弐ノ舞
「あぁ……」と、浴場に俺の声が響く。
俺は上を見上げる、浴場の上部壁面に富士山が描かれている。この壁面を見るたびに何故か日本人でよかったと感じる。
聞くところによると海外は日本ほど熟成された入浴の文化がないと聞いている。匹敵するのはなんと紀元前のローマ帝国というのだから、古代ローマ人とは気があうに違いない。
銀座という繁華街に昔からある唯一の銭湯が、俺の毎日の湯船。
俺が家に帰るのを避ける理由の一つに、自宅では必ず母が一緒に風呂に入ってくることが上げられる。低学年の時ならまだしも、いまだに隙をついて入ろうとしてくる。しかも一緒に風呂に入るのを拒否するとぐずり出す。一体どっちが子供なのか迷ってしまう瞬間だ。
店にも、一人用のシャワールームがあるが、基本的に湯船に浸かりたい派の俺は雨の日以外、銀座の唯一の銭湯で湯を浴びることで何とか凌いでいる。それに店のシャワールームは母やホステスさんたちが使うため、気恥ずかしさを感じるし、丁度ホステスさんの出入りが多い時間と重なるので、なるべく使うのを控え、この銭湯に世話になっている。
ジェットバスの泡に押し出され体が浮いてくる。いつもは湯船に浮かびながら脳内詰将棋を解くのが俺の習慣なのだが、今日はどうしても盤面に向かい合うことができなかった。
「伏見……」
いつか、こんな時が来ることは予感していた。母から手紙と大手総合通販のサバンナの配送パックを受け取った後、俺は店の自室に入り手紙に目を通した。
『拝啓 若葉萌えるよい季節となりました。修身様、お母様、お元気でいらっしゃいますか?
さて、普段はメールでお話しているため、このような形でのお話に戸惑っていらっしゃることと存じます。どうしても貴方に知らせておかなければならない案件があり筆を取りました。メールでお伝えすることに何やら味気ないというのでしょうか、軽々しいことと貴方に捉えられたくない故にこのような形になりましたこと、ご容赦ください。
先日の小学生将棋名人戦を終え、家族、研修会の指導棋士の方ともご相談し、この度の棋士梅津草一九段のご推薦を頂き新鋭棋士奨励会を受験することになりました。勉学に励むか、棋士の道を征くか、この一年大いに迷いましたが、小学生名人を連覇したこと、梅津先生の門下に誘われたことにより決心がつきました。今は八月の入会試験に向け準備を整えているところです。
貴方とはジャパンカップ以来、僕のわがままでVS研究をともにして下さり、本当に嬉しく思っていました。将棋の同志として、ともに精進できたこと感謝しています。できるならば、今後も僕とともに将棋道を歩いて欲しいと願っています。
僕と同様、奨励会に入ることを随分お悩みだったことは、貴方からも聞いていた故、差し出がましいことですが一言お誘いの言葉を伝えさせていただきました。
あの奨励会を勝ち続け、プロ棋士になれるかはわかりませんが、大好きな将棋と真剣に向き合いたいと考えています。
この先も貴方と、奨励会で、そして夢であるプロの世界でも将棋を指せることができればと夢に思っています。
しかし、僕も経験しましたが、非常に心が参ってしまう決断です。僕の一方的な夢を語り申し訳ありません。まだ、奨励会の道をお悩みなら、一考し、お母様ともご相談してください。あなたのお母様ならきっと力になっていただけるはずです。
では、体調など崩されませんよう、ご自愛くださいませ。
敬具
201x年五月一日 伏見 真改
舩坂 修身 様』
折角母が作ってくれた夕食のメニューも思い出せないくらい、俺は衝撃的をうけた。
いつかはこうなるであろうと予感はしていた。焦燥感というのだろうか、居ても立ってもいられず、叫びをあげて夕暮れの銀座を全力疾走したい気分になった。
愛棋家ならば、一度は夢見るプロ棋士、いわゆる棋士。
将棋の競技人口約九百万人と言われている。そのうちたった百六十人だけが棋士の資格を持つことができる。
言うなれば棋士は賞金の懸けられた棋戦に出場することができる資格をもった職業棋士である。棋戦は一般棋戦とタイトル戦に分かれておりそれぞれに賞金が懸けられている。特に7つあるタイトル戦は棋界でも特別視されており、タイトルを持つ者が将棋界の顔であり頂点の一角を築く。棋士は皆このタイトル奪取を目指す。
将棋の技量を示す段級位はアマチュアとプロで異なる。アマチュアは10級から八段まであるものの、七、八段は名誉段位で実際は六段までしか取ることができない。今の俺はアマチュア四段にいる。変わってプロ棋士は6級から九段まで、厳密にいえば四段以上が棋士、三段以下は棋士養成機関である『新鋭棋士奨励会』の会員である。
新鋭棋士奨励会、通称奨励会、棋士を目指す者同士が互いに潰しあい、勝ち続けた者が生き残る弱肉強食の『修羅』が巣くう世界。
奨励会会員数は平均約百六十人、6級から二段までは段級の近い者同士が対局し、既定の勝数を得ることで昇級、昇段し、既定の勝数を上げれない者は降級、降段、そして定められた年齢までに昇段できない者は奨励会より退会が命じられる。
やがて三段の昇段すると、三段リーグと呼ばれる三段同士のリーグ戦に参戦することになる。約四十人いる三段棋士同士で、年間二期のリーグ戦を戦う。そして勝ち抜いた上位二名だけが四段に昇段しプロ棋士になることができる。そして同時に力なき者は降段していくか、上限年齢に達した者は退会していく。棋士の椅子を懸けた消耗戦。そう『言葉』を持たず『棋力』ですべてが決まる地獄の修羅界、それが『新鋭棋士奨励会』だ。
小学生名人を二連覇した伏見はアマ五段、俺の持つアマ四段は都道府県代表を獲った際に授与された。
奨励会で一番低級6級の実力はアマ五段程度の棋力と同等と言われる。この話を聞けば、奨励会という場所がどれほど規格外の修羅が蠢く世界か瞬時に理解できる。
人外魔境の修羅界に踏み入れることを、あの伏見が躊躇する、というだけで俺は壁の高さに唯々、恐れるだけだ。
将棋に奇跡など存在しない。あるのは徹底した実力、リアリズムが支配する世界だ。俺も小学生将棋名人の決勝大会三位という実力がある。もちろんそれなりの自信と棋力があると自負している。
――だからこそ、冷静に自身の力と足りないものがわかる……
悲しいかな、自身の実力というものを冷静に分析し、そして悟ってしまい、それが枷となる。
――伏見は腹を括ったんだ。
俺は小学生名人戦東日本大会がはじまる直前、大会前最後一対一の将棋研究会、VSをしに調布の伏見の家に邪魔した時のことを思い出した。
「棋士なるのは夢だよ。けど、怖い」
VSを終え、雑談する中でお互いの好きな棋士の話から、話が逸れ、お互い意識しながらも決して表立って話題に出なかった将来の話になった。
「怖い?」と、俺はとっさに聞き返す。
すでにアマチュア界で、伏見真改の名を知らない者はいない。昨年最年少タイ記録の小学四年で小学生名人になった同級生のその言葉に驚いた。
「うん、ネットで知り合った人で奨励会の人が居てね」
昔は将棋道場や教室に行かなければ対戦できないと言われていたが、今はネット対戦将棋や、プロ級の強さをもつ将棋ソフトで練習することができる。アマチュアの段位試験も将棋界の総本山、日本将棋院認定の将棋ソフトと対局し規定を満たせば免状が拝領できるシステムになっている。
「その人は小学、中学の両名人を取った人でさ、去年から奨励会で指していてね。奨励会ではその人ですら並み扱いって言うんだよ」
奨励会には俺と同じ小学校高学年の棋士候補生がザラにいる。将棋界は早熟な世界で、逆に言えばその時期から奨励会で凌ぎを削らなければ大成できないとも言われている。現に『レジェンド』と呼ばれる現役にして伝説となった棋士たちは、皆小学生で奨励会に入り中学生で棋士になった人間が八割を占めている。
奨励会は上限年齢設定はあるものの、棋力がありさえすれば、どんなに若くても入会できる。伸びしろがある早い時期から強敵と『指す』ことで、より棋力が伸びることになる。逆に言えば、年を取ってからでは成長の伸びしろが少なく遅すぎるのだ。
「勝つこともできず、かといって大好きな将棋を否定することもできず……そんな話を聞いているとね奨励会で戦うことが怖く……」
伏見は言葉を止めて、目を閉じ言った「違う」
言葉を考えているようで、俺は伏見の言葉を待った。
「いや、自分の夢、自分の夢が叶わないものになってしまうことが怖くなったんだ」
伏見の強さの本質を感じた気がした。こうやって、強がることをせず、自分の弱さを認める力。俺も伏見を見習っているが……やろうと思ってもできることじゃない。
「夢は夢のままでいいんじゃないかって……将棋の他にさ、ビルが……高層建築が好きだからね。設計の道に進みたいとも思うんだけど……」
部屋の本棚には大量の棋書の他に、世界の高層建築、近代建築といった分厚い写真集や全集が並んでいた。
「でもね……それ以上に将棋が好きなんだ。考えていると本当に面白いんだ。舩坂君くんもそうでしょ?」
「あぁ、俺もそうだ……そうにちげぇねぇ」
「だから、棋士になりたい。けど、夢は夢のままでいいのかもって、思うんだ。賭ける『モノ』が大きすぎるって……」
伏見本人の口調、雰囲気、この家の生活感、そういう彼の身近にある空気を肌で感じると、やはりこの伏見真改という同級生は、俺よりも数倍聡明で、俺よりも数倍大人なのだと理解できた。これだけ聡明で優秀な彼のことだ、周囲からの期待というのか、そういう目に見えない圧をよく理解しているだろう。
「将棋やってるとさ、こう……なんつーのかな? 色んなものがわかってくんだよ。だから、ら自分の可能性やらなんやらさ、かなり正確に捉えることができっから、そう思うんじゃないか?」と、俺は今、自分が感じたことを何とか言葉にして伝えた。
「自分のことを客観して見てるってことかな?」
「あぁ、そうそう、俯瞰とか……言うんだっけな」
「俯瞰? そう俯瞰……俯瞰の風景……俯瞰だね。聞いたことがある言葉だ」と、難解な詰将棋を解いた時に見せたシコリのない表情を伏見は俺に向けた。
「伏見は、賭けるだけの力があると思うぜ。そう……そう、思うんだよ」
俺にはそれがあるという自信が、確信がなかった。だから、俺は自分の意見を伏見に語ることは避けた。同時に彼はきっと、俺に話すことで自分の考えを纏めようとしているのだな、と思った。それは、つまり、ほぼ彼なりの決断や答えがある裏返しだと思った。
少しの間があった。伏見は俺を見つめていた。天使の輪が煌く艶っぽい髪、大きく穏やかな光を放つ瞳、色素の薄い白い肌、線の細い体、男なのか女なのか、判別のつかない中世的な雰囲気が彼の何とも言えない不思議なオーラに拍車を掛ける。
「ふむん、舩坂君が将棋を好きでなかったとしても、僕は君のことを好きになっていたと思うよ」
「おま、お前、それ、ど……どういう意味だよ」
伏見は時々周囲に誤解を生むような衝撃的発言をする。風貌が女性らしいこともあるので、俺は一瞬妙な気分になった。伏見は男だ。なのに何だ、この胸の躍動は。伏見は男だ、男なんだぞ、と、俺は言い聞かせる。
「多分、芯が同じなんだ」と、伏見は変わらず透き通るような瞳を向けて言った。
「芯?」
「僕は物をよく知らないから、上手に言えないなぁ。オーラっていうのかな、魂とか、カルマとか……そういうものが多分似ているんだよ……」
――物をよく知らないって、オイオイ。
と、俺は心の中でツッコムと、伏見といると不思議な感情になることを自覚していた。そして、彼の言葉を聞いて、何か納得したような気がしていた。
ジャグジーのバブルで浮かび、追想することに気を取られた俺はバランスを崩して湯船の中に沈み、慌ててもがいた。
――お前と似ている? 俺が?
きっと錯覚だ。あの時感じたシンパシーというのだろうか? あれは錯覚だったのだ。何より、伏見の後を追いかけようと決断する度胸もなければ、ただ伏見の決断に動揺し、何故これほどまでに動揺しているか理由もわからない俺が、彼に似ているわけがない。
ただ居ても立っても居られない、そう、この銭湯の壁面タイルに描かれた鯉のように漂い、何処に向かうべきかわからない、それが今の俺の心境だった。
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