参ノ舞


 ――空気が吸いずらい。

 ぼんやりした浅い眠りの中で俺はそう思った。だが、意識が鮮明になるにつれて息苦しさが増してくる。何とか吸い込んだ空気には覚えのあるボディソープの匂いが混じっていた。

 ――母さんか?

 母は俺を抱きしめ愛カップに埋めるようにぴったりと俺にくっ付いて寝息を立てている。

「んぐぐっ」

 俺は何とか母が起きないように愛カップから脱出しようとすると、母は逃がさないように羽交い絞め、挙句、足でロックを掛ける。

 ――毎度のことだが起きてるんじゃねーのか?

 母は俺の回避運動を予測したように退路を塞いでくる。将棋でいう玉を追い詰め退路を断っていく『寄せ』が半端ない。

 ――抵抗は詮無い、ここはあえて受ける……

 母の寄席に対し俺は体をくねらせこちらも母を抱き締めるように手を背中に回す。

「うんっ」と、母は嬉しそうな寝言を上げ、俺を抱き寄せる力が増す。

 母の『寄せ』を真正面から『受け』た。これが俺の勝利の方程式だ。母に背に回した手で、長年研究した『愛カップ寄せ』の『受け』定跡を発動する。その定跡とは……ブラジャーのホックを摘まんで捻ることだ。

 ホックが外れた瞬間に愛カップが堰をきって氾濫し、「んー」と、母の不機嫌そうな声が漏れと同時に一瞬母の力が緩む。その瞬間を逃さず俺は体をくねらせてベットから脱出した。

 ――悪いね、母さん。

 疲れて眠る母に謝ると乱れた布団を母に掛けなおすし、俺はテーブルの上に置いたジャージを手に控室に出た。

 洗濯籠に寝間着を入れるとジャージに着替え、歯を磨き、顔を洗うと、日課の散歩に出かける。

 外に出ると濃紺の空が広がる。丁度、夜と朝の境目、この時間が好きだった。

 始発近くまで営業しているキャバレーのホステスさんが仕事を終えて、丁度駅に向かって行く。ふらふらになって座り込むサラリーマンと思しき人もいれば、新聞を配るバイクの音が響く。町が目覚める前の時間。時々、道端でリバースの汚物があるのは愛嬌だ。

 店を出ると通学路を辿り、学校とには向かわず真っ直ぐ歩く。東海道新幹線の高架下を潜って帝国ホテル、日生劇場の間を通って突き当りの日比谷公園を目指す。公園につく頃にはすべてを浄化するようなさわやかな日差しが出迎えてくれていた。

 公園に入ると噴水広場の前で一人ラジオ体操を行う。ラジオ体操第二までしっかりやると、うっすら汗が滲み、エンジンが掛ったように脳がまわってくる。

 頭に浮かぶのは伏見のこと、そして奨励会のことだ。

 ――しっかり、決めなきゃな。

 どうにも、頭でっかちで、尻込みするのが俺の欠点だ。目を背けて事態を流していただけ、しっかり問題に目を向けて、解決しなければならない

 母からは中学受験の話が持ちかけられている。そういう意味では進路というのか、そういう話をいつかはしっかりとしなければならない。それは必ず向き合わなければならない。

 それに薄々は気が付いていた。ここで挑戦することをしなければ後悔することを。これだけは間違いない。

「伏見は気づいていたのかもな……」

 きっと、伏見は俺の迷いに気が付いていたはずだ。だから、俺を奮い立たせようと手紙なんぞを寄こしたのだ。

 実際、伏見の手紙を読んで、居ても立っても居られなくなった。何か心の奥底から追い立てられるような、そう、あの対局の終盤の秒読みされるかのように。伏見の手紙は俺のエンジンに火を入れたのだ。そのエンジンの力をどう使うかが、俺の今の問題だ。

 自分の意志というものを自覚し確認することで、エンジンは意志というギアに動力を伝えギアは体と心というタイヤに行動を促す。

「何が怖いってんだ? 何を迷っている」俺は自分に問いかける。

 ――負けること…… 

 対局での敗北、それは今まで自分が積み上げてきた物すべてを否定されたような激痛だ。今まで数えきれないくらい涙と鼻水を流し、悔しくてトイレの壁に拳を叩き続け血を流したこともある。

「棋士になれなかったら?」

 奨励会を去っていった人間の話は数えきれないくらいある。本でも目にしたし、ネットにもその手の話題は事欠かない。好きで仕方がない将棋、目指してきた夢が無残にも現実に否定されていく。夢を諦めざるを得なかった奨励会員の心境に心が締め付けられ愕然となる。

 負ける度に何度も駒と将棋盤を捨てようと思った。棋士など夢物語だが、なまじ中途半端な棋力があるため『自分ももしかしたら』と、夢をみてしまう。

 しかし、どんなに悔しかろうが、どんなに現実を見せつけられても駒を手にした。悩むのならば、挑戦するしかない。そして玉砕すればいい。自身でも否定できない状態に追い込めば、諦めきれない俺の心を『将棋の呪い』から解放してくれるはずだ。

 何より、未来を恐れて挑まなかったことを後悔して生きていくことはツライと思う。そんな思いを抱えて生きるのならば、挑んで玉と砕ける方が清々しい。

 ――スタンド&ファイト……

 母が俺にくれる言葉、元々は、ボクサーに対してトレーナーが言った言葉だそうだ。そして俺が負けた時には必ずそう言ってくれた。自分を奮い立たせ、立ち上がって挑んでいかなければ道は開かれない。それはきっと女手一つで俺を育て、水商売の世界で生きてきた母自身が自分に言い聞かせてきた言葉に違いなかった。

 立って戦う、今もきっとその時なのだ。

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