1-10【霹靂】
告げられた場所に向かう京極の手には黒いボストンバックが握られている。
その目はどこか仄暗く、夕刻の曇天と同じ色をしていた。
人混みの中をすり抜け、さらに影の色濃い路地へと滑り込む。
そんな男を気に留めるものなど今も昔もほとんどいない。
他人に無関心---というより己のことで手一杯なのはアポカリプス戦争以前も今も変わらないのだろう。
ただそれが自己の幸福に向けられていたか、生存のためかという一点を除いて。
変貌した世界には死の影が付き纏っていた。
それは今まで無かった悪魔の脅威が追加されたせいというよりも、常識は容易く崩壊するというのを目の当たりにした影響が大きい。
それは京極とて同じことで、もう日常には戻れない哀愁じみた諦観を噛みしめながらボロアパートの階段を見上げていた。
ゴウン……ゴウン……と馬鹿に響く薄っぺらい錆びた階段を上り、三階の廊下に立つと、男は目を閉じ耳を澄ます。
スルスルと見えない糸が男から伸びて、それはやがてピィン……と張りつめた。
糸電話のように音を拾い集めるソレの正体を京極自身は知らない。
ただ気が付いたころには身についており、そういうものかとすんなり受け入れた。
捜査の役に立つソレを男は気に入ってすらいたが、契機が訪れたのはいつだっただろうか?
手にしたバッグを見据えて思い返す。
何かを思い出しそうになった時、相良哀のはにかむような笑顔が浮かんだ。
馬鹿馬鹿しい……オジサンが何を期待しているのやら……
頭を振ったと同時に、糸の一本が嫌な音を拾った。
押し殺したような子どもの嗚咽。
いつもそうだ。
子どもは被害を訴えない。
暴虐と不条理に適応しようとする。
歪んだ愛に応えようとさえ。
ぷつん……と糸が切れた。
十分だった。
男は糸の繋がっていたドアの方につま先を向け静かに歩き出す。
インターホンを鳴らすと、警戒心と不自然な静けさが部屋の中を埋め尽くすのが分かった。
やがてチェーンロックを掛けたドアがゆっくりと開き、中から白いタンクトップとトランクス姿の太った中年男が顔を出した。
「何の用だ? 誰だアンタは?」
「荷物を預かってる。それだけだよ。お楽しみのところ邪魔したね」
そう言って京極はボストンバックをドアの隙間にねじ込んだ。
厭な臭いがした。
殺人現場でも感じたことのないような、腐った臓物を焦がしたような臭い。
けれどこの手の現場ではなぜかいつもその臭いがする。それで京極は確信しる。
情けは必要ないのだと……
京極のつま先から一本の糸が伸び出して散らかった部屋の中を分け入っていった。
それはベッドに拘束された少女のもとまでたどり着くと、するりとうなじに紛れ込む。
にやりと京極が口角を上げると、男はドアの隙間から腕を出して京極の胸倉を掴んだ。
「気持ちのわりぃ野郎だな⁉ 殴られたいのか⁉」
「いいや。痛いのは御免だね」
京極は両手を上げてボストンバッグを顎で指した。
「同好の士さ。良いものが入ってるから使うといい」
男は京極の胸倉を掴んだままバッグの中身を確認し怪訝な顔を浮かべたが、掴んだ手を放してバッグを脇に抱えた。
「気が利くじゃねえか……だがなんで気づいた?」
「多分同類なんだろうね」
男はその答えに納得したのか下卑た笑みを浮かべ、バッグの中から凶悪な形の玩具を取り出し振って見せた。
「お前も楽しんでいくか?」
「あいにくシャイなんだ。一人の方がいい」
京極が肩をすくめてそう言うと、男は肩を震わせて「違いない」と笑った。
別れを告げて京極は男に背を向ける。
その目はもはや曇天の鈍色ではなく、霹靂のように青く燃えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます