弐七ノ舞
集合場所の研修室二階へ続く階段に足をかけようとすると、ぽこんと背後から頭を突つかれる。俺は驚いて振り向くと、眉毛が十時十分に吊り上がった鬼女が扇子を片手に鼻息荒く俺を睨んでいた。
「乙葉さん?」
「先生に可愛がられているからって、調子にのるんじゃないわよ、この破廉恥。なによ、試合前にあやしてもらって顔面弛緩状態で勝てると思ってんの?」
「見て……たんですか?」
「見て? じゃないわよ、先生がどれだけの存在かわからないの? 注目集めるに決まってるじゃない。それなのに院の前でデレデレして」と吐き捨てるように乙葉は言うと、俺の頬を摘まんで引っ張る。「この歩く破廉恥」
「僕はなんもしてないですよ」俺は完全なトバッチリに抗議する……が。
「そんなことわかってるわよっ! 心配したわたしがバカみたい」
予想外の言葉を口にしたため、俺は眉が十時十分に吊り上がったままの乙葉を見返す。
「心配……じゃない。あんたの泣きっ面見るためにワザワザ院にきてやったのよ」
「見に来てくれたんですか?」
「別にあんたを見に来たわけじゃない。いずれわたしの敵になる相手の調査にきたのよ。まぁ、ついでに先生の弟子の指し回しも見てやろうとね」と、言って彼女は扇子をパチパチしながら調律を取る。「速報で見た、一次はストレート、全勝だってね」
「はい、なんとか」
「なんとかで、全勝は無理よ」
思いのほか乙葉のトーンは普通で、心なしか微かに感心するような声音だった。
「お師さんや、研究会のみんなのお陰です。この一月で信じられないくらいに棋力があがりました。僕だけではここまで来れなかったです」
「当たり前よ、先生のお陰に決まってるでしょ」乙葉そういって扇子を広げ二、三回風を薙いで続けた。しかし「でも……」と、乙葉は言いかけて言葉がとまる。
俺たちは対峙して2、3秒見つめあう。互いに掛ける言葉が見つからず、気恥ずかしさを感じ乙葉が口を動かそうとしたその瞬間だった。
「船坂くん」と、いう聞き慣れた声が俺の耳に入り、振り向くと声の主が俺に駆け出し、飛び付くように抱きついてきた。
「伏見か、久しぶりだな」
「うんうん、船坂くん、よかった。しばらく会えなかったから、心配で心配で」と、言って伏見は俺の手を握ると嬉しそうに言った。「一次突破おめでとう一緒に二次試験受けれるね。聞いたよ、一次全勝だったって、船坂くんの実力なら当然だよ。二次試験からでもいいくらいなんだから」
「おまえと違ってタイトルホルダーじゃないんだから、仕方ないね」
目をキラキラさせて語る伏見。こんなにはしゃいでいる彼も珍しい。なお突然の横槍が入って固まる乙葉は、混乱しているようだ。その様子に気がついた伏見は俺に問う。
「あぁ、ごめんなさい、僕取り乱してしまって、船坂くんこちらは?」
「あぁ、俺が世話になっている師匠の研究会の……」
「Boy,この男前紹介してよ」伏見の後ろから大きな声を発して、俺の頭一高い金髪の女性がゆっくり近づいて言った。
「あぁ、姉さん」
「姉さん?」
伏見の頭に手を置いた緩くロールのかかった金髪の女性。ピンクのリップを塗った厚い唇に、宝石のような碧眼が、なにやら非日常の空間を構築していた。体型はこれまた、米国西海岸という感じのビキニを着たら、さぞかし映える凹凸のキツい見事なグラマラスボディだった。
「あなたがBoyの言っていたライバルね。わたしは女流棋士のジュリア・U・ニシよ。ボーイ……このシンカイの姉弟子っていうところ」
ジュリア・U・ニシ女流二段、日系四世の米国人だ。日本国籍以外で初めての女流棋士で、デビュー時は金髪の女流棋士として脚光を浴びた。確か、父親が米空軍の高官で横田の基地暮らしと将棋帝国の特集記事で読んだ。なお、この特集号は彼女のピンナップ写真が多数掲載されているせいか、バックナンバーの在庫がなくなり、一部では高額で取引されていると聞いたことがある。
成績も上々で、昨年は確かお師さんのもつ桜島咲耶のタイトルに挑戦し、対局には敗北したものの女流二段に昇段した。今台風の目といっていいニューウェーブの女流棋士だ。
「はじめまして、栗林女流六段門下の船坂修身と申します」
「栗林先生の門下とはね……一次試験からちょっとした有名人になっているわ、あなた。もっともBoyからあなたのことだけはよく聞かされていたけれど、なんでも四間飛車の達人で『帝(ミカド)殺し』の再来だって」
「そ、そんな、過大評価もいいところですよ」
『帝(ミカド)殺し』俺が最も憧れる振り飛車棋士、石原零志九段の異名だ。
帝(ミカド)殺しとは、前世紀末に前人未踏の七タイトルを達した当時の有栖川七冠に対し、『ゼロシステム』と呼ばれる先鋭的な振り飛車戦法を用いて、棋界の序列最高位の名人と比肩する聖帝のタイトルを奪取し、有栖川七冠の不敗神話を打ち砕いた棋士の異名だ。その後、三期連続で打倒石原に燃える『皇帝』有栖川の追撃をはね除けた。『皇帝』の挑戦を三期連続で防衛したのは、史上石原九段のみだ。
四間飛車を百年進化させ棋界を制した『ゼロシステム』をたった一人で開発、定跡化し、全盛期の皇帝を撃破した功績から皇帝を殺した男『帝(ミカド)殺し』と呼ばれた。事実、「皇帝」は石原九段に敗退後、「感覚を破壊された」という言葉を残し、6冠から、棋相、賢聖、覇王、棋仙の4タイトルを失陥することになった。
名実ともに有栖川名人と並ぶ棋界の頂点に極めた聖帝石原(聖帝位のみ姓の前に付け呼称することが定められている)だが、その後、棋士の序列を決める序列戦において最高ランクのA級だった聖帝石原は、『皇帝』を筆頭とした居飛車党による石原包囲網によって窮地に立つ。
石原九段の開発した四間飛車戦法『ゼロシステム』は、居飛車党の猛者たちによって徹底的に研究攻略され、ついに石原は『皇帝』より聖帝位を追われ、序列戦A級から陥落、石原包囲網は激烈を極め、序列戦最下クラスのE級にまで落とされ、終わった棋士の烙印を受けた。が、石原九段は新たな四間飛車戦法を開発し、再びA級へと這い上がってきた。A級からE級に陥落した棋士も、そこからA級に返り咲いたのも棋界の歴史上、石原九段ただ一人。その偉業から『生還者(リターニングマン)』と呼ばれるようになった。
俺がリアルタイムでみた石原九段は『生還者』と呼ばれたこの頃。そして石原九段が再起の原動力となったのが、棋界では下法とされった全く評価されることのなかった角交換四間飛車だ。アマチュア界で生まれたこの戦法を一人で定跡化し、「ゼロシステム」に続いてまたしても振り飛車の歴史に新たな1ページを加えた。
「わたしも、栗林先生と同じ振り飛車使いだし、あなたの指し回し、参考にさせてもらうよ」
「参考になるかどうか……ははは」
俺は碧眼の眼差しに真っ直ぐ見つめられ俺は気恥ずかしい気分になり、誤魔化すように苦笑した。そんな俺の肩に重く熱のこもった衝撃が走り、俺は振り向く。俺とお師さんが仲良さげにしていた時の顔を遥かに超える形相で俺を睨む乙葉の姿があった。
「修身、この男の子のこと紹介してくれない? 噂に聞く小学生名人よね」
「えぇ」俺は返事すると伏見に視線を送る。
「僕も改めて自己紹介を……初めまして、船坂君の『親友』の伏見真改です」
伏見は何故か『親友』を強調するかのように言うと、姿勢を正して乙葉に視線を向けたので、俺は間に入って乙葉を紹介しようとする。
「伏見、こちらが……」
「そうだ、Boyは修身とVSしてるんだって? 折角だし研究会をしてみない? ねぇ、Boyに修身、いいでしょ?」と、少しボリュームを上げてニシ女流が乙葉の話題を上書きするように言った。しかし、その視線はもはや俺たちには向けられておらず、相手を射殺すかのような視線で乙葉に向けている。
乙葉の俺の肩の置かれた手が硬直し肉を摘み取るかのように爪を立てる。「あいたたたたたたた!」と、俺は思わずその痛みに喘いだ。
「わたしは修身と一緒の研究会で世話になっている天羽乙葉奨励会二級よ。よろしく、伏見くん」と、その声音は今まで聞いたことがないほど優しいトーンだった。が、ニシ女流の殺人視線に対し怯むことなく、舐め回すように視線をニシ女流に投げる。
「……はい」と、間を置いて返事した伏見も俺たちの周囲に漂う異様な空気に圧倒されたかのように、緊張した面持ちだった。
「Oh Fuck……耳障りな音だね。神経を逆撫でするような下品な音がしやがる」
「何か臭うわね……何この男に媚びるような下賤な臭いは? 性を剥き出しにして品性もなにもあったものじゃないわ。お里が知れるわね」
「奨励会で泣かず飛ばず成績でデカイ面で院内彷徨くんじゃねーよ。なにがSAMURAI Girlだ、年下の男誘惑して、YOSIWARAにでも輿入れしろこのBitchが」
「7級で退会して、一丁前に棋士きどってるんじゃないわよ。男誘惑してるのはあんたでしょ、下品なホルスタインみたいな体を強調して歩かないで、ここはハーレムじゃないってのどこのコールガールよ」
「Bull shit」
「ここで決着つけてもいいのよ?」
掴みかからんと鼻息荒くたぎる二人の間に俺と伏見は慌てて入る。
「ひがむんじゃないよFlat chestがっ」
「うぅぅっ」
俺はニシ女流の本場発音のフラットチェストを聞き爆笑寸前だったが、堪えて乙葉の前に入る。「乙葉さん、ここは院の中だ」
「姉さん、落ち着いてください」と、俺の動きに呼応して伏見もニシ女流をあやす。
俺は伏見に視線を送ると、彼も頷いて、互いに距離をとってお互いの視界から消えた。
「乙葉さん、落ち着いて」
「落ち着いていられる、あの女っ」
いつもの様子とは全く異なり乙葉は熱くなりすぎていた。ライバル関係だというのは将棋帝国を読んで知っていたが、混ぜるな危険クラスを遥かに超えて接触厳禁だ。
「なによ、修身まで巨乳がいいわけ?」
――えっ……どういうこと?
論点がずれている。
「いや、どういうことですか?」
「なによ、あんたまで憐れみの目でみてるんでしょ? この破廉恥! これからまだ成長する可能性はあるでしょ!」と、言って顔を真っ赤にしていう乙葉の目に涙が浮かぶ。
「乙葉さん、俺は何も」
「うるさい、先生の胸の中でニヤニヤしてたし、今も視線がそう言ってるっ」
想像を超えた事態だった、フラットチェストという言葉は、乙葉の最もデリケートな心理面を刺激する言葉だったようだ。乙葉の顔は真っ赤になり、涙を必死に堪えているが、あふれだす感情を押し留めることができず、体は震え頬を涙が頬を伝い顎先に滴が光る。
ある意味で衝撃的だった、気が強いというのか自信の塊のような印象の乙葉がこの程度、いや彼女にとってはこの身体的な問題というか課題は我慢できぬ弱点だったのだろう。誰しも弱点というか、弱さは抱えてるものだ。自分にとってはどうでもよい「たかだか~くらい」のこの「~」の部分は当人にとって、重要性は千差万別、極度に個人差がある。
「なによ……ないのは仕方ないじゃない……わたしだって色々……」
俺は信玄袋から慌ててハンカチを出すと、乙葉の流れる涙を拭う。その瞬間堰を切ったように、俺の胸に頭突きをかましてきた。
――おぅぐぅゅ……
一瞬、呼吸がとまり酸欠になった俺は息を吸い込む。俺の胸頭突きをかましたままの乙葉の髪から、彼女の濃厚な甘い香りがひろがり俺はむせた。
「胸が小さいことくらいわたしが一番知ってるわよっ、体のことはどうしようもないじゃない、それを体のことを言われると、悔しくてどうしようもなくて……」
堰を切ったように乙葉の言葉が俺に投げかけられる。
――泣きたいのはこっちだぜ……
俺は今から二次試験で本来なら瞳を閉じて精神統一をしたいくらいだと言うのに、予想外の事態だ。
声は出なかったが、体を小刻みに震わす彼女をあやす俺たちの姿を見て、関係者らしき人々が怪訝そうな顔を浮かべ通りすがりに視ていく。
――目立ちたくないってのによ……
「乙葉さん、気にし過ぎだよ。その……人それぞれ好みがあるんだから……」
「うるさい、先生のおっきい胸でニヤニヤしてたくせに」
確かに、個人的には巨乳が好き、というか俺の周囲には巨乳しかいなかったということもありそれが普通というか基準と言える。しかし、それが絶対的な条件でもない。
「居飛車と振り飛車と一緒ですよ。居飛車好きな人もいれば、振り飛車好きもいるわけですし」
「修身は小さいほうが好きなの?」
「好きとか、嫌いとか……」
「なによどっちつかずの答え何てあてにならないわよ。やっぱり、ないと相手にも入らないじゃない」と、言って拳で俺の胸を叩く。振動が体に響く、
――い、痛い……
俺は今日、新鋭棋士奨励会の入会二次試験に来たというのに、何故将棋とは関係のない話題で悩んで泣いている女性をあやすことになったのか? 女難もいいところだった。
「大きさなんて関係ありませんよ……絶対的な基準ではありませんし、俺は気にしてません」
「じゃぁ、小さくても大丈夫」
「少なくても俺は気にしてません」
決して嘘ではなかったが、乙葉の乱れた精神を落ち着かせるには方便を使うがこの場合は上策と考えた。それに個人的には人を好きになることに胸の大小など、それほど大きなウェイトを占めるものではないと、思う。
――女を好きになったことなんて、ないしな……
異性……母は家族であるから当然ではあるが、菜々緒さんもお師さんも好きだ。この感情が恋愛だとか、友愛だとか、どのような意味での好きかはよくわからない。
基本的に周囲からは浮いて阻害されていた人間だ。周囲と馴染むことができず一人だった。家庭と将棋があったため孤独ではなかったが、一日の大半を過ごさなければならなかった学校生活は孤立の日々だった。そんな人間であるし、好きとか嫌いだとかそういった感情を上手に分析できるほどの経験もなければ聡明さもない。
「でも……おっぱい……で……」
「はい?」
「出るかな? おっぱい」
「……でますよ、小さかろうが大きかろうが、いずれその時が来たら出るものは出ます」
「本当?」と、乙葉は赤くなった瞳を向けて問う。
俺は頷く。母乳の量は胸の大きさで左右されるものではないと奈々緒さんに聞いたことがある。
「信じるわよ?」
「えぇ、信じてもらっていいです」
俺は機械的に言葉を吐いて、機械的に頷く。この事態を収拾できるのなら安い行いだ。
「嘘だったら罰則よ」
「……はい、わかりました」
――一体、どんな罰ゲームなのか……
千年に一人の美少女棋士と呼ばれる乙葉だ。フラットチェストなど手割りにもならぬし、彼女の性格を含めて好いてくれる相手があらわれるのは容易いはずだ。罰ゲームは、彼女の伴侶が現れ、実際の母乳の量の結果が出てからの話だ。せっかくの罰ゲームは、その伴侶に担ってもらおう。
「オッケー、その言葉忘れないでよ。絶対に『忘れない』でね?」
乙葉は呪詛を込めるような圧のある言葉を掛けた。俺は少し恐怖を感じ無言で答えた。
「でも……あの女は、今度の対局で斬る……」
乙葉の涙は渇いたが、まだ赤み残る瞳を鋭く光らせ打倒を誓った。
「ははは、その意気ですよ……」と、俺は渇いた笑いを浮かべて言った。
乙葉は時間の経過と俺とのやり取りで気分も落ち着いたようだ。もう、去ってもいい頃合いだろう。俺も集中力を高める作業をしなくてはいけない。
「じゃぁ、俺はそろそろ集合場所に行きます……」
俺は乙葉から距離をとって頭を下げた。
「修身」
頭を下げる俺に乙葉は俺の名を呼んだ。
「ごめんなさい、対局前に要らぬ気を使わせて……ありがとう」
「……いえ」
乙葉は誤解を受けやすい人柄だろうと思う。自らに厳しくあることを尊んでいるからこそ、それを他者に要求してしまうのだろう、だから硬い気丈な印象を与えてしまうのだと思う。で、なければサムライガールなどという異名も与えられない。乙葉は実は……
――いや、錯覚だ……
盤上で語り合い通ずるモノがあったとは言え、俺はまだ彼女のことを何も知らない。そんな人間が無責任にそうこう言うのは無責任だ。
「試験、頑張って、、奨励会で待ってるわ」と、乙葉は努めて静かなエールを送ってくれる。
「すぐにあなたの前に座ってみせます」
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