗き込んだ。

 その様子は、まるでわたしの瞳のずっと奥にあるなにかを、見定めているようだった。

「呪われている」

「へ?」

「だから、涼風さん、あなた呪われてるわ」

 言葉の意味がよくわからなかった。しばらく固まって、ぼーっとした頭の中で先輩の言った言葉を何度も繰り返し、そして……。

 呪われている。

 先輩のその一言は、脳に低くこだました。

「なっ……」

 なんで?

 そんな言葉は、のどに突っかかって出てこなかった。

「涼風さん、今日の放課後は、わたしもその子の家へ連れて行って」

    *

 放課後。

 ぽつりぽつりと雨の降る中、先輩はわたしの前を早足に歩いていた。

 わたしはその速度に合わせられなかった。ふらふらと、置いて行かれないように歩くのが精いっぱいだった。

 呪われてる?なんで?なんで?

 そんな疑問が、頭の中を渦巻いて離れなくて……。

 そしてとうとう、その荒れた赤い屋根の家に着いた。

 先輩はインターホンを押した。

 音は聞こえないけど、いつものようにお母さんが扉から顔を出した。

「どちらさま?って、涼風さん」

 こんにちは、とわたしは言ったけど、声がうわずった。

 そしてお母さんは先輩を見ると、息をのんだ。

「あなた……」

 先輩はなにか言いかけたお母さんを押しのけ、土足で家に上がっていった。

「ちょっと、先輩!」

 ごめんなさい、とお母さんに言って、先輩の後に続いて家に上がる。

 家の中にはお父さん、香織ちゃん、颯太くんが、ダイニングテーブルに着いていた。

 三人とも、驚いた顔でわたしたちを振り返る。

 お母さんも、慌ててわたしの後についてきた。

「あなたたち、ゆうれいね」

 みんなの顔を見て、先輩は言った。

「さ、朔夜先輩……」

 なんの冗談……。

 そう言おうとして笑ってみたけど、顔が引きつった。

「みんな、死んでる」

「っ……」

 やめて‼︎

 わたしは声にならない叫び声をあげた。

 先輩、そんなの聞きたくないよ、わたし……。

「普通の家じゃないですか、こんなにきれいで……」

「幻よ。よく見て」

 すかさず先輩が鋭く言う。

「幻……?」

 そして、まばたきした次の瞬間、わたしはその光景に目を見開いた。

 そこは、廃屋のようだった。

 床や家具にはほこりが積もり、ところどころにクモの巣が張っていた。

 わたしは呆然と室内を見回した。

「涼風さんは、幻を見せられていただけ」

 家族に目をやると、みんな真顔でわたしを見ていた。その目はひどく冷たく、背筋が凍った。

 途端、わたしは体に力が入らなくなり、そばにあった棚によりかかる。

 手のひらに、べったりとほこりがついた。

「……涼風さん、あなたも本当は心のどこかで気づいていたんじゃない?」

「え……」

 ――そう、違和感はずっとあったでしょ?

 わたしがわたしに問いかける。

 鳴らないインターホン。出された飲み物は味がしない。わたしがあげたお菓子にはだれも手を付けない。平日なのに、いつも家族全員がそろっていた。

 そしてなにより、家に帰ってきたら、くつ下が黒く汚れていた。

 それらをわたしは見ないふりした。

 だって、その事実はあまりにも、ショックだから。

「六年前だよ。ぼくらが死んだのは」

 だれも話し出さない中、一人の男の子が口を開いた。

 わたしはその子を見る。

 颯太くんは、椅子から立ち上がり、わたしを見上げて立っていた。

「颯太くん……」

「土曜日だった。パパがお休みで、みんなで出かけた帰りの夜だった」

「わたしたちの乗っていた車は、居眠り運転していたトラックに正面衝突されて、みんな死んだのよ」

 お母さんが颯太くんのとなりに回って言った。

「ごめんなさいね、うそついてて。あなたが怖がると思って、ゆうれいだなんて言えなかった。みんな、幸せな時間を過ごすことが未練だったのよ。颯太だけがここにいなかったけどね、どこかに颯太がいるって、なぜか確信があったわ。親のカンね」

「ぼくもだよ。ママたちが家にいるって信じてた」

 言いながら、颯太くんはうっすらと笑った。

「でも、ここからは出られなかったから、探せなかった」

 お母さんが颯太くんを見つめながら言う。

「颯くん以外はみんな、この家に縛られてるからね」

 香織ちゃんが立ち上がって、颯太くんのとなりへ歩きながら言った。

 わたしの頭に、『地縛霊』という言葉がうっすらと浮かんだ。

「ぼくね、死ぬ前、クラスで友だちが作れなくて、放課後はよくあの公園にいたの。そしたら、ぼくに話しかけて、一緒に遊んでくれる一つ年上の女の子の友だちができたんだ。ぼくのはじめての友だち。すっごくうれしかった。でも、その子は急に来てくれなくなったし……」

 颯太くんがポケットから、なにか取り出す。

 それは、あのくしゃくしゃになった入学式の写真だ。

「その公園で、この写真を落として帰っちゃったんだ。友だちと家族の写真、それが心残りだった。だから、ぼくだけ目が覚めた場所、違ったんだと思う」

 颯太くんが、公園で言っていた言葉を思い出す。

 この写真はお守りだと。

 やわらかなまなざしで、写真を見つめていたこと。それに……。

 ――ずっとずっと待ってたけど、もう来ない。だから、もういいんだ。

 あの悲しい言葉も。

「みんな消えることもできないまま、颯太がいない理由もわからないまま、時間だけが過ぎた。そうしたら、生者であるはずのあなたが、颯太を連れてきてくれた」

 そう言いながらお父さんは立ち上がると、家族の元へ歩き出し、颯太くんの両肩に手を置いて続けた。

「あなたにこの子の友だちになってほしくて、遊びに来るよう強引に誘った。でも、欲が出たんだね。あなたと過ごすうち、生きていたころを思い出して、もっともっと、このまま過ごしたいって」

 お父さんとお母さんはほほ笑んで、顔を見合わす。

 先輩は黙ってそんな家族を見つめていた。

 わたしはなにも言えなかった。

「今まで、ぼくのことが見える子なんていなかったんだ。でも、ハル姉ちゃんがぼくを見つけてくれた」

「それは、夢を見たから……」

 夢?と颯太くんがきょとんと首を傾げる。

「あなたが、あの公園にいる夢よ」

 先輩が代わりに答えてくれた。

「それは、たぶんだけど……」

 先輩はしばらくあごに手をやって目をつむると、颯太くん、と言った。

「あなた、だれかに自分を見つけてほしいって、ずっと祈ってたんじゃない?」

「え、なんでわかるの?」

 颯太くんが目を真ん丸にして、先輩を見つめた。

 やっぱり、と先輩はうなずく。

「遠くにあったその祈りが、霊感のある涼風さんにかすかに届いていた。涼風さんは意識していなかったけど、無意識に拾っていたのね。それがあの夢という形で現れた」

 わたしは先輩の説明に納得しつつも、どこか今の状況が夢みたいにふわふわとして、実感がなかった。

「ぼくはね、帰りたくて……やっとぼくを見つけてくれたハル姉ちゃんに、助けてって言った。だんだん遊んでくうちに、ハル姉ちゃんともっと一緒にいたいって思った」

 でも……と颯太くんは言った。

「ほんとは、ほんとは……ハル姉ちゃんにママたちを成仏させてもらいたかったから、遊びに来てって言ったんだ」

 颯太くんは力いっぱい目をつむった。

 ごめんなさいと、小さくつぶやいて。

 あぁ、そうだったのか。颯太くんは、そんなことを考えて、悩んで、わたしといたのか。

 この子は、本心ではわたしが思っているよりもずっと、家族思いで、大人だった。

 なにも知らずに、のんきに兄弟ができたみたいだと笑っていた自分が、途端にちっぽけに見えた。

 ――けど、そんな気持ち、悟らせちゃいけない。

 わたしは颯太くんを落ち着かせるために、精一杯笑った。

「大丈夫よ」

 もう悩まなくていいんだよ、と。

 それでも颯太くんは、きつく唇を噛んでうつむいていた。

「――ハル姉ちゃんが颯くんを連れてきたあの日、みんなで話し合ったの」

 香織ちゃんがわたしをまっすぐに見つめ、口を開く。

「あたしたちがハル姉ちゃんに触れたら、ハル姉ちゃん、気づくでしょ?冷たすぎるから、ゆうれいだって。だから、なにがあってもハル姉ちゃんには触らないようにしようって。不自然のないように、みんな飲めないけど、それぞれ飲み物を用意したりしてさ」

 そうだったんだ……。

 はじめて、香織ちゃんに会ったときのことを思い出す。

 握手をしようと差し出したわたしの手を、握らずにそのままお父さんの影に隠れた。

 あれは、恥ずかしかったんじゃなくて……。

 再びわたしたちの間には沈黙が下り、空気が冷たくなった。

 みんな、思いつめたような顔をしていた。

「……涼風さんのこと、あなたたちが呪ったの?」

 先輩がぼそりとつぶやく。

 問い詰めたような声の厳しさ、はじめて聞く、先輩の声だった。

 その声に、わたしはうつむいていた顔を上げる。

 先輩は、家族をにらんでいた。

 先輩……。

 口を開きかけたのを、颯太くんがさえぎった。

「ごめんなさい!ぼくだよ。ハル姉ちゃんのこと、うらやましいって思っちゃったんだ。生きていて、まだいろんなことができる、そんなハル姉ちゃんのことを。それが、呪いになっちゃったんだね。ごめんなさい、ハル姉ちゃん」

「わたしたちも……ごめんなさい」

 お母さんにお父さん、香織ちゃんまで、あやまって頭を下げた。

 颯太くんの肩はぶるぶると震えていた。

 わたしは颯太くんに歩み寄ると、その髪までひんやりと冷たい頭を、ぐしゃぐしゃとかき回した。

「いいんだよ」

 わたしがにっこり笑うと、颯太くんは瞳をうるませて笑った。

「全く、甘いわね」

 先輩はあきれ顔。

「いいじゃないですか、先輩。真剣にあやまれたのなら、それで」

「まぁ涼風さんがそれでいいのなら、わたしはもうなにも言わない」

 そう言うと、先輩はいたずらっぽく笑ってわたしを見た。

「ありがとうございます、先輩」

 わたしがほほ笑むと、張りつめていた空気が、和んだのがわかった。

 ――そのときだった。

 四人の家族の体が透け、泡に包まれ消えていくんだ。

「え、どうしたの⁉︎」

「……未練が解消されたんだわ」

 驚くわたしとは反対に、先輩は冷静に言った。

「成仏するのよ」

 はじめこそ不思議そうに自分の体を見つめていた四人は、ふっとおだやかな顔をして、わたしを見た。

 そして、お母さんが口を開いた。

「……幸せだったわ。家族との時間も、涼風さんが加わった時間も、全部。ありがとう」

「あたしも、颯くんは帰ってきたし、ハル姉ちゃんがいて楽しかったし」

 香織ちゃんがにこりと笑った。

「わたしも……楽しい時間をありがとう、涼風さん」

 と、お父さんがやさしい声で言う。

「ハル姉ちゃん、ぼくらを助けてくれて、ありがとう!ハル姉ちゃんが会いに来てくれて、よかった!」

「――うん、わたしも会えてよかった」

 颯太くんは、わたしにぎゅっと抱きついた。

「ハル姉ちゃん、ぼくね、あの公園で遊んだ、はじめての友だちに、生きてるころ手紙書いてたんだ。できるなら……その子に渡してくれないかなぁ?」

 遠慮がちにたずねる颯太くんにわたしは笑いかけ、頭をやさしくなでた。

「いいよ。なんて言う子なの?」

「あかりちゃん、だよ。ハル姉ちゃん、ほんとにありがとう……」

 颯太くんが無邪気に笑ったとき、光の粒となって、みんな消えていった。

 すると、足元でぽとりとなにかが落ちた。

 拾い上げてみると、ロケットなどがかわいく描かれた手紙だった。

 あかりちゃん。あいかわらずヒントが少なくて、颯太くんらしい。

「……しょうがないなぁ」

 わたしは思わず笑みを浮かべた。

 それにしても、あかりちゃん、か。

 思い出したのは、美術室の明莉先輩。偶然の一致?それとも……。

「さぁ、涼風さん。もう帰りましょう」

 その言葉で、わたしの思考は中断された。

 先輩にうながされ、外に出る。

 雨は止んでいたけど、空はあいかわらずの曇り空。

 わたしは庭の枯れたアジサイを、じっと見つめた。

 ――涼風さん知ってる?アジサイの花言葉。家族団欒というらしいわ。だから、はじめに植えるならアジサイだって決めてたの。

 もう枯れてしまったはずのアジサイのことを、笑顔で語っていたお母さんを思い出す。

 ……そうか、枯れてるんじゃない。お母さんの中では、アジサイは今でも鮮やかに咲いているんだ。

 たった一つの、あの家族のように、今も幸せに笑っている。

    *

「ただいまぁ」

 わたしの声は聞こえなかったのか、返事は帰ってこなかった。

 先輩に送ってもらって、わたしは家に帰ってきた。

 玄関には革靴とサンダルがある。お父さんとお母さんのだ。

 そういえば、今日はお父さん、帰ってくるの早いって言ってたっけ。

 リビングの扉を開けようとすると、中から二人の話し声が聞こえ、その内容に、わたしはぴたりと動きを止めた。

「……晴海と同じ中学の子が春に死んでたって、知らなかったよ、おれ。母さんは知ってたのか?」

「転校するときにご近所さんから聞いたの。でも晴海に言ってないわ。……かわいそうにねぇ、その子、病死だったんでしょ」

「病死じゃない。それ、違うよ」

 気づいたらわたしは扉を開けて、二人に言っていた。

 キッチンでご飯を作っているお母さんは顔を上げ、ソファに座っているお父さんは振り返った。

「なんだ、帰ってきてたのか」

「病死じゃないよ、違う、事故だよ」

 わたしは淡々と繰り返した。

 合ってるはずだ、だって、朔夜先輩と自己紹介を交わしたあの夜、先輩はたしかにそう言っていた。

「え?いや、おれも母さんと同じ、病死だったって聞いたけどなぁ」

 ドクンと心臓が脈打った。

 ひどい胸騒ぎがした。

 早くそれをぬぐってしまいたかった。

「朔夜って人だよね。一花朔夜」

 いいや?とお父さんが言った。

「フルネームは覚えてないけど、たしか、苗字は夏野だった気が……」

 全身に稲妻が走ったようだった。

 わたしは引き返してリビングを出ると、自室に入る。

 閉めた扉に背をぺたんとつけて、わたしは動けずにいた。

 わたしはてっきり、朔夜先輩が二年五組の花の生けられた席の前に立っていたから、この春、そのクラスで死んだのは朔夜先輩だとばかり思っていた。

 でも、死んだ人は病死、そして苗字は夏野……。

 わたしはぼんやりと、壁を見つめた。

 じゃあ、あの人は、一体だれ……?

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