壱ノ舞

 きつくなり始めたランドセルを背に、わさわさと蔦で化粧した校舎を抜け、『なんと瀟洒なフランス門』と鼻歌を歌いながら門を足取り軽く抜けた。

 ――とりあえず、おしぼりと酒の受け取りをして……

 道路を横切り、これまた学校と同じような植物でもっさり化粧された瀟洒なカフェ沿いの道を行くと、黒猫の配送事務所が一階に入ったビルにたどり着く。

 学校から徒歩三分、ここの二階が俺の家……のようなものだ。本来は築地に自宅があるのだが、色々理由があって週末に帰る程度だ。幼い頃から、ここで生活していたので、築地の自宅は俺の家という意識が薄弱だった。

 俺はエレベーターのボタンを押して、フロア案内の看板に目を向ける。地下には創作料理の店、一階は黒猫さんと本格和食、二階から四階までは、バー、クラブ、スナックの看板が並ぶ。

 母がよく聞いていた歌で、歌舞伎町を舞台にした歌があった。当時は歌詞の意味もよくわからず、母と一緒に歌ったのを覚えている。母は女王ではなくこのビルの一角にあるスナックのオーナー。そして俺は男だから生き写しのようではないが、目元がよく似ているとスタッフのホステスさんに言われる。

 時刻はまだ三時半、ビル内は物音ひとつしない。銀座のこの辺りはは日が沈んでからが本番だ。

 最上階4階のフロアでエレベーターを下り、二軒の店を素通りして母の店へ入る。

「ただいまっと」

 店内の照明を点け調光の摘みを捻り光量を上げる。昼白色の光が店内を照らし、映画に出てくるようなマホガニー製のカウンター席が8席、奥にボックス席が2つ、そこそこ広い店内だ。

 カウンターの奥に小さなキッチンとホステスさんの控室、簡易シャワールームがある。併設して三畳程度の個室があり、そこが俺の部屋になっている。

 七年前にここで店を開くことになり、まだ小さかった俺を見ながら仕事をするために、母は店に俺の部屋を設けた。母の勤務時間にはそこで俺は眠りにつくし、閉店後は俺は幼稚園やら学校に行き、その間母は家事などこなしていた。

 店が定休の土日祝だけは築地にあるマンションに帰るのだが、正直、最近はそちらに色々な理由があって帰りたくない。母は毎日帰っているのだが、俺はここでの生活の習慣が馴染んでいる。

 できれば週末もここで過ごしたいが、母の強制執行があり築地の自宅に送還される。実際、自宅には棋書や将棋大会の副賞でゲットした足付き将棋盤があるので、将棋の勉強は捗るのだが、言ったように色々あり帰りたくない。

 ランドセルをカウンターに置くと、シルバーのトレイの上にメモ書きが置いてあった。『冷蔵庫にフルーツの盛り合わせがはいってます。食べてね』と、母の書置き。最後にキスマークがあるのだが、一体母は何を勘違いしとるのだろうか。

「どうもー」と、声が店の外から聞こえてきた。仕事の時間だ。

 出入りの業者が入れ替わりおしぼりやら、お酒やら、果物やらを届けに来る。納品書を見ながら商品ののチェックし、空瓶や空樽、使用済みおしぼりを業者に回収してもらう。

業者とのやり取りが終わると、おしぼりはタオルウォーマー中へ、酒は控室ストッカーやカウンター内の指定の場所に収納し、納品書をファイルに閉じて俺の仕事を手早く終える。

 俺は一息つくと、店の自室から卓上盤と駒、タブレット端末を用意し、冷蔵庫のフルーツ盛りを取りにカウンターに入る。

 バックカウンターの棚には各種焼酎、ウイスキーもスコッチ、バーボン、ジャパニーズが用意されコニャック、アルマニャックと高級ブランデーもこれ見よがしに並べられている。横には赤、白ワイン、シャンペンを専用に保管するワインセラーも置かれている。

 並べられた瓶の一角に、お客さんの名札がぶら下がっている物もある。グラス一杯ではなく、ボトルごと買っていただくいわゆるボトルキープというシステムだ。

 どれも原価千円程度の酒を十倍から一五倍の価格で提供する。そして俺のおやつのフルーツ盛り。これも時価×数倍の値段で提供している。

 ――いつも思うけど詐欺だにゃ、これは

 こういうと、母親はなぜこの値段なのか小一時間説明が入る。メニューの値段にはエスコートするホステスのサービス代やらスキル代が何ちゃらかんちゃらと語る。

確かに綺麗なお姉ちゃんを眺めたり、一緒に座って話をするのは面白いかもしれん。が、どうも大人の遊びは理解できない。と、素直な感想を母に言うと『あなたには一生縁がなくてもいいのよ、しゅーしん』と笑顔で褒められる。

 ――酒を飲めるようになったらわかるのか?

 俺は頭を捻りながら、ガラスの皿に盛られたメロンをフォークで突き刺して口に入れた。メロンの他にはサクランボ、ゴールデンキウイ、マンゴーに大好物のライチもある。どれもこの時期旬のものだ。大体、提供時期を逃した果物の類は俺のお菓子となる。痛み始める直前の一番熟した時期の果物は最高にウマウマだ。

 カウンター席に座り、タブレット端末で今日行われたプロ棋士の試合……棋戦のチェックし解説を読んだり、実況中継ブログや速報を確認する。一通り確認を終えると、手本にするプロ棋士の最新棋戦の棋譜を確認し実際にその棋戦を『並べて』いく。棋譜とは対局の駒の動きを記録した『ログ』だ。

将棋とは縦、横九マスずつ、計八一マスの盤、その盤上で先手、後手がお互い平手……定められた初期配置に二十個の駒を用いて、どちらが先に王将の首を取る……すなわち『詰ます』ことを競うゲームだ。

 先手側から見て盤面の一番右上を起点に縦筋を算用数字、横段を漢数字で示す。例えば先手番の歩の初期配置は七段全てに歩が並んでいる。先手が7筋の七段から歩を一マス前進すると『▲7六歩』と棋譜に記入される。初手から棋譜を並べていくと、戦いの道程がわかるというわけだ。

 将棋に慣れている者は脳内に将棋盤があり、棋譜を見るだけで脳内で戦いを再現できる。いわゆる目隠し将棋というやつだ。プロの中には目隠しを四面で指せるという猛者がいる。俺は一、ニ面なら余裕だが、三面までいくと持ち駒がごっちゃになるという欠点がある。

 このように懇意の棋士や、過去の偉大な棋士たちの棋譜を並べ、戦い方を吸収し、自分の戦法の枠を広げていく。自分の指した局面が過去の棋士たちの対局と類似する部分があり、過去の局面の反省から、打開策や対抗策、改善策を事前に研究するのである。

 一時間ほどの棋譜並べを終えると、次は詰将棋を解いていく。

 詰将棋は初期配置が予め指定された局面から、王将を詰める……つまりは王が逃げれぬように追い詰めていくパズルのようなものだ。

 将棋は最終的に相手の王を追い詰めていく戦いだ。無限の時間を有した戦いではない、お互い戦いのルールに乗っ取って思考時間が決められている。長い戦いでは八時間、短い戦いなら十分。その持ち時間が切れると、一分か三十秒で駒を進めなければならない。もちろんその時間で指せなければタイムアウトで負ける。

 王を追い詰める終盤は持ち時間を使い切っている局面が大半だ。わずかの時間でいかに王を効率よく仕留めるか、その『力』が要求される。これを終盤力と言うのだが、詰将棋はこの終盤力を鍛えるのに必要不可欠と言われている。

 詰将棋には、玉を積ます最短手順の手数が定められている。一手、三手と奇数手で決められており、王を追い詰める手数の少ない簡単な一手詰めから千五百手を超える難問もある。

 盤上で駒を並べ、さっそく課題の詰将棋に取り掛かった。フルーツを食べては、駒を動かし続ける。間違っては、やり直し、読み直し、腕を組んだり、椅子を回転させたり。一時間ほど苦悶した挙句。 

――駄目だ、ムズすぎ。

 と、投げた。

 俺はこの一年、江戸時代の棋士伊藤宗看によって作られた『将棋無双』、弟の看寿によって作られた『将棋図巧』、この二種類の詰将棋書に苦戦していた。

 ともに江戸期に作られた詰将棋なのだが、詰将棋の最高峰と呼ばれそれぞれ一冊百問ある。手数の少ない九手詰から六百を超える手詰め問題まで、難問に次難問の連続で、考えると脳が奮え、逆上せる。

 何とか、一年で三割は解くことができたが、ただでさえ難問だというのに、出てくるのが超難問、超々難問、超々々難問過ぎて、この一カ月はある問題に躓いて解けずにいた。

 名作、否、芸術と呼ばれるこの詰将棋集、ふざけた超難問の数々、こんなものを解いて本当に力になるのか甚だ疑問であるが、この二百問を自力で解けた者が四段、つまり棋士になることができると言う逸話があるということを聞いてから、俺はムキになり挑戦しているのだ。 

――本当に解けっかよ……

 手数を考え、それが詰まないことがわかると、全身の力とやる気を失わせる。まるでタクラマカン砂漠の中に落ちた小粒のダイヤを探すような気分だ。

 何故、こんなことに挑戦しているのかと自問する。最初はこれを解けばプロになれる、ということを聞いて挑戦していたからと答えていた。しかし、今は違う。投げ出してしまう自分の弱さに怒りを覚えること、そして結局は将棋が好きだということだ。

――棋士……

 夢、ただの夢だ。現実をよく見ろ。俺は自分を戒めるよう心掛けた。

「たらら♪らららら♪ららららら~♪ららら♪ららららららららら~♪」

 ――ん……この歌は?

 大きな歌声が外から聞こえた。母の大好きな映画『名付け親』のテーマだ。母曰く脳内夫はパチーノらしい。

「しゅーしん、いる~?」

 俺を呼ぶ声とともに扉が開く。 

「あぁ、おはよう母さん」

 大人しめの薄い緑のニットワンピースで『出勤』した母親は買い物袋を手にやってきた。粧し込む前、ナチュラルメイクの母が個人的には穏やかな雰囲気で好きなのだが、本人は派手な方が好きらしい。

 薄く亜麻色に染め、軽くウェーブをかけた美しい髪に色白の肌、少し切れ長の二重の目が俺によく似ている。

 ――まぁ、美人なのは間違いないわな。

 実際、あの子供名人戦の放映後の掲示板は俺の母親の書き込みで、ちょっとした話題だったことを顔を真っ赤にした伏見から聞いていた。以前、俺の家に来た時も母親の前ではコチンコチンになって、茹でタコみたいになっているのを揶揄ったのを覚えている。

 まぁ、伏見も言っていたがとにかく胸がでかい、と。伏見は色気がすごいね言葉を小声で言っていたのは笑えた。

 ――確かに、でかいわな。でかい……

 伸縮素材のニット地のワンピースなんて着てるもんだから、体の凹凸というかラインがハッキリして、なかなかマズいことになっている。

 重そうな荷物を抱える母に俺は近づき袋を代わりに持った。

「ありがと~、しゅーしんはいっつも優しいんだから」と、母は俺を愛カップに引き寄せ魔乳の谷間に俺を引き摺りこんでいく。

「母さん、勘弁してよ」

「え~いやよ、いやいや、しゅーしん反抗期来ちゃったの、ママいや、反抗期は絶対にいや」

「いや、そういうのじゃなくてさ……」

 俺の母親は、自分でもいうのが憚れるが、俺を溺愛している。人がいるとそんな素振りは見せない……と、いうよりは自粛しているのだが、二人きりだとずっとこんな調子だ。

「ママのこと好き?」と、母はまっすぐ俺を見つめる。

「いや、母さん」

「ママのこと好き?」と、再度尋ねる。

「あぁ……んっうー」

 言葉に出して好き、と告げることに羞恥を感じる年齢であることを母は理解してほしい。

「好き?」

 俺は勘弁して「あぁ、もちろん好きだよ」と、答えた。

「よかったぁ、ママも好きよ。しゅーしんのこと大好き」母は俺の頬に何度もキスをする。

「そりゃ、よかったよ」と、俺はもう苦笑するしかなかった。

「はー、おなか空いたでしょ? ごはん作っちゃうわね。今日は大根サラダと蓮根とミンチのはさみ揚げ、明太ポテサラよ」と、親指を立てて母が言う。こう見えても母は料理が得意だ。夕飯はどんなに忙しくても必ず手料理でが、母の子育てポリシーらしい。

「今やってる詰将棋が手強くてさぁ、腹減ったよ」

 将棋をするとものすごく腹が減る。実際の棋士も見かけによらず大食いの人間が多い。個人差はあるが、一回の対局で2キロから3キロ体重が落ちるという話を聞く。脳が大量にエネルギーを使うからなのだそうだ。

「そうそう、袋のなかに将棋帝国の六月号はいってるわ。サバンナから届いてたから持って来ておいたわよ。ごはん作るまで読んで待っててね」 

 将棋帝国、日本将棋界を統括する日本将棋院が直々に編集発行する雑誌だ。戦前から発行されている息の長い雑誌で将棋界の最新情報が網羅されている。ネット配信もあるのだけど、やはり紙で読む方が楽なのでこちらを買わせてもらっている。

「サンキュー」俺は心が躍った。

「あと伏見くんからお手紙届いてたわよ」

「伏見から?」

 メールじゃなく、手紙。暑中見舞いと年賀状はやり取りしているのだが、何故に手紙なのだろうか。

 その突然の手紙に俺の脳が奮えた。

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